第四話 重ならぬ瞳
ぼうっと焚き火を見ていると、ふと、森の暗がりがざわめいた。
食料を狙う獣だろうか。旅人の女性は外に出ていたから、僕が守るしかない。
立ち上がり、腰を沈めて――僕は緊張を解いた。太い幹の裏から、見覚えのある白銀の髪が、ちらりと見え隠れしていたから。
「よく、ここを見つけたね」
声をかけると、恐る恐るといった様子で、褐色の少女が暗がりから姿を現した。
「灯火、旅人さんは?」
「今はいないよ」
小さく息をついて、廻が隣に腰掛ける。ぱちぱちと弾ける炎に、少女は枝を投げ込んだ。
「あのね。リオの怪我、大したことなかったよ」
「そうかい」
「それでね、ハリス先生が女性の手を借りたいっていうから、あたし、リオの出産手伝うことにしたの」
「出産を?」
おせっかいな少女のことだ。二つ返事で引き受けたに違いない。
「できるのかい」
「勉強してるところ。でもね、なんだか難しい出産みたいで」
曲げた膝に、少女は顎をうずめた。
「失敗する可能性も、高いみたい」
「……大丈夫かい」
尋ねると、気を紛らわすように笑って、廻は顔を上げた。
「うん、あたしは大丈夫。それより、きみの方はどう?」
「上手くは行ってない。でも」
混血の女性の言動に、少し違和感を感じるところもあった。
「なんとなく、分かりそうだ。君がどうして、助けろなんて言ったか」
「そっか」
ゆっくりと時間をとって、言葉を選び取るように、少女は口を開ける。
「ごめん、灯火。いっつもあたしの我がままに、付き合わせちゃって」
悔やむように、彼女は唇を噛んだ。
「だからね、もしきみが反対するなら、もうやめても」
「反対なんてしない。僕は君の人形、好きに使ってくれ」
「あたし、きみの考えが聞きたいの」
「そんなのは無いよ。僕は従うだけだ」
廻はそっと、瞼を下ろす。
「いやだよ、灯火。やっぱり、こんなの違う」
言ったとたん、突き動かされるように、少女は炎を背に、僕の前に立った。
「ずっと、言いたかったことがあるの」
何かを押し通そうとするときの、真っ直ぐに定まった蒼い瞳。それが僕に向けられたのは、きっと初めての事で。
「あたしはきみのこと、ただの人形だなんて思わない」
「僕が勝手に言ってるだけだ。気にしなくていい」
有耶無耶だったものを、少女は暴こうとしていた。有耶無耶なままでいいと、僕は思っていた。けれど彼女は、逃げさせてはくれない。
「あたしはきみの主人なんかじゃ、無い」
「分かった。これからはそう呼ばないように気をつける」
「そうじゃないのっ」
目を逸らしてみても、廻の視線からは逃れられなかった。吸い込む空気が、やたらと重苦しい。僕はその場を凌ぐことを諦めた。
「いったい、何が気に入らないんだ」
思っていたよりも、低い声が出る。人形であろうとしても、感情を抑え切れない。
立ち上がる。少女の瞳と僕の瞳は、ほとんど同じ高さで交わった。
「君が人形遣いで、僕が人形。それだけで、良いじゃないか」
「そんなの、嘘だよ」
少女の言葉は刃となり、固めた守りの隙を潜って、僕の胸を刺した。
「ただの人形は、笑ったり、怒ったりしないもん。人を思いやることも無いし、それに」
蒼い瞳が、僕の舌を縫い付ける。
「泣いたりも、しない」
大きく、左胸が脈を打つ。それまで僕が涙を流したのは、ただの一度だけ。
あの夜からずっと、僕と廻の間にあった、暗く深い沈黙に。彼女は足を踏み入れる。
「灯火、あの時泣いてたよ。そんな人形、きっときみしかいない」
「やめてくれ、聞きたくない」
「ううん、言うよ。だってあたし、見たもの」
少女の背で、ぱちんと大きく、炎が弾けた。
「エミリーの夢を叶えた時、あの子を助けられなかった時。きみは泣いてた」
「聞きたくないって、言ってるだろっ」
吐き捨てた言葉が、熱い。廻は目を見開いて、半歩後ずさる。
「何も言わないでくれ」
そうすれば僕は、まだ、ただの人形でいられる。
少女は呆然と、突っ立っていた。僕は彼女に背を向ける。
「少し、周りの様子を見てくる」
歩き出す僕の右手が、後ろから掴まれた。
「家族に、なってよ」
絞りだされた声は、か細く震えている。
「あたし、助けてもらってばっかりで。こんなこと言っちゃ、ダメかもしれないけど」
繋がれた右手は堅く、離れそうもない。
「血が繋がってなくても良いんだって、分かったから」
振り返る気には、なれなかった。
「僕じゃ君の支えにはなれない」
「そんなこと」
「そんなこと、あるんだよっ」
僕の中で、何かが弾けた。廻に詰め寄り、胸倉をつかむ。
「なんであの夜、エミリーを助けようとしなかったんだ」
見開かれた少女の瞳を、鼻先が触れるほど近くで睨みつける。ずっと胸の奥でくすぶっていた叫びが、吐き出される。
「どうして、彼女を生かすことを諦めたんだっ」
「じゃあ、どうすれば良かったって言うの!」
やられっぱなしの彼女じゃない。僕の胸倉をつかみ返して、揺さぶる。
「ずっとエミリーを助けようとしてたアルマでさえ、何も方法を見つけられなかった。あたしたちには、どうすることも出来なかった!」
懺悔するように、少女は僕の胸を揺さぶる。
