第六章 人間と人間
1
氷砂糖湖の水が引ききってしまう前に、対岸へ辿り着いたコーダとサラバントは、無人の〈カリヨン主塔〉へ入り、エレベーターで地上部まで上がってきた。
「邪魔されないってのも、それはそれで、なんだか張り合いがないね」
『張り合って、どうするのよ!』
背後で閉まる扉に手を振って、コーダは〈カリヨン主塔〉の一階から三階まで吹き抜け構造になっているフロアを見回した。
ここは、一般人にも開放されていた区画らしい。壁は綺麗に白く塗られていて、光を取り込むための巨大なステンドグラスが、円形のフロアをぐるりと取り囲むようにして嵌め込まれている。
色つき硝子を通して床に落ちる光が眩い中、一際ぐんと異彩を放っているのがフロアの奥に設置されている木製の機械と、その前に座っている三人の少女だ。
フィーネではない。緩くウェーヴの掛かった赤毛から、三角形の耳が突き出ている。
三人とも皆、人造人間だ。
「〈カリヨン主塔〉の組み鐘を鳴らすための、バトン式鍵盤とそのカリヨネアです。彼女たちが、一〇二機の鐘を制御しているのです」
『この……大きな糸巻き機みたいなのが、鍵盤?』
オルビットの反応は、まさに、言い当て妙と言った所だった。
滑らかに削り出された木の
「バトンを叩いて、音を出すのですよ」
座ったまま、ぴくりとも動かない人造人間の肩越しに、サラバントはバトンへと拳を叩きつけた。
巻かれたワイヤーがピンと張り、遙か頭上から鐘の音が一つ、響いてきた。
「随分と豪快だけど、聞こえてくる音は繊細なのね」
『ねえ、パギュール。この鍵盤を壊しちゃえば、十時の鐘は鳴らないんじゃないの?』
良い事を思いついた――と声を弾ませているオルビットに、コーダは「やれやれ」と肩を竦める。
「アンタ、馬鹿ね。胡散臭い車掌は時間の目安で言っただけで、鐘が鳴っても鳴らなくても、素知らぬ顔で出発するさ。だいたい、こんな綺麗なものを壊そうだなんて発想が信じられない! どうせ壊すんなら、人造人間のほうじゃない?」
『馬鹿って、言わないでよ! そっちこそ、可哀想なこと言わないで!』
鐘の音がいまだ残るフロアを横切り、上階へと続くエレベーターの前に立つ。つるつるとした床を、思いっきり踏みしめたときだ。
ざりっと、砂を踏んだような感触に、コーダは視線を落とす。
砂糖屑と……長い、金色の髪。
サラバントは髪を拾い上げ、「マスター」と呟く。硬化症による崩壊が、始まっているのだろうか。
「一気に、〈環境管理システム〉まで登ります」
声を硬くし、宣言したサラバントが操作パネルに右手を置く。程なくして、ゴンドラが降りてきたベルが鳴った。
金メッキのひたすら豪奢な内部は、まるで棺桶のようだ。
◇◆◇◆
フィーネが感情と呼べるものを初めて抱いたのは、頭の半分が吹き飛んだ時だ。作りもののはずの体が、恐怖に強ばった一瞬だった。
フィーネは、自らを人間と騙って疑わない不良品の菓子人形に襲われた。
もう、遠い昔のはずなのに、思い出そうとすれば、じわじわと硬化しつつある体の内部から、恐怖による震えが四肢を絡め取る。
壊されるのが怖い、と言うよりは、むしろ食べられることなく廃棄されてしまうことが、菓子人形であるフィーネにとっては、何よりもの恐怖だった。
機械だらけの無機質な部屋の中で、フィーネは長いスカートの裾を持ち上げた。
滑らかなエナメルの赤い靴に映える、白い脚。なんの混じりけのない砂糖でできた器官には、僅かな陰りが見え始めていた。
「私は、死ぬはずだった。壊され、朽ちてゆくはずだった私に、サラはもう一度、命を与えてくれた」
頭を抉っても、まだ恐ろしいのか。
動けなくなったフィーネを不良品たちは取り囲み、粉々に砕こうと脚を持ち上げた。
もう、駄目だ。残された右目で呆然と靴の裏を見つめることしかできないフィーネを救い出したのが、サラバントだった。
フィーネという名前は、新しい顔と一緒にサラバントから与えられたものだ。
「私は、嬉しかった。一緒にいて欲しいと、貴方に言われた。初めて、誰かに必要とされた時だったのです。でも……今は分からない」
新しい脚と古い体の接合部を、撫でる。
サラバントの処置で長いこと命を繋いできたが、そろそろ限界だった。
体も、心も。
「私は、幸運だったの? それとも、不幸だったのかしら? あのまま、壊れていれば、今ほど苦しまずに終わることができたのでしょうか」
車椅子を呼びつけ、倒れ込むようにして座る。立っていれば亀裂は深くなるばかりで、刻限をいたずらに早めるだけだ。
ゴンドラが登ってくることを示すランプが、エレベーターに灯った。ようやく、サラバントが、やってくる。
「どうして、私たちは、人間ではないの?」
俯けば、肩を流れてくるのは柔らかい人の髪だ。菓子人形にはあり得ない弾力が、硬く強ばった体の上に跳ねる。
蜂蜜を溶かして作ったような、リトミック博士の美しい髪束を掴み、口元に引き寄せた。
顔も、体も、髪も。
全てが、リトミック博士の面影を刻みつけるように、サラバントの望むままに作られた。
自分の姿は、在りし日の博士と瓜二つだ。元の姿がどうだったのかは、すでに思い出すこともできない。
「どうして、わたしは菓子人形なのでしょう。せめて、ラルゴやセリのように、人間であると勘違いしていられたら良かった」
精巧に似せて作られたからこそ、菓子人形の青い目と、菓子人形の使命(プログラム)が苦しい。
「貴方を、愛することができたかもしれないのに」
恐怖から生まれた心は、同じ恐怖を感じて終えようとしている。
フィーネは唇を噛み、顔を持ち上げた。
ゆっくりと開いてゆく、扉。
華やかな世界に潜む影のように、黒ずくめの青年が、環境管理センターへと降り立った。
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