第八話 桜咲く冬

 ひらり、雪粒が舞い落ちる。一面、真っ白に覆われていた。


 吹雪は暖かく、優しく、僕らを包み込む。


 ひとつひとつの雪粒は、雪じゃなかった。丸くて、薄くて、ほんの僅かに紅い。

 ああ、僕はその色を、見たことがあった。

 雪も、氷も、はじめから無かったみたいに、消え去って。大地に緑が芽を出している。肌に触る空気が、暖かい。ほのかに漂う甘い香りにつられて、なんともなしに顔を上げる。


 朱の差した、透き通るような白が、淡く、瞳を埋め尽くした。


 呼吸を忘れる。揺らめく月明かりの下、立ち並ぶ木々が。空を覆い尽くすように、枝のあちこちに小さな花を咲き誇らせていた。


「これが、桜」


 薄桃色が、夜空に浮かぶ。さあっと、風が木々を撫でて、通り過ぎていった。花の房が揺らめいて、あっさりと散っていく。

 目に映る輪郭の全てが、朧気に揺らいでいた。体も心も、花びらと解けて、飛んでいってしまいそうだ。


 花弁が辺りを踊りまわる。それはやはり、雪のようで。

 散りゆく花々が最期に魅せる、ほんの一時の幻想。


 僕は、桜吹雪の中に立っていた。


「きれいでしょ、なの」


 紛れるように、ちょこんと、金髪の少女が立っている。

 桜を見上げるその顔に、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 吹けば散ってしまいそうな、微笑み。


「ああ、綺麗だよ」


 思うままを口にする。エミリーは白い歯を見せて、にかっと笑った。


「とーかのおかげなの」


 それはきっと、彼女が元から持っていた笑顔で。


「ありがとなの」


 花びらに包まれる少女へ、手を伸ばす。

 伸ばした指は、空を切った。少女の体が揺らめいて、倒れる。

 その肩を抱きとめる手があった。


「よく、頑張りましたね」


 いたるところにヒビの走る体を、引きずって。アルマは倒れこむエミリーを支えると、桜の根元に、崩れるように座り込む。

 その木は、最初の一本だった。多くの枝が折れたのに、残った枝にはところ狭しと桜が咲く。

 姉にもたれかかる少女の頬は、白い。春が来て、そこだけに雪が残っている。


 頭では分かってた。桜が咲いたということは、冬の女王が消えたということだ。

 ふっと、膝から下の感覚が無くなる。すんでの所で、褐色の腕が僕を支えた。

 銀髪の少女は顔を歪めて、それでも泣くまいと、必死に唇を噛み締める。


「おめで、とう。エミリー」


 無理やり笑みをつくって、震える声で廻は語りかけた。


「夢、かなったね」


 エミリーは弱々しく頷いて、悲しげに笑った。


「ごめんなの。いっしょにたび、できなくて」

「うん」


 廻は小さく、首を振る。それ以上はきっと、せき止めている感情が溢れてしまう。

 桜の花びらが、エミリーの頭に、はらりと舞い落ちる。少女はおもむろに、首から下げたペンダントを外した。


「とーか」


 手招きされるままに、少女の前に座る。小さな手が、僕の首に回された。


「エミリー、何を」


 僕の胸に、ペンダントがかけられる。手に取るとふたが開いて、そこにはぽつりと桜の花びらが埋め込まれていた。


「とーかに、あげるの」

「でも、これは」

「いいから、なの」


 戸惑う僕に、アルマが微笑む。


「貰ってあげてください」


 握ったペンダントは、氷のように冷たくて。でも、小さな炎が灯っているのを感じる。


「分かった。大事に、大事にするよ」


 エミリーは満足そうに頷くと、桜を眺めた。風に寄り添って、花びらが舞い踊る。


「思い出しますね」


 アルマは、懐かしそうに目を細めた。


「三人で、桜祭りに行った日を」

「おさけ、おいしかったの」

「あなたが日本酒を一気呑みしたのには、肝が冷えましたよ」


 楽しげに、姉と妹は思い出をなぞる。


「おじいちゃんが、のめのめって」

「まったく、止めるのが大変だったんですから」


 アルマが空に手をかざす。氷で出来た小さな器がふたつ、手の平に生まれる。

 懐から小さな瓶を取り出して、女性は中身を注いだ。


「おじいちゃんにも、みせたかったの」


 桜吹雪が、二人を包む。


「きっとどこかで、見てますよ」


 ひび割れたたアルマの手が、ゆっくりと、金色の髪を撫でる。


「さくら、きれいなの」

「ええ」


 姉の持つ器が、妹の唇に添えられた。

 エミリーはほんの僅かに、中身をすすって。


「ああ」


 まるで、夢を見ているようだった。

 姉の腕の中で、白い夢に包まれて。少女はゆっくりと、まぶたを下ろす。


「あたた、かいの」


 それは、無垢で、穏やかな寝顔だった。


「おやすみなさい、エミリー」


 長い、永い眠りだ。


 つうっと、頬を雨が伝った。空を見上げる。揺らめく月と、舞う花びら。雨は降っていない。


「あ、れ」


 雨は止まない。空いてしまった心の穴を満たすように、とめどなく降り注ぐ。

 どさりと、廻が膝をつく。彼女の顔にも、やっぱり、大雨が降っていた。


「灯火くん、廻さん、ありがとうございました」


 アルマの声に、顔を上げる。


「お別れです。街は間もなく、沈みます」


 ぺき、と甲高い音を立てて、揺らめく夜空に白い亀裂が走った。

 行かないと。ただその一心で立ち上がる。


「君は、どうするんだ」


 問いかけに、アルマは笑みを返した。


「私の体も限界です。それに、せっかくエミリーが見せてくれた景色ですから」


 最期まで、見ていこうと思います。


 遂に、夜空が割れた。勢い良く流れ込む水が、濁流となって街を洗い流していく。

 アルマがこちらに、手をかざした。僕らを覆うように、透明な氷の球が創られる。濁流は、すぐそこまで迫っていた。氷壁に阻まれて、声はもう、もう届かない。

 圧倒的な水流が、少女の一瞬の夢を押し流していく。夢は夢でしか無いのだと、見せつけるように。


 水に呑まれる、最後の瞬間。アルマの口が、動いた。

 よい、旅を。


 そして、水はすべてを遮って、何も見えなくなる。残ったのは、むせび泣く少女と、呆然と涙をながす人形。大きな悲しみを乗せて、氷の球は、上へ、上へとのぼっていく。


 海の上。広大なる、外の世界へ。

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