第二話 人魚の瞳

「さて、つきました」


 エドワードの一言に、足を止める。


 朽ち果てた街の一角で、その場所だけはまだ、生きていた。広場の真ん中で、暗い夜空を染めるほど大きな篝火が、轟々と燃えている。炎を囲うように建つ家々の壁は、木や鉄の板でつぎはぎだらけに直されていて、玄関には松明が掲げられていた。


 がやがやとしたざわめきが、耳元に届く。僕らの視線は自然と、篝火の周りに座っている十数人の男たちに向いていた。


「おーい、いま帰りました」


 エドワードの声が、集落に響く。人々の目がエドワードへと向き、隣に立つ僕らを見て、誰もが目を丸くした。

 辺りがしんと静まり返る。篝火の弾ける音だけが響く中で、男がひとり立ち上がった。背が高く痩せた彼は、黒髪から覗く細い瞳を、さらに細める。


「おいエド、そいつらは」

「安心してください、ハリス。彼らは久しぶりのお客さんです」


 訝しげな視線が僕らを舐める。男たちは皆、似たような表情で黙り込んでいた。

 するりと銀の髪をなびかせて、意を決した様子の廻が一歩、前に出る。


「あ、あの、こんばんは! あたし廻っていいます、こっちは灯火」


 緊張に少しだけ頬をこわばらせて、少女は語りかける。


「あたしたちは、綺麗な景色を探して旅をしてるの。それで、食べ物を探してたらエドワードと会って、寄って行かないかって言われて」


 男たちからの視線に、エドワードはひとつ頷きを返した。


「だから、その。どうぞ、よろしくお願いしますっ」


 勢いよく頭を下げる廻。辺りに沈黙が訪れた。炎がゆらゆらと人々の頬を照らしている。

 男たちの視線が、交錯する。ハリスと呼ばれた黒髪の男が、ひとつ声を上げた。


「エドが良いと言うなら、構わない」


 続いて、他の男たちも三者三様の声を上げて、頷いた。

 ぱっと、少女は笑みを浮かべる。エドワードが数歩前に出て、くるりと振り返った。


「そういうわけで。ようこそ、僕たちの集落――『残り火』へ。君たちを歓迎します」


 ◇◆◇


「残り火は総勢十五人の、小さな集落だった」


 星の瞬く夜空の下で、灯火は語る。


「ほぼ全員が、屈強な男たち。そのまとめ役が、エドワードで。そして、彼らはみんながみんな、家族だった」


 どこか憧れるような表情で、人形は言った。


 ◇◆◇


 篝火を囲んで、集落の男たちと食事をとっていたときのこと。


「家族って、じゃあみんなは兄弟なの?」


 驚きに目を丸くする廻に、男たちの間で野太い笑いが上がる。


「そういうことじゃないですよ、廻。血が繋がってるわけじゃあない」


 不可解そうに眉根を寄せる少女へ、エドワードが少し焦げた串焼きを差し出した。


「血は繋がってなくても、家族なんです」


 少し照れたエドワードに、隣りに座った黒髪のハリスが、鼻を鳴らす。


「臭いことを言うな」

「良いじゃないですか。あなただって家族ですよ?」


 嫌そうに顔をしかめるハリスに、一同から再び笑い声が上がった。


「家族、かあ。そういうのも、あるんだ」


 がやがやと盛り上がる彼らを、廻は片隅で眺める。蒼い瞳は、篝火と共に揺れていた。


 ◇◆◇


「彼らはみんな、気の良い男たちだった」

「集落には男しか居なかったのか?」

「いいや、ただ一人だけ女性がいた。エドワードの奥さんで、そんでもって」


 彼女はとても大きな秘密を、抱えていたんだ。


 ◇◆◇


 女性は椅子に座って、無表情に頭を下げた。

 明るく青みがかかった瞳に、肩の下まで伸ばした藍色の髪。釣り上がった眼尻が、整った顔立ちと相まって、少しだけきつい印象をあたえている。


「妻は、足と声が不自由でね。座ったままで、許してやってほしい」


 ランタンに火を灯したエドワードが、炊事場でがたがたと音を立てながら、声を上げた。


「わたし、リオ。よろしく」


 女性――リオの声はか細くて、どこかぎこちない。


「廻って言います。よろしくね」

「灯火だ」


 名乗りを返しながらも、僕達は彼女から目が離せずにいた。ゆったりとした白いワンピースを着るリオ。そのお腹が、ぽっこりと膨らんでいたんだ。


「リオさん。もしかして、そのお腹は」


 尋ねる廻に、リオは薄く微笑んだ。


「赤ちゃん、いる」

「やっぱり!」


 目を輝かせた少女はしゃがみこんで、膨らんだお腹をじっと眺める。


「すごいね、灯火。ここに、赤ちゃんがいるんだよ」


 ぼんやりとした相槌を返す。そんな僕にお構いなく、廻はリオの子供に夢中だ。


「どうです、驚いたでしょう。ハリスの見立てじゃ、あとひと月で生まれるらしいです」


 湯気の上がるコップを四つ持ったエドワードが、得意気に居間の戸をくぐる。


「ハリスさん?」

「ああ見えて彼ね、昔は医者をやってたんですよ」


 机に置かれたコップから、どこか苦味のある独特な香りが漂う。


「もし、よかったら。触って、みる?」


 首をかしげるリオに、廻は千切れんばかりに頷いた。


「いいですか、廻さん。慎重に触るんですよ、慎重に」


 硬い声でエドワードが口を出すと、伸ばされた廻の手がぴくりと止まる。リオはやれやれと肩をすくめると、膨らんだお腹を軽く叩いてみせた。


「ほら、大丈夫、だから」


 廻が唾を飲み込む。ゆっくりと、彼女の伸ばした手の平が、リオのお腹に触れた。

 瞬間、燃え盛る炎にでも触れたかのように、廻は手を引っ込める。


「い、いまっ。お腹が動いたよ、リオ」


 自分の手の平とリオのお腹を交互に見る廻に、リオは笑いかけた。


「赤ちゃん、生きてる、証拠」

「廻さんが雑な触り方するから、びっくりしたのかもしれないですね」


 にやりと笑ってコップに口をつけるエドワードの後ろ頭を、リオはひっぱたく。

 恐る恐る、褐色の小さな手が、再び赤ん坊の住み家に触れた。


「ここに、ひとつの命がいるんだ」


 少女は瞳を閉じて、手の平から伝わる感触に、じっと意識を傾ける。


「それってすごく、浪漫だね」


 微笑む廻の横顔に、胸が脈打った。星月夜のように静かに輝くその笑みが、ずいぶんと、久しぶりに感じられたから。


 手を離した廻が、立ち上がろうとした時のことだった。


 甲高い音がけたましく、辺りに響き渡る。狂ったように鳴らされる鐘の音に、あたりの空気が一変した。エドワードは置いてあった大きな銃を手に取ると、鋭い目つきで言い放つ。


