第七話 挑む夜
――帰りなさい、島へ。
――できれば、あなたを傷つけたくない。
「あの夜、龍は確かに言った」
傷つけたくないと、そう言った。
それはいったい、どういうことだろう。
「龍はきっと、廻を外へ出さないための番人なんだ」
そして番人の役目は、廻という要素が欠けてしまっては成り立たない。
「そうだろ?」
だから少女は、こう考えたわけだ。
――きっとあの龍は、
◆◇◆
「くぅっ」
ぽたり、ぽたり、と。真っ赤な液体が廻の首から鎖骨を伝って、舟へと滴り落ちる。
彼女が振ったナイフは、首を通る致命的な管の数々を、辛うじて避ける軌道を描いた。薄皮一枚ってところだ。
ほんの少し、手元が狂えば死んでいた。
その事実が、必要だったんだ。
振り払ったナイフを、再び首筋にあてがって声を上げる。
「姿を現して! さもないと――」
ナイフを握る手に、僅かに力を籠める。
一筋の血液が流れ落ちるのを合図に、廻は宣言した。
「――あたしは、ここで死ぬ」
彼女は本気だった。
「どうせ、最後の機会だからさ」
失敗して、また島で孤独に暮らすくらいならば――
「――今ここで、死ぬよ」
その言葉が本気であることを見る者に確信させる、まっすぐな瞳で。廻は前を見据える。
見る者ってのはつまり、どこからか廻を覗き見ているであろう、あの龍のことだ。
ここで彼――か彼女かは分からないけど、あの龍が反応するかどうか。龍が廻の命の危機に対して、動きを見せるのか。
それが、廻の命運を決める分水嶺だった。
刻一刻と、小舟は渦潮へと巻き込まれていく。
やっぱり完成度の低かった小舟が、耐えきれずに舟底から徐々に崩れ始める。もう長くはもちそうにない。
――ここまで、かな。
廻は、決断する。
「そう、出てこないんだね。なら宣言通り」
くるりとナイフ回すと、逆手に持ち替えたその切っ先を首に突きつけて。
「あたしは死ぬよ」
そして廻は、
◆◇◆
気付けば、渦潮は消え去っていた。
あれほど厚かった雲も薄くなり、隙間から月明かりが差し込んできている。
ただ、静寂。
この世界には自分しか存在しないんじゃないだろうか。廻は、そんな錯覚を受けた。
でもそれは、正しい認識じゃない。
「あたしの、粘り勝ちだよ」
指の先ほど肌に食い込んだナイフをゆっくりと抜き去り、精一杯の不敵な笑みを浮かべて、廻はゆっくりと振り返る。
視線の先に、一体の龍が浮かんでいた。青い鱗が月明かりに映える、宝石のように美しい龍。
いつかの夜も見た光景。あの夜と違うのは、廻の隣に人形がいないこと、龍の瞳に苦々しい感情が読み取れること。
恐れはある。畏怖もある。でも、それを表には出さない。
内心で恐怖を必死に押し殺して、廻は龍を睨み付けた。
「さっそくだけど、要件を言うね」
『馬鹿なことは考えないで、島に帰りなさい』
「いやだ、断る」
今度は、怯えたりしない。龍のひと睨みもなけなしの気力で受け流して、廻は即答した。
大きく息を吸って、言葉を発する。
「あたしを、ここから出して。さもないと、あたしはあたしを殺す」
それは、あなたも困るでしょ?
そうやって龍を
彼女の本気を感じ取ったのだろう。龍は苦々しそうに返答する。
『できない。あなたを、ここから出すことだけは』
「そう、ならあたしは死ぬよ」
再びナイフを押し出そうとした廻を、しかし龍は制止した。
『待ちなさい』
「じゃあ、出して」
譲らない廻に、龍は何かを悩むかのように間を空ける。
緊迫した空気が、あたりに満ちていく。
『やむなし、ね』
やがて考えがまとまったのか、龍はその長い口を開けた。
『あなたは、ここから出るべきではない』
幻獣は、少女を説得しようとする。
『あなたにとっても、そして、世界にとっても』
含みのある言葉に、廻は聞き返さずにはいられない。
「あたしにとって? あなたは、昔のあたしのことを知っているの?」
龍の言葉は、廻の忘れられた過去にも触れているように聞こえた。
あまりにも気がかりな一言だ。なにせ彼女は、自分が何者で、どこでどう生まれてきたのかさえ知らないのだから。
「どういうこと」
『言えないわ。でも、出て行ってしまえばあなたはきっと後悔する。それだけは確実よ』
「そんなわけない!」
『いいえ、後悔する』
龍は断定する。
なぜなら――
『――あなたは後悔したからこそ、今ここに居るんじゃない』
その言葉を咀嚼して理解するのに、しばしの時間が必要だった。
「あたしが外に出て後悔したから、閉じ込められてる?」
『そうよ』
「それって、つまり」
それは、廻が人形に出会う前。孤島の外に出ようと独りで奮闘していた頃よりも、もっと前。
それまでの全ての記憶を失って孤島で目覚めた夜よりも、さらに前の話。
『あなたは忘れてしまっているけれど。あの島にあなたを封じ込めた者、それは他でもない――』
廻の過去。廻の正体。
その一端に、龍は言及する。
『――あなた自身、なのよ』
その言葉を、廻は静かに受け止めた。
「そう、なの」
不思議と、龍を疑うことはしなかった。嘘を言っているわけじゃないのが、なぜだか彼女には分ったんだ。
きっとそれは本当のことで、かつての廻は外の世界に良い印象を持っていなかった、そういうことなんだろう。
『だからあなたは、外の世界に行ってはいけない』
うなだれた廻を見て、龍はそう締めくくる。
しばしの、沈黙。すべての音が世界から消えてしまったかのような静寂が、再びあたりを支配する。
一人の少女と一体の龍を、月明かりだけが静かに照らしていた。
そして廻は、口を開く。
「かつてのあたしが何者で、どんな力を持っていて、何を見て何を感じて外の世界が嫌いになったのかは、分からない」
強い声音に何かを悟ったのか、龍はわずかに身じろぎをした。
構わず、少女は言葉を紡ぐ。
「でも、それはやっぱり昔のあたしの話。今のあたしじゃない」
そして、うつむけた顔を上げて。
廻は、結論を提示する。
「だから、あたしの願いは変わらない。ここから出て行って、世界中を廻る旅に出る。それだけは、譲れない」
龍の瞳をしっかりと見つめて、廻は再び要求を口にする。
「あたしをここから出して。さもないと、あたしはあたしを、殺す」
そう、彼女はいつだって、今の自分がしたいことを貫くんだ。なんせ、ほかに類を見ないほどに、意地っ張りで強情だからね。
一度決意したら、止まらない。それが廻っていう女の子だった。
再び、ナイフを首元へと押し付ける。
廻と龍の間に、緊張が張りつめた。
『そう』
その宣言は、相対する幻獣にもしっかり届いただろう。それでも龍は依然として、ただ静かにそこにたたずんでいる。
『できればあなたには、自分から諦めてほしかったのだけど』
その言葉に、廻は身構えた。
何か、仕掛けてくる。
焦りと共に、ナイフを持つ手に力を籠めた。何があっても、即座にその切っ先を押し込むことが出来るように。
「動かないで。大人しく、あたしを通しなさい!」
廻が叫ぶ。しかし龍は、そんな脅しを意にも介さなかった。
ひとつ、小さなため息をこぼすような仕草を見せて、呟く。
『仕方ない、わね』
悪寒が、廻の背筋を駆け抜ける。
だから廻は、意を決して。
そのナイフを、自らの首に押し込んだ。
◆◇◆
「廻に、油断は全く無かった。彼女は、できうる限りの最高の速度をもってナイフを押し込んだよ」
それでも、人と龍の間にある歴然とした力の差は、どうしようもないほどに大きかった。それは、廻の作戦を根底からひっくり返してしまうほどに。
「何が言いたいかっていうと、つまり――」
――龍にとっては、廻の自殺を阻止することなんて、赤子の手を捻るよりも簡単だったってことだ。
◆
龍の初動を、廻は見ることが出来なかった。
その一撃は、雷のように速いんだ。廻には知覚することすらままならなくて、風が吹いた、くらいにしか感じられなかった。
「え?」
一陣の風が、廻の眼前を通り抜ける。そして彼女は唐突に、手の中にあるはずの凶器が軽くなるのを感じた。
手元に目を遣る。すると、そこにあったのは。
刃が粉々に砕け散った、ナイフの残骸だった。
「う、そ」
呆然とそれを眺める廻に、龍は無慈悲に言い放つ。
『あなたが諦めてくれていれば、それで良かったのに』
どこか憐れむような声音で、龍は語り掛ける。
『あなたを外に出すわけには、いかない。だから――』
ぞわりと、廻は悪寒を感じ取った。
先ほども感じたそれは、攻撃の前兆だ。
でも、
大人しく攻撃を受ける以外に、どうしようもなかった。
――何か、手はないのか。
焦る思考は上手くまとまらず、現状を切り抜ける策なんて思いもつかない。
「絶望」の二文字が、廻の脳裏をよぎる。
「そん、な」
悲痛なつぶやきも、龍は意に介さなかった。
『あなたを島に、送り返すわ』
攻撃が来る。青い鱗の尾が、迫りくる。
手加減しているのか、辛うじて目で追える速さだった。けれど、固まった体は動かない。
やけにゆっくりと感じる、その一瞬。迫る鱗と、それを見ていることしかできない自分。
押し寄せる絶望感、無力感。
このまま終わってしまうのか。こんな、こんなところで。
思わず、少女は目をつむる。
最後の一言は、ほとんど無意識だった。誰に言ったのかも分からない、あやふやな言葉。
ぽつりと、その小さな口から漏れ出たその言葉は。
「たす、けて」
これまで、決して口にすることのなかった、その一言。しかしそれを聞く者は、誰一人として居なかった。
攻撃はもう目前。奇跡は、起こらない。
『悪いわね』
そして、龍の尾が彼女の体を捉えて――
「大丈夫かい、廻」
――誰かの声が、響いた。
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