最果てのコーダ

南河 十喜子

序章

ヴネ・メデ(venez m'aider)

 短い光が三回、長い光が三回、短い光が三回。

〈ミラージュ〉と名付けられた半透明の知的生命体の輝く体を突き抜けて、宇宙の果てへと飛んでいく。

 これは、遭難信号だ。

 ヴネ・メデ《助けに来て!》と、叫ぶ地球人たちの悲鳴が過ぎ去る光の中から聞こえてくるようで、〈ミラージュ〉はいてもたってもいられなかった。光線の発信元へと、真空の海を掻き分けて急ぐ。

(待っていて。今、行くわ)

 名前を与えてくれた地球人たちを真似て、〈ミラージュ〉は光の集合体である己の体にメッセージを乗せ、宇宙の闇へと走らせた。

 すっと、伸びてゆく光の筋。

 己の体の一部。

 しかし、返ってくる言葉は、絶無。ただ、等間隔に救難信号が放たれるだけだ。

 もどかしい。

 いったい、宇宙の闇の先では何が起こっているのだろう。

 以前は、天の川とも呼ばれていた体を大きくうねらせ、〈ミラージュ〉はとにかく進む。

 急げば急ぐほど、巨体は細く長く、帯となって宇宙空間に広がっていった。

 薄く、どこまでも伸ばされて行くのは不快でしかない。自分が希薄になるような、ありもしない不安に駆られるからだ。

 それでも〈ミラージュ〉は、構わずに進み続けた。

 地球人は〈ミラージュ〉一族と違って、弱く脆い。ごくごく簡単なこと――たとえば、生身で宇宙空間に放り出されただけでも、あっさり死んでしまう生き物だ。

 度々あった接触の機会も、そのせいで棒に振るのが常だった。

 今度こそ、地球人に会いたい。できれば、生命活動がまだあるうちに。

 光や、プレートを介しての言葉ではなく。まして、干からびた死体ではなく。彼らの肉声で、彼ら自身の歴史に触れたかった。

 もっと、もっと。

 人間のことを……その母体となった地球のことを〈ミラージュ〉は知りたかった。

 宇宙の果てに流れてくる死体を回収するたび、彼らの脳は胸の痛くなるような郷愁の感情で、遙か遠くにある地球のことを語ってくれた。

 まだ見ぬ惑星、拠るべき故郷のない〈ミラージュ〉が惹かれるほど、彼らの記憶にある地球の姿は美しかった。

 ようやく太陽系に入り、赤茶けた木星(ジユピテール)の姿が闇の中に浮かび上がってきた。

〈ミラージュ〉にとっては、ついさっき、地球人にとっては数百年以上も前に交しただろう約束を思い出す。

 互いに歴史的な対面となる場所は、木星にある地球人達の基地だった。

 救難信号の発信元が、約束の場所のすぐ近くなのに、〈ミラージュ〉は薄く伸びた体を捩らせた。嫌な予感がする。

 漂う宇宙ゴミを押しのけて、木星へと接近するが……

(何も、ない)

 いや。

 正確には、何も存在しないわけではなかった。ついさっき通り過ぎた土星の輪のように、大小様々の無数の塵が輪になって、木星を取り囲んでいた。

 これは、地球人たちの基地だ。

 基地の、夥しい瓦礫だった。

(光は、どこにあるのかしら?)

 天王星付近にまで伸びた足をもぞっと動かし、〈ミラージュ〉はぐるりと体をよじらせた。

 眩い太陽光に飲み込まれるようにして、ごくごく小さな影が浮いているのに気づく。

 三角形の、小さな人工物――シャトルの船影だ。遭難信号は、そこから放たれていた。

〈ミラージュ〉は背中を隆起させ、新たに二本の腕を作った。シャトルに向かってゆっくりと触手を伸ばしてゆく。

 過去の産物となった、スペースシャトルを思わせる旧式デザインの機体は、真ん中から後ろが綺麗に吹き飛んでいた。

 残された船首部分も、脆そうだ。少しでも力を入れれば、ばらばらに砕けてしまうだろう。

 手繰り寄せるのを諦めて、これ以上は飛ばされないように、そっとシャトルを両手で包み込むと、〈ミラージュ〉は自身の体を伸ばして、半壊のシャトルを覗き込んだ。

 無人の座席はどれも損傷が激しく、前方の操縦席は酷く焼け焦げていた。床に転がっている黒い物体は、形から推測して地球人だろう。

 ここまで損傷が激しいと、使い物にはならなそうだ。記憶を読み取ったところで残されているのは死への恐怖と苦痛だけだろう。

〈ミラージュ〉は、宇宙へと向かって伸びるチューブの先を辿ってみる。

 船外活動用の命綱か、シャトルの配線かはわからないが、その白い糸の先に何かが絡みついていた。

(――地球人だ!)

