2
大きくとられた窓からは、〈エヴァジオン〉の地上部の全景をはっきり見下ろすことができる。
かなりの高さがあるようで、整然とした町並は、角砂糖のように小さく見えた。
「さあ、フィーネ。オンボロ・ディスクを、アタシに返してもらえるかしら?」
「ええ、約束しましたもの」
車椅子の上で頷くフィーネに、サラバントがコーダを押しのけて、無言で歩み寄ってゆく。
「痛いじゃない!」と文句を言ってやるが、無視される。
表情こそなんの色も滲んではないが、僅かに持ち上がった肩は怒りを露わにしていた。人造人間らしくない、姿だ。
「マスター、どうして貴方は、こんな愚行を?」
「雨が降れば、菓子人形たちは溶けてしまいますものね。確かに、愚かな行為でしょう。でもね、サラ。自ら死を選べないのなら、システムを動かすしかないでしょう?」
微笑むフィーネに、サラバントは「違う」と頭を振った。
「貴方も、無事ではいられないのですよ!」
「分かっているわ、サラ」
「何故ですか!」
震える声が、フィーネに叩きつけられる。
フィーネはサラバントの激高に、大きな目をさらに開き、ゆっくりと頭を振った。
「私は、もうすぐ壊れる。手足のパーツをいくら取り替えたところで、内側を侵食する硬化症には、効果はありません。せいぜい、あまりない寿命を僅かに引き延ばすだけです」
サラバントは、なにも言わない。
いや、言えないのか。フィーネが騙るものはどれも真実だった。
「私が消えたら、貴方は別の菓子人形を捕まえて、新しいマスターを作るのでしょう? この世界に菓子人形が存在する限り、貴方はどこへも行くことができない。永遠に、その体が朽ちるまで悪夢に囚われ、菓子人形は意味もなく存在し続ける」
燦々とした人工太陽に照らされていた町並が、一気に陰った。あ、っと思ったときは、既に、大粒の雨が分厚い硝子窓を殴打していた。
とうとう、降り出した。
前も見えないほどの豪雨の中に、青白い稲光が混じっている。雷鳴は砲火のように、〈カリヨン主塔〉を振動させる。
断続的に走る長細いプラズマは、〈ミラージュ〉の煌めきを連想させた。
「すごい、綺麗」と思わず呟いたコーダに、フィーネは肩から力を抜いて、続けた。
「もう、この世界は、とっくに役割を終えているのです。菓子人形同士が殺し合い、己を人間と騙る。彼らの存在には、もう……意味が存在しない。お願いです、サラ。安らかな眠りを与えてください」
「……嫌ですよ」
サラバントが、コンソロールに手を伸ばす。
「今すぐ、天候を調整します。よくもまあ、大胆なことをお考えになられましたが、俺は、〈エヴァジオン〉のシステムを把握しているんですよ。雨ぐらい、止められないわけが……」
サラバントの自信を砕くように、ディスプレイには〝ERROR〟の赤い文字が表示される。
『これは残念でありますね、サラバント殿。〈エヴァジオン〉の全権は、フィーネお嬢様に譲渡されているのでありまして、あなた様の権限では、アクセスすることはもう、不可能でありますのです』
「この、無駄に長ったらしい台詞! どこにいるのよ、クソボロ円盤!」
久しぶりの機械音声に、コーダは髪を振り乱して青い円盤を探す。
「マスターが、システムの全権を?」
『可能で、ありましょう。わたくしと、〈渡り鳥機関〉の幹部であらせられる女性の遺伝子データをお持ちなのですから』
フィーネが、胸元から〈オーヴァチュア〉を取り出した。久方ぶりに見る青い円盤が、これ見よがしにきらりと輝くのに、コーダは苛々と唇を噛んだ。
「何を堂々と、偉そうに! アタシの〈ミラージュ(ちから)〉に影響受けて喋っている割には、ほんと、ムカツク言い草ね!」
『ぶつくさと、文句を言っている場合じゃないでしょ? 早く、返してもらわないと!』
フィーネは〈オーヴァチュア〉の滑らかな表面を擦り、焦るオルビットを宥めるように微笑んだ。
「この雨は、止みません」
車椅子ごとコーダの元へとやって来たフィーネが、〈オーヴァチュア〉を差し出す。
「止まないって、じゃあ、どういうことなのさ?」
「全てを飲み込んで、水の底へと沈めてしまうでしょう。〈エヴァジオン〉は水没する」
窓を叩く雨脚が、さらに加速していた。
目視できるほどの雨粒は弾丸となって町に降り注ぎ、その勢いは家屋だけでなく、地面まで抉るほどだ。
薄靄の掛かった空、見下ろす光景は、既に蜂の巣のようだった。
「今すぐ、雨を止ませてください! なぜ、自ら滅びの道を行こうとなさるのです?」
「分からない?」
問い返すフィーネに、サラバントは頭を振る。艶の良い毛並みを持つ尻尾が、だらしなく垂れ下がってしまっていた。
「確かに、菓子人形たちは狂っている。共食い? それが、どうしたというのですか? システムとしては、ちゃんと成り立っているでしょう? 分かりませんよ!」
「分からないのなら、サラ」
車椅子に取り付けられているコンソロールに指を滑らし、フィーネは車椅子から立ち上がった。長いスカートの中で、耳障りな高い音が響いた。
