第一話 双色の瞳
吹き抜ける風が、遠く、かすかな調べを乗せてきた。ひび割れ、荒れた果てた道路を歩いていると、か細い音色に足が止まる。
草木のざわめきに紛れ解け込む、孤独な旋律。
「すごく、きれいな音」
たたずむ廻が目蓋を下ろした。あたりを見渡すと、ぽつりと道沿いに建つ家が、月明かりに照らされている。けれど、音色はもっと高く、夜空から聞こえてくるようだった。
景色の端にすらりと伸びる、細い鉄塔。その天辺に、月を背にする人影を見つける。
「あそこだ」
指さしたその時のこと、ひときわ強く風が吹き抜けて。鉄塔の人影はふらりとよろめき、真っ逆さまに落ちていった。
「灯火っ」
少女が咄嗟に、僕に手を伸ばす。絡む指先を鍵に、脳裏に引き出すのは孤島の星空。
「灯れ、双翼」
炎の翼なら、人影を受け止められる間合いだった。なのに背中の炎が、尽きる寸前の焚き火のように弱々しい。意のままに操れていた翼が、得体のしれない異物に感じられる。
そんな不調にかまっている暇は無かった。燻ぶる炎を爆ぜさせて、転がるように駆け抜ける。大地を蹴りぬき、指先が僅かに人影に届いた。轢くように跳び込んで、衝撃と共に受け止める。勢いを殺せずに、抱えたまま転がって、木の幹に背を打ち付けられた。
「だいじょうぶっ?」
揺れる頭で目を開けると、息を切らした廻が覗きこんでいた。
「大丈夫だ。それより」
腕の中でぐったりと横たわる人物に、目を向ける。
若く、鋭い顔立ちの女性だった。暗い茶髪を短く切りそろえ、すすに汚れた深緑のコートを羽織っている。小さな横笛が、右手に固く握られていた。
「わ、きれいな人だ。旅人さんかな?」
廻がそっと、青白い頬に手を触れた。僅かに、女性の眉根が寄る。うめき声を上げて、彼女は無造作にまぶたを開けた。
僕らはふたり揃って、思わず息を呑む。
女性の瞳は、灰色だった。それでいて、淡く輝いてみえるほどに鮮やかな、水色だった。人間の瞳とは思えない、鮮やかな色彩だ。
彼女の瞳は、左右で異なる色をしていたんだ。
目を奪われる僕らを、腕の中の女性がぼんやりと見つめる。
「こ、こんばんは」
廻の声にふらりと視線を揺らした女性は、二色の瞳を見開いた。起き上がって飛び退り、前髪を払って水色の左目を隠す。灰色の瞳が、鋭く僕らを睨めつける。
「私の目を、見たな」
低い、よく通る声色だった。戸惑いながらも、少女は頷く。
「どうして隠しちゃうの?」
瞳を見開いて、女性は顔をしかめる。
「お前、知らないのか」
首をかしげる廻を一瞥すると、彼女は息を吐いて、背を向けた。鉄塔の麓に置いてあった背負い袋を拾い、歩き去ろうとする。
「待って! どこに行くの?」
「ついてくるな」
ちらりと振り返った灰の瞳が、鷹のような鋭さで廻を睨む。追いすがるように伸ばした少女の腕は、力なく下ろされた。少女は代わりに、女性の背中へ言葉を投げかける。
「た、旅人さん。あたしたち、綺麗な景色を探してるのっ」
女性は足を止め、何も言わずに東の夜空を指差した。そして、差した方とは違う方向へ、彼女は歩き出して。やがて廃墟と草木に隠れ、その姿は消えた。
◇◆◇
人形が一息に酒を煽り、空になった器を差し出してくる。
「よく呑むことだ」
呆れ半分に注ぐと、灯火は礼を言って、にへらと笑った。頬が心なし赤らんでいる。
「それで僕らは、指差された方へと歩き始めて。そしてまた、出会ったんだ。常夜の世界を生き抜く、人間たちの小さな集落に」
◇◆◇
大きな廃街で、僕らはばったりと一人の男に出くわした。
「子供が二人で、何をしているのですか」
ひび割れた眼鏡を掛ける、筋肉質な男だ。その大きな手に握る黒い筒が、僕へ向いている。『銃』。それが人を傷つける武器だってことを、なぜだか僕は知っていた。
廃墟の陰に、窓から差し込む月明かりが、銃口を暗く映す。茶色の前髪から覗く男の眼差しは、もっと暗い。返答次第では撃つと、表情が物語っていた。
「食べ物を探しに来たの。旅をするのに、必要だから」
臆さず答える廻に、男は眉根をひそめる。
「旅だって? 常夜を、子供がたった二人で?」
「うん。どうしても、見つけたいものがあるから」
視線が交わる。お互いに一歩も譲らない、わずかな沈黙。
先に口を開いたのは男だった。
「そうですね。確かに敵意は、感じられないです」
男は大きく息をつき、銃を下ろす。張り詰めていた空気が、薄れていった。
「すいませんでした。このご時世、誰が敵か分からないですから」
「ううん、気にしてないよ」
ふわりと表情を崩す廻。弾むように、少女は男性に詰め寄った。
「こんばんは、あたし廻っていうの。あっちは灯火」
「ああ、僕はエドワードです」
男性――エドワードは、皮の分厚い右手を差し出す。廻はことりと、首を傾げた。
「握手、知らないですか? 手を握って、挨拶をするんです」
「へえ、そうなんだ」
ぺちんと音を立てて、少女の両手が男の手を包む。
「よろしくね、エドワード」
「よろしく。廻さんと、そちらは灯火くんでしたか」
首を縦に振る。差し出された手のひらは、掴まなかった。
「ごめんエドワード。灯火って、気むずかしい性格だから」
困ったように首を傾げるエドワードへ、廻がぶっきらぼうに声をかける。彼は肩をすくめて手を引っ込めると、ひとつ咳払いをした。
「さて、君たちはどうも、食料を探しているということですが」
どうでしょう、僕らの集落へ寄って行きませんか?
