第七話 決戦の冬
少女は、枯れた桜の並ぶ湾に辿り着いた。極寒のただ中、僅かに灯った炎を道標に。
進んだ先は終点。分かって、少女は歩みを止めなかった。
彼女の周りには、冬が渦巻く。力無い者は踏み入れることのできない、氷の結界。
一歩、その一線を超える者がいた。雪に溶けこむコートを羽織った女性。赤かった髪は白く染まり、体中が氷に侵されている。
変わり果てた彼女を前にして、少女は固く、手を握りしめた。
「ばんにん、アルマだったの」
「はい」
つり上がった眦を、女性は少しだけ緩ませた。
「どうして、いなくなっちゃったの」
うつむきがちに放たれた、震える声。受け取った女性は静かに目を閉じて、たった一言、言葉を紡いだ。
「ごめんなさい」
絞りだすように、エミリーが言葉を繋ぐ。
「あえて、よかったの」
「はい」
懺悔するように、アルマはうなだれた。
「エミリー。私はあなたに、ひどいことをしました」
人として、姉として、許されないことを。
「とーかから、きいたの」
「そうですか、彼が」
罪をつきつけられた咎人は、観念したように、吹雪く空を仰いだ。
「もし、よければ」
おもむろに、アルマは口を開く。
「あなたの選んだ道を、聞かせてくれませんか」
少女はまっすぐに、アルマを見つめた。
「さくらを、さかせるの」
「それがどういう意味かは」
「わかってるの」
青い瞳に、吹けば消えてしまいそうな小さな光が、ぽつんと宿っている。
「そうですか」
荒れ狂う風の中にあって、声は不思議と、あたりに響いた。
「あなたはきっと、そう言うと思いました」
昔から、妙に頑固でしたから。アルマの視線が、少女の青い瞳を中心に、揺れる。
一瞬の、静寂があった。女性は力を失ったように、地に膝を着く。
「ごめん、なさい」
彼女の細められた目尻から、一滴、氷の粒がこぼれ落ちる。
「私たちが、あなたを殺した。私はあなたを、救えなかった」
少女は姉へ歩み寄った。
「わるいことしたら、ばつがいるの」
審判を受けるように、罪人は力なく、頭を垂れる。エミリーは静かに、告げた。
「あなたは、わたしのゆめを、かなえなさい」
呆然と、アルマは顔を上げる。
「さくらをさかせて、わたしといっしょにみるの」
「エミリー、それは」
少女は背伸びをして、白くなった姉の髪に、手を置いた。雪のように冷たい表情に、暖かい色を溶かし込んで。
「おねがいなの、おねーちゃん」
アルマの瞳が、この上なく、大きく見開かれた。
「いいの、ですか」
すがるように震える声に、エミリーは小さく頷く。
「わたしの、たからものだから」
それが例え、仕組まれたものだったとしても。
「おじいちゃんとおねーちゃんがくれた、だいじなゆめだから」
胸を両の手でかき抱いて、必死に嗚咽をかみ殺す姉の頭を、エミリーは撫で続けた。
月がちょうど、頭上に上がるころ。立ち上がった番人の双眸に、涙はない。彼女は白衣の内から、小さなガラス玉を取り出した。懐かしそうに、エミリーは瞳を細める。
「やっぱり、おねーちゃんがもってたの」
透き通る玉の中に浮かぶ、一枚の花弁。純白に、わずかに朱が差している。
少女は胸にかけた銀のペンダントをぱかりと開けて、姉に差し出した。
「じゃあ、おねがいなの」
開けかけた口を、アルマはつぐんだ。もう言葉は必要ない。
深く息を吸って、吐く。
「わかりました」
轟々と唸る吹雪、極寒の中を、アルマの指先は迷わず、ペンダントへと向かった。
終わる。海に沈んだ幻想街の物語が。誰に知られることもなく、ひっそりと。
そんなの、悲しすぎる。そんなこと――。
そんなこと、させるものか。