「襲撃です。絶対に、家の中から出ないでください」


 返事を待つこともなく、彼は扉を蹴破るように飛び出ていった。

 心配そうに扉を見つめる廻を、背にかばう。


「灯火、どうしたの?」


 戸惑う廻の声を背に、視線はリオから離さずに。

 机に置かれたランタンの灯りが、忽然と消えた。はっと、廻が息を呑む。暗がりの中に浮かぶのは、僅かに光を放つ青の瞳。それは、リオの瞳は、明らかに人間の瞳じゃ無い。


 女性は表情を変えること無く、その淡く輝く瞳でただじっと、僕らを見つめる。


「廻、気を付けて。彼女は人間じゃない」


 空気を通じて肌を指すその感触に、間違いは無かった。


「リオは、幻想だ」


 ◇◆◇


「違和感があったんだ。彼女はどこか、透けていた」


 透けている。この世にあるべきはずのない、おれたち幻想は、時としてそう称される。


「だが、それはおかしいだろう」


 エドワードは、幻想を憎んでいた。幻想もまた、人を憎むと語った。


「それがなぜ、夫婦などという関係になる」

「リオが人間に化けて、エドワードを騙していたんだ。きっかけは、僕も知らない」


 ひょろひょろと、どこか遠い森から獣の声が漂ってくる。


「リオは幻想でありながら、人に化ける力を持っていた。声と足を代償に、彼女は人の姿でエドワードを騙して、彼に寄り添っていた」


 そして彼女にはひとつ、廻と僕に頼みごとがあった。


「だからリオは力を使って、エドワードを追い払ったんだ」


 ◇◆◇


 淡く輝く瞳に、僅かに尖り始めた耳。風もないのに、髪がなびいている。女性は人と呼ぶには、あまりにも外れた姿になりつつあった。


「廻さん。あなたは、人間?」


 いくらか発音が流暢になった彼女の問いかけに、少女はコクリと頷いた。


「そして、灯火くん。あなたは、幻想よね」


 リオは気を落ち着かせるように、深く息をつく。ほのかな水の香りが、辺りに漂った。


「もうひとつ、聞きたい。灯火くんは、廻さんの、何」

「僕は廻の従者で、人形だ」


 迷うことは無い。そう断言すると、リオは瞳を廻に向ける。


「廻さんにとって、彼は、何」

「あたしにとって、灯火は」


 彼女は、ためらうように言葉を途切らせた。しばらく唸っていたけれど、明確な答えは出なかったらしくて。


「ごめん、分からない。でも、いつも隣にいてくれる、大切な人かな」


 自信なさげに、そう答えた。

 リオは薄く微笑んで、瞳を閉じる。鳴り響いていた鐘の音も、ざわついていた気配も、どこか遠い世界の出来事のようで。風の凪いだ水面のように、部屋が静まり返る。


「ひとつ、お願いを聞いてほしい。あなたたちにしか、頼めない」


 ゆっくりと顔を上げる彼女の眼差しが、まっすぐ僕らを貫く。


「わたしを残り火から逃がす、手伝いをしてほしい」

「逃げる?」


 廻が一歩前に出た。


「どうして逃げるの。リオが、幻想だから?」


 悲しげに、リオは膨らんだお腹を撫でる。


「この子が、混血だから。人と幻想との混血はかつて、大罪を犯した。人からも幻想からも疎まれる。人間の中で育てるのは、無理なの」


 僕らは絶句する。人からも幻想からも疎まれるなんて、世界のどこにも居場所が無い。


「でもリオは、人の中で生活出来てるじゃない。エドワード達が幻想を受け入れなくたって、なんとかして正体を隠せれば」


 生きていけるんじゃないか。続くはずだった言葉は、唐突に打ち切られた。