 眩しいまでに白い塊、宇宙服を着た地球人が浮いているのが見える。大きさからして、子供だろうか。

 赤い眼を明滅させて、〈ミラージュ〉は子供に(アナタは、誰?)と、尋ねてみる。

 だが、反応はない。

 胸に着いたライトがむなしく、救難信号を発しているだけだ。

〈ミラージュ〉は更にもう一つ手を作り、子供の体をそっと引き寄せる。

 水素燃料から出た水を被ったのか、白くタイトな宇宙服には、うっすらと霜が張り付いていた。

(アナタの名前……名前はなんて言うの?)

 地球人の平坦な胸に、銀色のネームプレートが埋め込まれている。

〈ミラージュ〉は触手を伸ばし、プレートをそっとなぞった。

(アナタは、オルビット)

〝オルビット〟という名前の子供を飲み込み、〈ミラージュ〉は、周囲を見回した。

 他に地球人がいないかどうか、知覚できる全ての領域を探る。

 だが、オルビットの他には、有機物を見つけることはできなかった。爆発に巻き込まれて消滅したか、命綱が千切れて、永遠の闇へと流れていったのか。

 とはいえ、落胆するのは、まだ早い。

 合流ポイントでもある木星基地は、地球人の住処の一つに過ぎない。

 本拠地である地球に辿り着ければ、基地よりもずっとたくさんの人間がいるはずだ。

〈ミラージュ〉自身、ここで立ち止まるつもりはなかった。

 目的地はあくまで、美しく青い地球だ。木星での会合は、寄り道でしかない。

(一緒に行きましょう、オルビット。ワタシが連れて行ってあげるわ)

 チューブ(臍の緒)を千切り、オルビットの小さな体をしっかりと固定した〈ミラージュ〉は、地球へと向かって、ゆっくりと泳ぎ始めた。

 半透明の巨体に押しやられたシャトルが、他の無数のデブリへと飲み込まれ、眩い閃光を散らして砕ける。

 熱風に背中を押されながら、木星から地球まで、およそ六億二千万キロメートルの旅路に繰り出した。

(オルビット、アナタに出会えて嬉しいわ)

 宇宙の果てからやって来た〈ミラージュ〉にとっては、散歩程度の距離ではあるが、それでも、オルビットの存在に感謝していた。一人旅は、とても寂しいものだ。

 それに、地球へと降りるためには、どうしても、何かしらの器が必要だった。

 今のままの姿で真空の頸木から解き放たれたら、最後。拡散しすぎて、個としての形を、保てなくなってしまうのだ。

 そう、オルビットは、ちょうど良い器になる。大切にしなければならない。

〈ミラージュ〉は、白い宇宙服を構成する、繊維の僅かな隙間から染み込むようにして、じわり、じわりと内部へ侵入してゆく。

 生命維持装置が全て停止してしまっているらしく、内部は宇宙空間とさほど変わりないようだった。

 皮膚と宇宙服の間にある僅かな隙間を埋め尽くすと、僅かな膨らみがあることが分かった。オルビットは、少女だった。

 オルビットのかさかさに乾いた皮膚の細胞壁を通り抜け、〈ミラージュ〉は凍えた血液に混じり、華奢な体の隅々まで侵入して行く。

 爪先、指の先、脳髄の奥の奥まで入り込み――目尻から、一筋の涙となって溢れ出た。

「ワタシは、アナタを知っているわ。ずっと、ワタシに言葉をくれていた子ね!」

 少女の名前は、コーダ・オルビット。

 十六歳の、地球人の宇宙飛行士。  

 生命反応の復活に、背中に背負った生命維持アセンブリが起動する。

 真空に近かった宇宙服の内部に酸素が混じり込み、〈ミラージュ〉は分裂した。

 か細い肉の体に閉じ込められたもう一つの〈ミラージュ〉は、霜がこびりついたバイザー越しに、自分自身の赤い瞳を見上げた。

 黄金に輝く巨躯が、宇宙の闇の中できらきらと瞬いている。

 地球人たちから与えられたいくつかの名前の中に、ジュエル・ボックスと言うのがある。

 赤や、青。様々なエネルギーの塊たちが、金色の体の内側で、きらきら輝いていた。

「綺麗だわ、とても。これがわたし」

 思わず、溜息が漏れる。名前の意味に恥じることのない、すばらしい体だ。

(もう少しで、地球よ)