冬の片隅に、灯火が宿った。
雪煙を上げて飛び降りると、番人の持つガラス玉めがけて蹴りを放つ。
「ぐうっ」
大きく跳んでかわされた。けれど、彼女ら二人の距離が空く。
四方八方から、吹雪が吹き付ける。底なしの冷気が、双翼の守りを容赦なく突き抜けてくる。けれど、退くわけにはいかない。
「やめてっ、とーか!」
背にかばう少女が、悲痛な叫びを上げる。
「やめないよ」
やめたら君は、死んでしまうじゃないか。
エミリーは苦しげによろめき、膝をついた。彼女を覆う冬が、強くなる。
「ごめん、エミリー」
言ったきり、敵に意識を集中させる。廻なしで双翼を維持できるのは、数十秒がいいところ。動けなくなる前に、アルマから鍵を奪い取って、破壊する。
雪煙の向こう、番人が片手を上げるのが見えた。攻撃が来る。
炎の翼を広げ、壁のように迫る致死の吹雪へと、僕は飛び込んだ。
◇◆◇
「今思えば、ずいぶんと無鉄砲な行動だった」
鍵を破壊するだけでは、ことは収まらない。冬の女王を再び封じ込めることが出
来たとして、エミリーを街の外に連れていける保証はない。
「それでも。眼前の破滅を少しでも遠ざけれれば、可能性はある」
「なんとも無責任なことだ」
浮かべていた薄い笑みを、灯火は消した。
「ほんとにね。でも、エミリーを生かすには、それしかなかったんだ」
◆◇◆
回し蹴りが、番人の脇にのめり込む。鈍い低音と共に返ってくる、硬い氷の感触。
吹雪に紛れるようにして、拳撃が流星のごとく迫る。大振りなそれを、薄皮一枚でかわした。掠めた髪が、ぴきりと凍りつく。すかさず左から殴りつけてくる、死の吹雪。無い腕の代わりとばかりに、炎を寄せ集めて防ぎ、また一歩、僕は踏み込んだ。
敵をエミリーのもとに行かせたら負けだ。相手のふところに潜り込んで行かなきゃならない。不利な環境で、時間も残り僅か。
番人の乱打をいなして、氷のように硬い体へ、拳を撃つ。極寒の中にあって、脳は焼き切れてしまう程に回り続けていた。次はどう踏み込む。どこから打撃が跳んでくる。
細い糸の上を歩いているようだった。落ちた先に待っているのは、一人の少女の死。
目を見開いて、歯を食いしばる。守るな、攻めろ。逃れられないほどの、手数を。
ひとつの拳と二本の脚を入り乱れさせ、殴る。ぴきりと、番人の脇にヒビが走った。
ただ一点、攻め切れない場所がある。番人は左胸を死守していた。鍵がそこにある。
苦しげに歯を食いしばるアルマが、胸の前で交差した腕に、鋼の氷をまとわりつかせた。突破できれば勝ち、できなければ負け。
ただひたすら打ち込む。雷のような轟音が響き渡った。氷が白く、削られていく。打ち込んだ手足が、先から凍りつき始めた。双翼の守りはもうもたない。体が動くのも、数秒といったところだった。一心不乱に、打撃を浴びせる。蹴りとともに、氷に亀裂が入った。代償とばかりに左足が動かなくなる。残り二秒。右足が凍りつくとともに、氷はついに砕け散った。
あと一撃。残された時間は、瞬きひとつ。
がむしゃらに突き出した拳は、鈍い破裂音を立てて、番人の胸に突き刺さった。
ガラス玉を打ち砕いた手応えは――無い。
ゆらりとよろめいたアルマが、倒れ際に、手元からきらりと光るものをこぼす。吹雪にのって、ころりと転がり、雪上で止まる。
ガラス玉、鍵だ。目の前に、手を伸ばせば届くところにあるのに。氷に侵された体は、思うように動かない。それでもぎこちなく、手を前に突き出した。
番人の生み出していた吹雪が消える。今にも意識を手放しそうなアルマも、雪原を這って、鍵へと手を伸ばす。
「とどけ」