一瞬、倒れそうになる体に、車椅子にしがみつくことで立て直し、フィーネは続ける。
「貴方はもう、人間だわ」
〈カリヨン主塔〉が、吠える。
窓に、なにか大きな影が幾度も差し込んでくるたび、分厚い硝子がびりびりと震えた。
「居住区にもなっているリングは、〈連絡列車〉が使えなくなったときのために用意されている、非常脱出経路となっています」
正面の巨大ディスプレイに、〈カリヨン主塔〉の全景が映し出される。
くるくると回る地上部のリングが重なり合い、梯子のように積み重なってゆく。
「さあ、早く屋上へ。〈アンフィニ〉が行ってしまう前に、コーダ様とサラ、貴方がたは、〈エヴァジオン〉から脱出してください」
『フィーネ、貴方は、どうするの?』
今もなお、雨を止めようと奮闘しているサラバントを尻目に、コーダはようやっとのことで立つフィーネを見つめる。
穏やかに微笑む顔は、満足そうで――腹が立つ。
「私は、〈身分証明板〉を持っていません。それに、自分でやったことの責任は、とらなくてはいけません。多くの同胞を、私は個人的な感情で屠るのですから」
「……アンタだって、中身はもう、人間じゃないのさ」
フィーネの笑みが、強張る。
『なにを馬鹿なことをお言いでございますか、コーダお嬢様。この方は、正真正銘の菓子人形で』
ちゃちゃを入れる額の〈オーヴァチュア〉に拳をぶち込んで、コーダはフィーネの肩をそっと掴んだ。
「お願いです、コーダ様。サラを、どうか、この世界から救ってください」
巨大なリングが、風を切って行き過ぎてゆく。
『フィーネ、あなた、サラバントのことを』
強い雨と風が、強化硝子の表面を舐めた――その時だ。
フィーネの青い瞳に映り込む人影に気付き、振り返った。
「ラルゴ! 生きていたの?」
深緑色の、コート。
巨躯を縮め、弾丸のように迷うことなく突っ込んでくるのは、間違いない。ラルゴだ。
「伏せてください!」
サラバントの怒声に、コーダはフィーネを抱え、手近な物陰に飛び込む。
激しい雨にも、烈風にもびくともしなかった窓へと向かって、銃を握る左手が突きつけられていた。
恐怖に体を竦めるフィーネをしっかりと抱えた、直後。幾つもの銃声が、頑強な窓を打ち破った。
「サラ!」
吹き込んでくる雨に、止まない銃声。
出て行こうとするフィーネを抑え込み、コーダは物陰から僅かに体を出してみた。
「出てこい、サラバント! この、茶番を仕掛けた女もだ!」
弾を撃ち尽くした銃を放り投げたラルゴは、鉄の義足を打ち鳴らし、雨に濡れて溶けたのか、歯が剥き出しになった口を開けて吠えた。
「お前たちだけは、許さない。無為に生み出されただけのセリに、何の罪があった? 与えられた命は短かった、短すぎた。たった一瞬の生命を、最期まで人として、私は生き抜かせてやりたかった。ただ、それだけが願いだった!」
金属の跳ねる音。サラバントの蛇腹剣を、解放するボタンの音だ。
深緑色のコートから、瀧のように雨を滴らせるラルゴに、サラバントが対峙する。
「それが、お前たちの幸せだと?」
「少なくとも、私たちは幸せだった。真実に気付く、その時までは!」
ラルゴは義足を支点に、サラバントの懐へと飛び込んでゆく。持っていた武器は、先ほどの拳銃だけなのか。
無防備とも言える特攻に対し、サラバントは表情一つ変えず、的確に蛇腹剣を振りかぶる。
――が。
動かない右腕を狙った攻撃が、災いした。
濡れたコートは滑り、蛇腹剣の刃が砂糖漬の肉に食い込んだのだ。
「離れなさい、サラバント!」
舌打ちするサラバントが柄を離すより先に、強肩を生かしたラルゴが、食い込んだ蛇腹剣を引き寄せながら、後ろに飛んだ。
体勢を崩され、前のめりになるサラバントへ、ラルゴは義足の先端を打ち込んだ。
「やめて! サラ!」
「ちょっと、引っ込んでなさいフィーネ!」
腕に食い込んだ蛇腹剣を引きずり、ラルゴは咳き込んでいるサラバントに向かって手を伸ばす。
「このまま、握り潰してやる。いくら人造人間でも、首を潰されれば、死ぬだろう? 私たち、菓子人形と一緒だ」
細い首を掴み、力任せに持ち上げた。
「サラバント、貴様を殺してから、あの忌々しい菓子人形も破壊してやる!」
「そう……簡単に!」
ホルスターから銃を抜き、サラバントはラルゴの額へ銃口を押しつけ、銃爪を引いた。
装填されている実弾を撃ち尽くすまで、引き続ける。
『嘘……なんで、倒れないのよ、あいつ!』
サラバントの右手から、銃が落ちる。
ありえない。驚愕に強ばる顔をラルゴは笑い、サラバントを掴んだ右手を大きく振りかぶる。
「いいや、気が変わった。まず先に、貴様の主人を、ばらばらにしてやろう。セリを侮辱した、憎いあの女をな!」
振り返る顔に、理性など欠片も残っていない。
ただ、悲しみに暮れる一人の男が、狂気に笑い声を上げているだけだった。
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