「それは不可能だ、隠し通せるものか」


 居るはずのない、四人目の声が響く。女性の声だ。少し低くて、よく通り、氷のように冷たい。背筋を震わせて、扉の方へと振り向く。若い女がひとり、音もなく立っていた。


 茶色い短髪に、灰色の右目。左目は前髪に覆い隠され、老樹の葉に似た深緑の外套を身にまとう。彼女はいつか、鉄塔から落ちたところを助けた旅人だった。

 緊張に、手のひらを握り締める。いったいいつから、そこに居たのだろう。驚きに顔を歪めたリオが、呟きを漏らす。


「わたしが、気づかないはずか」

「それは傲慢だな、オンタリオ」


 冷たく放たれた言葉に、リオ――オンタリオと呼ばれた幻想は、絶句した。


「旅人さん。不可能って、どういうこと?」


 硬い声で問いかける廻を、女性は鋭い瞳で一瞥する。

 彼女は荒々しく、顔の左半分を覆っていた前髪を掻きあげた。


「左右で異なる、瞳の色。それが混血の証だ」


 明るい水色に輝く彼女の左目が、怒りに満ちて僕らを見つめる。


「子供の目が開けば、露見する。その女が幻想であることも、子供が混血であることも」


 鋭い言葉に、リオは目を伏せて、下唇を噛み締めた。


「私たち混血に幸福は無い。せめて、物心つく前に殺してやろう」

「わたしが、守る」


 震える声で答えたリオを、女性は蔑むように見下した。


「貴様一人でか?」


 だらりと、女性の両腕が垂れる。


「なら、やってみせろ」


 指先がブレた。放たれた黒塗りの刃が、空を切り裂いてリオの首筋に迫る。

 食い込む寸前、刃は飛んできたグラスに当たって、狙いを外した。甲高い音を上げて、ガラスの破片が粉々に飛び散る。


「灯火、おねがいっ」


 グラスを投げつけた廻が、叫んだ。床を踏み締めて、混血の女性を蹴り抜く。鈍い衝撃。横腹をとらえた一撃は、水の塊に足を突っ込んだかのように、手応えが無い。

 体勢を崩した一瞬、懐に女性の膝蹴りが突き刺さる。吹き飛び、一回転して身を起こすと、淡い輝きが瞳に映った。揺れる青い光は、海の底から眺める月明かりのよう。

 リオの体が、青く透けていた。彼女はコップを掴むと、中身を宙にばら撒く。ふわりと、深い水の香りが漂った。飛び散った黒い雫が、意思持つ弾丸となって旅人の女性へ向かう。


 鋭い舌打ち。女性がコートをひるがえすと、リオと同じように布地もまた青く透け、遮られた雫の弾丸たちは波紋を生んで弾けた。


「やめて、旅人さんっ。リオを傷つけないで」


 リオの前に身を滑り込ませた廻が、両腕を広げる。苦々しく、旅人は顔を歪めた。

 黒い雫の砲弾が、唸りを上げて飛び抜ける。リオが撃ち放った一撃は、女性に当たる寸前に勢いを失い、方向を反転させた。


 驚きに顔を歪めるリオの肩を、水弾が打ち付ける。彼女は短い叫びを上げて、椅子から転げ落ちた。混血の旅人は背を向け、家の外へと駆け出す。


「お願い灯火、あの人を追って!」


 床に倒れ、呻くリオの肩を抱いて、廻が叫んだ。


「助けてあげてっ」


 意味の分からない命令。緊迫した少女の声音に、喉まで出かかった抗議を呑み込んだ。

 人形は、言われた通りのことをしていれば良い。


 蹴破るように広場に飛び出て、鼻に意識を研ぎ澄ます。水の香りが、僅かに漂った。残り火の裏手、鬱蒼とした森へと伸びている。

 主人の命を果たすべく、僕は走りだした。

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