「生きていてほしいって、あたしたちの希望を勝手に押し付けてっ。それでエミリーの夢すら叶えられなくなっちゃったら、あたしには償えない!」
「それでも、君なら諦めないと思ったんだっ」
「あたしは、そんなに強くない!」
彼女の眦に、じわりと、涙が染みる。
「迷ったの。何度も何度も、迷ったの! アルマに真実を見せられて、いっそ逃げちゃいたくて、でもそれをきみが止めたの。だからもう、あの道しかなかった。受け入れるしか、なかったっ」
「それなら、どうしてっ」
ぎりりと、少女の服の胸元を締め上げる右拳が音を上げる。
「どうして、僕に何も相談してくれなかったんだ」
はっと、少女の瞳が見開かれた。
「どうして、一人で全部抱え込んだんだ、廻っ」
僕の胸元を締め上げていた拳から、力が抜ける。
「一言でも、教えてくれてたら。僕らの決断が食い違うことなんて、なかった」
眦に、熱いものが浮かぶ。言っていて、自分のことが嫌いになってきていた。
「それが二人で出した結論だったなら、僕だってこんな、こんな思いは」
そんなのは最高にかっこ悪い、責任転嫁だ。僕が弱かったのは廻のせいじゃない。
分かっているはずなのに、口が止まらない。
「君は全部、一人で抱え込んで、選んだんだ。僕の助けなんて、要らなかった」
少女は押し黙る。代わりに、再び強く胸元が握られる。
「家族なんて、嘘だよ。僕と君とじゃ違いすぎる、上手く行きっこない」
振りほどこうと、体をそらす。けれど少女は僕を離さない。さらに力を込めれば、強く引き返してくる。
「廻、いいかげんに」
しびれを切らして振り向いた。
唇を噛んで、少女は涙を流していた。
そう、まただ。大切な存在のはずなのに、僕はまた彼女を傷つけてしまった。
上手く行かない、上手くできない。嗚咽を押し殺して、少女は涙を流す。
「ごめん、灯火」
解こうとした手から、力が抜けてだらりと垂れた。
「ごめん、なさい」
言葉が途絶える。どうすれば良いのか、何を言えば良いのか、答えが見えなくて。
手を放し、背を向けて走り出した少女を、見送ることしかできなかった。
僕に死が迫っていることすら、伝えることは出来なかった。
◆◇◆
「違和感を感じた、と言っていたが。いったい、どういうことだ」
「ああ、それはね」
星の瞬く寒空を、少年は眺めた。
「混血の女性は腕の立つ旅人で、幻想としても強い力を持っていた。それじゃあなぜ、鉄塔から落ちた彼女は何も抵抗すること無く、あっさり意識を手放したのか」
「人間というものは、高所から落ちれば恐怖するものだろう」
「そうかもしれないけれど。僕には彼女が、そんなヤワには思えなくて」
ふと、彼は黒い瞳をおれに向けた。
「君は、高所から落ちたらあっさり死ぬかい?」
おれは鬼だ。鬼というものは総じて、人間とは比べ物にならないほど頑丈だ。
「きみの言う程度の高さなら、対処は出来るだろう」
「ほらね。僕だって、どうにかする自信があるよ。幻想なら、そう不思議でもない」
だから、思ったんだ。彼は語る。
「もしかしたら彼女は、自分の意思で、飛び降りたんじゃないかってさ」
◆◇◆
その晩は、ぽつぽつと雨が降っていた。木々の間にタープを張り、下で火を焚く。雨粒の弾ける音が響き、湿った香りがあたりに漂う。
「君は、いつになったら動き出すんだ」
「お前が知る必要は無い」
旅人は、手に持つコップに口をつけた。相変わらず、会話は続かない。人の心が分からない僕は、どうにも相手を気遣うことが苦手だった。
だから、聞きたいことはそのまま聞くしか無い。
「どうして君はあの夜、死のうとしたんだ」
すすっていたコップを、女性は下ろした。前髪の影に隠れて、表情は伺えない。
「君は、死のうとしたんだろ?」
一瞬の沈黙が、木立の闇に融ける。
「お前こそ、そろそろ白状したらどうなんだ。お前は何の目的で、私に近づいた」
「助けるためって言っただろう」
「信じるわけが無い」
濡れた前髪が風に流れ、刃のように鋭い双色の瞳が、僕を縫い付ける。
「私の邪魔をするか、あるいは殺すか。どうせ、そんな所だろうが」
自分に都合の良いことなど、起こる訳がないのだと。諦めきった口調で、当たり前のように、彼女は呟いた。
「混血に肩入れして、得をする者など、この世には居ない」
「違う、僕は」
言い切る前に、手にしたコップを投げ捨て、混血は立ち上がる。
「共同生活ごっこも、いい加減面倒だ。腕ずくで、聞き出してやる」
「……勝った方の質問に答える、そういう勝負かい」
小さく息を吐いて、僕は立ち上がった。
「分かった、その勝負に乗ろう」
瞬間、鋭いブーツのつま先が、えぐるように僕の右目を狙ってくる。上体を反らして避け、焚き火に右手を突っ込んだ。
「灯れっ」
苛烈な目眩が襲ってくる。ずれたままの僕が、力を使う代償。また一歩、死に近づいたのかもしれない。けれど、生身で勝てる相手でもなかった。
双翼の応用。廻が居なくても、火種を操る程度の芸当は出来る。
月のない雨夜、弱々しい炎を宿した右腕を振りかぶり、僕は女性へ踏み出した。
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