「少しは分けられるものも、あるかも知れません」
◇◆◇
「エドワードは物腰の柔らかい男で。道すがら、いろいろなことを教えて貰ったんだ」
集落のこと、彼の仲間のこと、そして。
「常夜に至る前の、世界のことも」
◆◇◆
「東へ向かうのは、止めておいた方がいい。あちらは人魚の、幻想の領域ですから」
慣れた足取りで廃街を歩きながら、硬い声音でエドワードは告げた。
「幻想がいたら、危ないの?」
首をかしげる廻に、エドワードはぎょっと目をむく。
「当たり前ですよ、知らないんですか?」
きょとんとする廻に、彼は溜息をつくと、手ごろな瓦礫に腰をおろした。
「大事な話です。あまり、気持ちのいい話じゃないですけれど、よく聞いてください」
そう言って彼は、語りだす。人と幻想の歩んだ、常夜に至るまでの歴史を。
◇◆◇
「世界ぜんぶを巻き込んだ、とても大きな戦争があった」
ひんやりとした屋根板に寝そべって、灯火は語る。
「それは、人と幻想との戦争だった」
人と幻想との争い。幾度と無く繰り返されてきた、ありふれた歴史だ。ただ、それほど大きな戦いがあったという話を、おれは聞いたことがない。
「僕もそこまで、詳しくは無いんだけどね」
右手を頭の下に敷いて、灯火は夜空を見上げる。
「かつて幻想っていうのは、あり得ないものだった。だれも実在するなんて思っちゃいない、架空の存在さ。なのに、ある日突然世界は、不思議な力で溢れかえった」
人間たちは大混乱に陥り、様々な意見に分裂した。得体のしれないものに、恐怖を抱く者。不思議な力に、価値を見出す者。
「けれどどのみち人々は、幻想に無干渉でいることは出来なかった」
悲しげに、灯火は笑う。
「突然この世に実体を得た幻想たちは、欲と害意にまみれた人間たちとの関わりあいを、避けることができなくて。やがて、安住の地を求めるようになる」
首から下げたペンダントを、灯火は固く握りしめる。
「そんななか、事件が起こった。幻想の力を利用しようとした人間たちが失敗して、暴走した幻想が、とある都市を壊滅させた事件」
それが、引き金となった。
「人々の幻想への恐怖は爆発し、冒涜された幻想たちは、怒り狂った。戦争の始まりだ」
戦いは燃え広がる炎のように、日に日に規模を増していって。やがて世界は戦乱の波に呑まれる。
「お互いに殺して、殺して、殺して。憎しみはとめどなく大きくなって」
そして遂に、人にも幻想にも、争えるだけの力が無くなってしまったとき。
「世界は、常夜に至った。気づいた時には、夜が明けなくなっていたのさ」
◆◇◆
「戦いは、終わったわけじゃありません。だから、幻想に遭遇するのは避けた方がいいです。奴らは僕達人間の、敵だ」
噛み締めるように、エドワードは言い放った。朽ち果てた鉄の、重苦しい香りが漂う。ためらいがちに、廻が立ち上がった。
「仲直りすることは、できないの?」
目を丸くしたエドワードが、乾いた笑みを浮かべる。
黒い銃口が、僕の頭に向けられた。突然のことに、廻は動けない。試すように、蔑むように、男性は少女に問いかける。
「なら、僕が灯火くんを殺したら。君は僕を許せるか、試してみましょうか」
引き金に、指が添えられる。男の灰色の瞳に、光は浮かんでいない。
乾いた破裂音が、夜闇の廃墟に吸い込まれて、幾重にも響く。焼けるような痛み、針のように鋭い風が、こめかみをかすめていった。
銃声が遠ざかり、再び訪れた静寂の中。薄く白煙を上げる銃口の先で、ヒビの走ったレンズの奥から、エドワードの瞳がまっすぐに僕を見つめている。
「なるほど、伊達に常夜を旅してるわけじゃ、ないようですね」
彼の首筋に、小ぶりなナイフが添えられていた。
「お願い、エドワード。武器を下ろして」
硬く握ったナイフを突きつけながら、廻はかすかに震える声を放つ。
「そんな震えるナイフで、僕が殺せますか」
「いいから下ろしてっ」
気を鎮めるように長く息を吐いて、エドワードは銃を下ろした。腰の抜けた廻が、尻もちをつく。彼の銃口は初めから、頭を僅かに逸れていた。
「さて、どうです。君は僕を、許せそうですか」
廻は俯いて答えない。エドワードは呆れたようにため息をつく。
「分かったなら、幻想の肩を持つようなことは言わない方がいい。それだけで、君らに害をなす人間もいます」
「そんなの、悲しいよ」
廻の呟きに、青年は諦めてしまったような笑みをこぼす。
「僕達にはもう、そんなふうに思えないんです」
◇◆◇
「人と幻想が対立して、一度世界は滅んだんだ」
それは、さぞ過酷な世の中だっただろう。人間にとっても、幻想にとっても。
「おかげで、僕が幻想だということも、隠さなきゃならなくなった」
冷えきった風が通り過ぎて行く。灯火の羽織る赤い法被、中身の無い左袖がなびいた。
「そんな話をしながら、エドワードは僕らを集落に連れて行ったんだ」
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