「長い、長い旅路だったわね」

 金色の掌に抱かれながら、〈ミラージュ〉はオルビットの内側から、、星々の広がる宇宙を見つめた。

 もうすぐ、火星に辿り着く。青く美しい地球の姿が見えてくるはずだ。

 胎児のように丸まり、上機嫌で歌を口ずさむ。

 コーダ・オルビットがまだ息をして、動き、笑っていた頃に歌っていたものだろう。

 ドン・ギアのカリヨン。

 ソプラノが紡ぐのは、フランス語のなめらかな響きだ。


〝Non ès scontato che (この世の中に し尽くされたこと)

Tutto è già stato fatto(言い尽くされたことなんて)

È già stato detto(なにもないはず)

Per fortuna non c'è solo il viaggio(幸せなことに人々が待つているのは)

Per la luna che aspetta i' uomo(月旅行だけではなくて)

Il mondo è grande oceano per nuotare(世界は泳いでいくための広い海で)

Il mondo deve anocora comincare Deve anocora cominciare(世界はまた始めなくてはならないのだから)〟


 包み込むように優しいメロディは、子守歌のように響く。

 ゆっくりと、母なる地球へ帰るこの肉体をこの歌は祝福してくれている。


〝E appena nato l'uomo(未来からやつてきた 生まれたての人類類)

Dal passo duro she(いまやつと確かな重い一歩を)

Viene dal futuro(この大地に踏み出したばかり)

Per fortuna non c'èsolo il viaggio(幸せなことに 人々が待つているのは)

Per la luna che aspetta l'uomo(月旅行だけじやなくて)

Della luna si può ritornate

La terra è li distesa ad aspettar(人は月からだつてかえつて来れる)e

La terra ancora è lì Distesa sd aspettare(大地は手を広げてそこで待つていてくれる)

 I nositri occhi(私たちの目は声を聞き)

Ascolttano voci vedono lampi(そして閃光を見る)

Alla festa dei nuovi colori(新しい色の祝祭にて)


Il mondo è grande oceano per nuotare(世界は泳いでいくための広い海で)

Il mondo deve anocora cominciare Deve ancora cominciare(世界はまた始めなくてはならないのだから)〟


 映像でしか見たことのない地球だが、〈ミラージュ〉は既に、その美しさの虜だった。

 ようやっと獲得した脳で、〈ミラージュ〉は青い海を夢想する。

 ずっとずっと、近くで見たいと願っていた。もうすぐだ、もうすぐで彼の地へとたどり着く。

 何度も何度も、飽くことなく歌を繰り返していた〈ミラージュ〉は、体を包む己の分身が、ぶるりと大きく揺らいだのに気づいた。

(ねえ、あれは何?)

 尋ねられ、〈ミラージュ〉は歌をやめて視線を宇宙の彼方へと向けた。

 明と暗しかない宇宙空間に巨大な輪が、火星軌道をなぞるように浮かんでいる。

 これはいったい、何なのか? 太陽系にこんな巨大な建造物があるなんて、全く知らなかった。

 いや、むしろ、おかしいのは、視野のどこにも、あるべき火星の姿が見当たらないことだ。

 太陽の光を浴びて、表面を青く染める円環があるばかりで、他には何も存在しない。

『ようこそ、いらっしゃいました!』

 困惑するばかりの〈ミラージュ〉に向かって、ひどく陽気な機械音声が投げかけられる。背中に背負った、生命維持アセンブリからの通信だ。

『ようこそ、コーダ・オルビット様。円環地球型人工惑星〈ニューワールド〉へ!』

「――地球は、惑星はどこにあるの?」

 太陽をぐるりと囲む、ひたすら巨大な円環の先、火星軌道上からでもうっすらと見えるはずの地球の姿が、存在しない。

 呆然と、地球を連想させる青い円環を見つめるしかないコーダに、機械音声は相変わらずの陽気な声で『コーダ・オルビット様』と前置きをして、説明した。

『残念ながら、地球は消失いたしましたのです。ここにあるのは、ただ一つ。人類が作りあげた至上の楽園、〈ニューワールド〉だけであります!』

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