第四話 嵐の夜
「灯火、水が入ってきたよっ」
「すくい出すんだ、急いで」
「わかったっ」
廻が木桶で水をすくう。その前で僕は、ひたすら舟を漕ぐ。
「きみ、けっこう冷静だね」
「そうかな」
嵐の中を、手漕ぎの小舟で突破する。そりゃまあ控えめに言っても、命知らずの蛮行だ。僕らの舟はどうにか砂浜から湖へ出たけれど、漕ぎ始めた頃にはもうすでに転覆寸前だった。
僕が、人形としての怪力を生かして思いっきり漕ぐことで、力任せに舟を進める。廻は、降り注ぐ雨や荒波で入ってきた水をすくい出しながら、こまめに動いて揺れる舟の体勢をどうにか保つ。
二人で力を合わせあって、どうにかこうにか、小舟は吹き荒れる嵐の中を、掻き分けるように進んでいった。
そう、進めていたんだ。いつものように
「灯火、これ、行けるよっ」
汗と大雨と荒波でずぶ濡れになりながらも、廻は目を輝かせた。濡れてぼさぼさになった長い白髪を振り回して、一生懸命水をすくい出すその動きにもキレがでてくる。
暗夜に加えて、激しい雨。一寸先も見通すことはできない。でも、こうして少しずつ進んでいけば、いつかどこかにたどり着けるはずだ。
「うん、行けそうだ」
確かな手応えを、感じてた。このままいけば、あるいは――。
でも、世界はそんなに甘くは無くて。
唐突に、底から突き上げられるような衝撃が、舟を襲う。
「きゃっ」
「うわぁっ?」
咄嗟に廻の手を掴んで、その場に踏ん張る。どうにか放り出されはしなかったけど、そのせいで梶を手放してしまった。
この衝撃は、波じゃない。何か硬いものが底に当たったんだ。
舟の下をのぞき込もうとした、その時だった。
二撃目が、僕らを襲った。
直撃の轟音と共に、ミシィッ、と底の木材に亀裂が走って、僕らは二人で抱き合って舟にしがみつくしかない。
「これ、岩じゃないよっ」
僕らに突きつけられたのは、いささか信じ難い事実だった。
何か巨大な生物に、下から攻撃されている。そうとしか考えられない。
どうすることもできずに、三撃目。ついに小舟が、真ん中からまっぷたつにへし折れた。
浮遊感が僕らを襲う。
「め、ぐるっ」
どうにかこうにか廻の手を掴んだ。僕にできたのは、そこまで。波に飲まれて、上下の感覚が分からなくなる。
不幸中の幸いは、僕が木でできた人形だったこと。僕の体は水に浮くんだ。だから、廻を手繰り寄せて、辛うじて溺れるのを避けることができた。
「廻、だいじょうぶ?」
「う、うん。なんとか」
水を飲みこんだのか、激しく咳き込みながらも、廻は無事だった。そのことに安堵して、ふと気付いたんだ。
辺りが静かすぎることに。
いつのまにか、僕らの周囲だけ、雨も波も風も、全てが収まっていた。まるで、自然が僕らを恐れているかのように。
何かが起こっている。そう廻に伝えようと振り向くと、彼女は茫然とした表情で、空を見上げていたんだ。
つられて上を見て、僕は心の底から驚いたよ。
そこに、何がいたと思う?
「り、龍だ」
「龍、だね」
そこには、一体の龍が、いたんだ。
そいつは、蒼くて長い巨体を波打たせながら、そこに浮かんでいた。
波も風も雨も、龍を避けるように過ぎ去っていって、そこだけが静寂に包まれる。雲の裂け目から降り注いだ一条の月明かりが、透き通る蒼い鱗を暗闇に映し出していた。
美しかった。不思議と、恐怖は感じなかった。ただ、畏怖というか、自分より格が高い存在を前にして、心が震えたあの感覚を、今でも思い出せる。
頭上高くに浮かぶその威容を、呆然と仰ぎ見ることしか出来なかった。
僕らを睥睨する二つの蒼い瞳は、どこまでも凛々しく、荘厳としている。
そして、声が響いた。
『今すぐ引き返しなさい、島へ』
◆◇◆
「龍の口は動かなかったけど、頭に響いたその声が蒼い龍のものだって、すぐにわかったよ」
少女のようにも、青年のようにも、老婆のようにも聞こえる、不思議な声音だった。暖炉の灯を眺めながら、少年はそう語る。
「龍――東洋のドラゴン、か」
東方の地のドラゴンは、蛇のように胴が長いのだと聞いたことがある。もっぱら悪役であることが多い神話のドラゴンだが、東洋の龍はそれとは逆に、神として崇められていることもあるらしい。
しかし、その存在も今となっては、神話時代の幻想だ。妖鬼であるおれからしても、空想の生物だとしか思っていなかった。
「それが実在するとは。流石は神々の時代、常夜といったところか」
「うーん、あの龍に関しては、今もどっかで生きてるような気もするけど」
どうやら龍は、いまもこの世に実在するらしい。いつか会ってみたいものだ。
「それで、その龍に引き返せと言われたきみらは、どうしたんだ」
「もちろん、従わなかったよ」
もちろん、ときた。
「龍と敵対した、と?」
「そうだね。だって、廻が諦めてなかったから。それに、僕って実はけっこう強かったし、いけるかと思ったんだけど」
灯火は、苦笑いを浮かべた。
「それがぜんぜん、相手にもならなかった」
死ぬかと思った、と少年は言う。
「というか、一回死んだかもしれないね、あの時」
「それはおかしいな。だとすれば、いまここにきみは居ないはずだ」
にやりと笑って、少年はひと口、酒を呑む。
「まあ、聞いてよ。果たして僕らがどうやって、窮地をくぐり抜けたのかを」
◆◇◆
「嫌だ。わたしたちは、戻らない」
即答したのは、廻だった。
「だから、そこをどいて」
強い眼差しと、毅然とした口調で、強大な敵対者に歯向かう。
でも、龍にとっては、そんなのは取るに足らない抵抗だった。
『戻りなさい。できれば、あなたを傷つけたくはない』
強者の余裕をもって、宣告してくる。
その存在感に、廻がほんの僅かに怖気づいたのがわかった。だから、僕が言葉を引き継いだ。
「どうして、通してくれないのさ。まずは、理由を教えてくれないかい?」
『あなたは、そう。人形なのね』
二つの蒼い瞳が、興味なさげに僕を一瞥する。
『あなたに語ることは無いし、用もない』
おもむろに、龍は、その巨体を鞭のようにくねらせ始める。
ぞわり、と悪寒が背筋を走った。
『邪魔よ、消えなさい』
水上だから、身動きもとれない。咄嗟に左腕を前に掲げる。
次の瞬間、隕石でも直撃したかのような衝撃とともに、僕の左腕は肩からもげて吹き飛んでいった。木と土でできた、人形の腕となって。
竜の攻撃だ。たぶん、その長い尾による叩きつけだったんだろう。
速すぎて、僕にはその動きを見切ることができなかったんだ。
「灯火っ」
攻撃の余波に揉まれながらも、廻の叫びが聞こえた。
残された右腕で、できるだけ遠くに彼女の小さな体を突き飛ばす。
二撃目を防ぐ時間なんて、残されてなかった。
気づいたときには、眼前に蒼い鱗が迫っている。
最後に、誰かの悲鳴が聞こえたような気がして。
衝撃とともに、僕の意識は暗転した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます