第一話 満月の夜



 その少女に、名前はなかった。あったのかもしれないけど、彼女には記憶がなかった。


 少女は、孤島にたった一人で住んでいた。島で目覚めた夜より前の記憶を、すべて失って。


 彼女には夢があった。けれど、それは一人で叶えられる夢ではなくて。少女はもう、諦めてしまっていた。


 少女は孤独で、不安だった。自分が何者かも知らずに、ただ島で生きているだけの生活が。


 だから少女は――


――僕をつくったんだ。



 ◆◇◆



 それじゃあまずは、僕が生まれた時の話をしようか。


 君は、『常夜とこよ』を知っているかい。

 あの、明けない夜に覆われた、ひとつの世界のしまいの時代さ。現世うつしよ夢幻ゆめまぼろしの境目が、すうっと透けて消えてしまった、あの時代。


 そうだな。いまから数えると、千年くらい昔のことだ。


 明けない夜が、どれほど続いたかは分からない。なにせ、時間の定義さえ曖昧だったからね。

 それでも、ある日は月夜、ある日は星月夜、そうやって、夜は確かにめぐってた。

 そして、現世と幻世、二つの世界が一つに合わさる夜もある。


 願いが叶う、満月の夜。そんな夜に、僕は生まれたんだ。


 初めて見た景色を、はっきりと覚えてる。そこは、孤島の浜辺で、風の凪いだ静かな晩で、まんまるいお月様が浮かんでて。

 それで、僕を覗き込むように、まだ幼さの残る少女の蒼い瞳が、すぐそこにあったんだ。

 不安そうな表情だった。でも、すごく奇麗だった。まるで、人々を包み込む闇夜のように、吸い込まれそうな美しさだった。


 彼女は僕を覗き込みながら、呟いたんだ。


「人形くん、起きないなぁ」


 そう、僕は、この美しい少女が土と木でこしらえた、不格好な人形だったのさ。

 そんでもって、彼女は動かない僕を見てそんな風に呟くんだ。おかしいでしょ、だって、人形が動き出すわけが無いのに。


 でもその夜は、それが許される夜だったみたいでね。

 おろおろしてる彼女を安心させてあげようと思って、言ったんだ。


「おはよう、良い夜だね」


 いやぁ、あの時の彼女の表情は凄かった。人生における全ての嬉しいことが、一つにまとまってやってきたような。そんな、この世で一番輝いてるんじゃないかって思うほどの笑顔だったよ。

 不思議なことにね、その笑みを見た瞬間、僕は人形であって、人形じゃなくなってしまったんだ。不恰好な、木片と土で出来たボロ人形じゃなくて、いま君の目の前にいる、まるで人間のようなこの僕の格好に、見る見る間に早変わり。

 彼女が孤独の悲しみを紛らわすために作った人形は、月に祝福されて、生命を授かってしまったんだよ。


 そう、彼女は孤独だったのさ。湖に浮かぶ小さな孤島には、これまた小さな森と、砂浜と、真水の湧き出る泉と、山羊やぎと、野鳥と、鶏と、そして彼女しかいなかったんだ。

 この日、そこにはもう一体、おかしな人形が加わったわけだけどね。


 彼女は、初めて自分以外のに出会って、はしゃぎまわったよ。それで僕らは、最初に互いの名前を付け合ったんだ。


 ああ、そういえば自己紹介がまだだったかな。これは失礼。


 僕は、灯火とうか。闇夜を明かす灯火ともしびってことで、彼女が始めて僕にくれたものが、この名前。

 でも実は、これはそんなに重要じゃあない。なぜなら、今夜のお話の主人公は、あるいは僕じゃなくて、彼女なのかもしれないから。


 初めて、僕が彼女にあげたもの。それが、『めぐる』。つまりは、彼女の名前だ。


「どういう意味なの」


 彼女は――廻は、不思議そうに聞いてきたっけな。


「果てなくめぐる、この月夜。君が、そんな感じだから」


 直感だよ。一目見たときに僕はそう思ったんだ。闇夜の夢のように美しく、星々のように儚く、満月のように明るく優しい。

 今となっても、その想いは変わらない。


「それじゃああたしは、今日から廻だね」


 月明かりに映える褐色の肌に、伸び放題にも関わらず、穢れなく輝く銀の長髪。その美貌に、かみしめるような笑みを浮かべた廻は、本当に、夜闇の天女かと思ったよ。


「よろしくね、灯火」

「よろしく、廻」


 そうやって、この晩は過ぎていったわけだけどね。でも、常夜の世界に朝は来ないから、そのまま満月だけが沈んでいって、あとに残ったのは、砂糖菓子みたいにきらきら輝く星空だけだった。



   ◆◇◆



「とまあ、そうして僕は生まれたわけだ」


 少年はそこで、手に持った骨を白酒にひたし、そこにこびりついた脂と共にひと舐めする。


「おいしいな、このお酒。コクがあって、肉との相性が抜群にいい」


 暖炉の明かりが映し出す、少年――灯火の横顔は、無垢で無邪気な子どものようだ。

 これが常夜の神代から生き永らえてきた夢幻に類する存在であると、いったい誰が見抜けるだろうか。


「常夜というのは、随分と不可思議な時代だったのだな」

「何があっても不思議じゃない。その世界そのものが不思議で成り立っているんだから。そういう、輪郭のぼやけた、まさに夢のような世界だったよ」


 それでも、何もかもが許される楽園には程遠かったけどね。ぽつりと呟く灯火の黒い瞳に、ちらりと闇が浮かび上がる。


「それで、きみとその少女はそれからどうしたのだ」

「そうだな、それを語るには、夢の話をしなければならない」


 夢といっても、眠っているときに見るあれじゃあない。目標とか、憧れとか、そういう意味合いでの「夢」の話だ。

 そう言って、灯火は再び語り始める。


 聴衆は、人の想いを糧に生きる、妖鬼おれただひとり。

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