それは、僕とアルマ、どちらの叫びだっただろう。
「とどけっ!」
そして、鍵に指がかけられる。
それは、僕の指じゃなかった。アルマの指でも、なかった。
細くしなやかな褐色の指先が、ガラス玉を拾い上げる。銀の髪を持つ少女は、伏せた目で鍵をじっと見つめた。
廻だった。全身に凍傷の傷を負った少女が、おぼつかない足取りで、僕に向き合う。
「め、ぐる。それを、壊して」
アルマは何も言わず、静かに廻を見つめた。
「灯火。それは」
廻の声音は、硬い。彼女は静かに目を閉じて、口を開ける。
「それは、エミリーが望んだこと?」
その問いに、僕は答えることが出来なかった。
「そう。やっぱり、そうなんだ」
沈黙が、答えを示す。
「エミリーは、桜を咲かせることを選んだんだね」
「何を、言ってるんだ」
焦りが、僕の語気を荒くした。
「君だって、エミリーに死んでほしくないだろっ?」
「あたりまえだよっ」
必死に押し殺した何かを吐き出すように、廻は叫んだ。
「でも、それでも」
彼女は硬く、拳を握りしめる。食い込んだ爪の先から、真っ赤な雫がこぼれ落ちた。
「辛いんだよ。夢を叶えることもできずに、小さな街で一生を過ごしていくのは」
声音は、迷いを孕んで揺れている。
「なら、エミリーをここから連れ出そう。君と僕なら、できるはずだ!」
廻は弱々しく、首を横に振った。
「ダメなの、灯火。あたしの時とは違う。エミリーはもう、生きてない」
淡々と、揺るぎない事実のように、彼女は告げる。
「死者を現世に呼び戻すことは、できない」
それが、夢が現実となった常夜の世を支配する、唯一にして絶対の法則。
「失われたものを元に戻すことは、できないの」
彼女の言葉には、なぜだか、真実の響きがあった。
「だからエミリーも、最後にはきっと、諦めと絶望に潰される」
それはかつて、彼女が辿ろうとした道。廻とエミリーは、よく似ている。境遇も、魂の形も。だからこそ、廻にはエミリーの行く末が見えていた。
「ごめんね、灯火」
泣きそうな声音。ゆっくりと、廻が目を開ける。
「きみの言ったとおりだった。あたしは弱くて、助けるなんて出来っこなかった」
陰を含んで、それでも北極星のように真っ直ぐな輝きが、そこに宿っていた。
「それでも、せめて叶えることが、出来るのなら」
見つめるのは、荒れ狂う冬の結界、その中心でうずくまる少女。
ガラス玉を握りしめて、廻は一歩、歩き出す。
「お願い、します」
落ちてしまいそうな目蓋をかすかに上げて、アルマが呟いた。
雪をかき分け、廻が進む。行かせてしまえば、エミリーが死んでしまう。
「だめだ」
エミリーに、死んでほしくない。その胸の痛みははきっと、僕自身のもの。人形には、持ち得るはずの無いもの。
「待ってくれ」
僕は人形であるには、
「それも、浪漫だって言うのかいっ」
少しだけ立ち止まって、彼女は振り向くことなく、絞りだすように呟いた。
「きっと、浪漫だよ」
少女は再び歩きだす。
エミリーの創る冬の結界へ、廻は怯むことなく脚を踏み入れた。握った花弁が少女を守り、吹雪の中でもがきながら、彼女は進んでいく。
「それが、浪漫なら」
吹雪に遮られて、僕の声は届かない。それでも、叫ぶ。
胸の奥が、締め付けられるように熱かった。
「そんなもの、僕は要らないっ」
熱の暴走するままに声を上げる。吹雪の壁の向こうで廻が、銀のペンダントを手に取る。
鍵を握る少女の右手が、動いた。その手は、ペンダントに重なって。
かちりと、音が聴こえた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます