第一章 糖蜜花と人造人間《アニマート》
1
足元に広がる、糖蜜花の
ぱきり、ぱきりと硬い音を響かせながら、糖蜜花は植物としての本能を惜しむことなく発揮し、無意味な増殖を続けていた。
サラバントは子供の腕ほどの太さがある匍匐茎をブーツの厚い底で踏みつけて、ドーム状の天井を見上げる。
青い空が投影されているスクリーンの下半分は、既に糖蜜花の支配領域となっていた。
暴力的なまでの甘い匂いが、世界に満ちている。
「意味もなく存在し続ける物に、美しさは一切ない。はやく、朽ちてしまえば良いのに」
足に体重を乗せて、匍匐茎を踏み潰した。
潰れた断面から、黄色がかった汁が、どろりと
濃厚な草の匂いを押しのけて、足元から漂ってくる甘い匂いに、サラバントは
「あぁ、俺は怖れているのか?」
ぞっとするような不快感が這い上がってくるのに、黒い尻尾が反射的に緊張する。
「俺は、いったい何を恐れている? ……馬鹿馬鹿しい」
糖蜜花の、気味の悪いほどに強い生命力にか。
それとも、この糖蜜花に覆われてしまった都市の姿に、だろうか。
あるいは、嫌悪感を覚える己の人工知能にか。
人が残した技術の粋は、残酷だ。
あえてつけられている、獣の耳と尻尾がなければ人そのものとも言える体は、不気味でしかなかった。
「与えられた使命を遂行するだけの、ただの物が存在意義を問うてどうする? 人のような感情など、忘れてしまえ。所詮はプログラムだ」
サラバントは口元を歪ませて一笑し、擂鉢状に広がる町並を見下ろした。
糖蜜花の侵食を受けつつはあるが、目の前に広がる風景は、サラバントの人工脳に記録されている百年前の町並みと、さほど変わりはなかった。
長い間放置されていても風化することなく、存在し続けていられるのは、世界のすべてが自然と切り離されているせいか。
人類によって作られ、至上の楽園と詠われた円環地球型人工惑星〈ニューワールド〉。
全長十四億キロの長大な天環を周回する、いくつかの移動都市で一番の大きさを誇ったのがここ、移動歓楽都市〈エヴァジオン〉だ。
サラバントは甘い空気を吐き出して、街の中心部に聳える巨大な観覧車を振り仰ぐ。
カリヨン主塔と呼ばれている、シンボルタワーだ。
幾重にも重なる輪の内側には、かつて〈エヴァジオン〉を支配していた富裕層が作り上げた街がある。
豪奢な細工の施された円環は、豪勢な天球儀を見ているようだった。
レアメタルを惜しげもなく使ったカリヨン主塔は、楽園を捨てた地球人類が残した、芸術品の一つといえるだろう。
とはいえ、その価値を知るものがいなければ、うち捨てられた鉄クズにすぎない。
サラバントはカリヨン主塔に背を向けて、更に上を目指した。
商業地区に入ると、景色が一変した。
視界が眩いまでの白で埋め尽くされ、サラバントは堪らずに目を細める。
〈エヴァジオン〉の、無限とも思える冨を作り出していた商業地区は、既に糖蜜花で埋め尽くされてしまっていた。
糖度の高い花びらからは、人であれば呼吸困難に陥るほどの甘い匂いが溢れている。
かつて、大木のように立ち並んでいたビルは、匍匐茎に圧搾されて瓦礫となって地中に埋まっている。
見通しの良すぎる平野には、肉厚の、ひと抱えもある白い花畑が広がるばかりだった。
「まるで、甘い毒の海だ」
純白の花弁の清楚さとは対照的に、芳醇な蜜を吐き出す生殖器部分は赤黒く、毒々しい。
サラバントは糖蜜花を踏みつけ、奥へ奥へと進んでいった。
細かな繊維から形作られている糖蜜花の花弁は、踏みつければ茸のようにさくりと潰れる。匍匐茎を潰したときのように、粘りけのある汁がじわりと滲み、行く手を遮るように靴底にこびりついた。
〈エヴァジオン〉では、この糖蜜花の花弁から絞り出した蜜を生成し、純度の高い砂糖が作られていた。
グロテスクな花から作られるとはとても思えない、上質な砂糖は、たくさんの人々に求められ、観光事業に並ぶ大きな産業だった。
今は全くの廃墟だが、〈エヴァジオン〉は人と、歌声と、欲と冨に満ちた華やかな世界だったのだ。足りないものは一つとしてなく、必要以上に生産され、無駄なものたちが毎日のように廃棄されていった。
「死者への手向けとして捧げるには、糖蜜花はあまりにも醜い。ありとあらゆるものが存在した都も、ついにはこんなものしか生き残らなかった。あなたたち人間は、いったいここで、何をしたかったのですか?」
サラバントは立ち止まり、黒く艶やかな髪から突き出す獣の耳を
低い――男の声だ。
腰から下げていた柄の無い、大きな鉈のような形状の
都市の維持管理を担っていた、総合政府機関〈セルヴィス〉の巨大な庁舎の跡地。
他よりも僅かに盛り上がった丘陵地帯で、男が一人、匍匐茎に埋もれるようにして倒れれている。
「た……すけ、て……」
大きく膨れた腹を重そうに抱え、口元を白い粉で汚した男が、血走った目でサラバントを縋り見る。
その男のそばには、赤い服を着た線の細い女が立っていた。
風もないのに、ゆらゆらと不安定に揺れる背中がびくっと震え、白過ぎる顔がサラバントを振り返る。
「ねえ、あなた。リトミック博士の人造人間よね? 知っているわ、私。ねえ、お願い、教えて頂戴。私は、何なのかしら?」
女は、ひどく怯えているように見えた。
いや、動揺していると形容したほうが良いのかもしれない。
サラバントは女へ向き直り、刃こぼれのひどい蛇腹剣の切っ先を向けた。すでに刃物と言うよりは鈍器に近い刀身が、人工太陽を鈍く反射した。
怯える女を睨んだまま、ゆっくりと吸い込んだ空気に、ざらりとした異物が混じっているのを感じる。
(純度の高い、磨き込まれた結晶の味。この女は、上質な素材だ)
「ねえ、答えて頂戴。私は、人間よね!」
女は、叫んだ。
混乱は、ある意味、当然のことだろう。
均整の取れた美しい肢体にあるべきはずの腕はなく、女のシルエットは人と言うよりは、むしろ貧相な一輪挿しの花瓶を思わせた。
「おかしいのよ! 少しも痛くないのよ! 腕を二つも失っているのに、全然、痛くないの! わたしは人間よ。なのに、これは、いったい何なの? ねえ、私は何をしたの?」
サラバントは「やれやれ」と、肩を竦めた。
「貴女は、わかっているはずです。無くしたという両腕が、いったいどこへ行ったのか。なにを、貴女はしたのか」
女の顔が、こわばる。
そう、今にも壊れてしまいそうなほどに損傷しておいて、気付かないはずがない。ただ、否定して貰いたかっただけなのだろう。
悪い夢を、見ているだけだと。
「貴女は、本能のままに行動しているにすぎない。それに、怖がることも……嘆くこともないんですよ。落ち着いて、感じてみれば良い。貴女は今、幸福感に充たされているはずだ」
「幸せなわけ、ない……ありえないでしょう? だって、私は――」
まだ、人間であると主張するのか?
サラバントは、つり上がっていた口元を引き締めた。腹の底に溜まる不快感に反応して、尻尾が左右に振れている。
「否定するのならば、それも良し。どのみち、貴女は瓦解する」
胴体を滑らかにくねらせ「嘘、幸せだなんて、嘘よ」とつぶやく女へ、サラバントはゆっくりと歩み寄ってゆく。
蛇腹剣の尖った切っ先を向けられているというのに、女は逃げる素振りを見せない。人造人間が、人間を殺せないという絶対原則(セーフティ)を知っているのだろう。
しかし、残念ながら、女は人間ではない。
絶対原則が、機能するわけがないのだ。
サラバントは一切の躊躇もなく、蛇腹剣を女の胸元に深々と埋め込んだ。
肉とは違う硬い手応えが、グリップを通して手に伝わってくる。
「嘆くことはないんですよ? 貴女はむしろ、幸運な人形だ。本来の使命を果たして、壊れることができるのだからね」
女の体は肉ではなく、砂糖で形作られている。
糖蜜花から精製された砂糖で、人間そっくりに製作された菓子人形《シユルクチユー〉。それが、女の正体だ。
女は悲鳴もなく、胸元にめり込んだ蛇腹剣の重みに潰されるようにして、粉塵状に砕け散った。
事態を把握していないだろう男が怯えて後ずさる。だが、無視をする。こっちの男は、素材として使うには、お粗末すぎた。
サラバントは、踏みつけられた糖蜜花の上にちょこんと残った足を拾い上げる。
形の良い脹ら脛の手触りは滑らかで、白い肌とは対照的な真っ赤なエナメル靴は、野苺のようだ。ふわりと香る甘い匂いは、高級な菓子を連想させた。
「俺は、羨ましい。あなたたちのように狂うことができたのなら、どんなに幸せだったろうと思わずにはいられない。与えられた役割から、俺は逸脱できないんです。どうやっても、ね」
女の足を片手に持ったまま、サラバントは腹の膨れた男を見下ろす。
男の両腕に巻かれている包帯が解(ほど)け、甘い匂いの中に僅かな酸味が混じった。僅かに漂う黴臭さに、サラバントは形の良い唇をゆがめ、嘲笑する。
「狂ったアナタたちには、いずれ終りが訪れる。夢から覚めるときが、必ず来るんです。それは、とても幸せなことだと……俺は思うのですよ」
グリップのスイッチを押し込んだまま、蛇腹剣を振り下ろす。刃が連結部から離れて鞭のようにしなり、男の首をいとも簡単に打ち払った。助けを求めて持ち上げられた腕が、すーっと音もなく匍匐茎の中に沈み込む。
剣の状態に蛇腹剣を戻して鞘にしまったサラバントは、砕けた破片のいくつかを見繕い、女の足と一緒に袋に詰め込んでいった。
質の良さを感じさせる重みに満足し、きゅっと袋の口を閉じる。
「これが、この世界の全てですよ」
袋を背負い、サラバントは総合政府機関の瓦礫が積み重なってできた丘を見上げた。
「……一つ、アナタに聞きたいことがあるの。良いかしら?」
無機質なものばかりが住まう〈エヴァジオン〉に、確かな重みのある少女の声が響いた。
蜜とはまた違った甘い体臭に、サラバントは黙って声の主が現れるのを待つ。
「あら、驚かないのね」
「環境管理システムは、全てが停止しているわけではありません。閉鎖されているはずの区画のセキュリティが解除されれば、分かりますよ。どうやって、いらっしゃったのかまでは、分かりませんがね」
「電車に乗って、駅からはレール伝いに歩いてきたの。風が強くて、落ちちゃうんじゃないかって、ひやひやしたさ」
薄桃色の髪を風に靡かせ、丘の向こうから現れた少女は、男の亡骸を気に留めることもなく、美しい石榴(ざくろ)のような瞳で、じっとサラバントを見つめた。
関節部が僅かに盛り上がった、特徴的なシルエットは、宇宙服だろうか。広い額に青い円盤を貼り付けた、奇っ怪な格好をしている。
「アタシは、コーダ。アナタ、耳がついてるってことは人造人間ね。型番ではなく、名前はあるのかしら?」
「サラバントです」
コーダと名乗った少女は満足げに頷き、もう一度、「聞きたいことがあるのだけれど、良いかしら?」と問いかけてきた。
拒否する権利は、サラバントには無い。小さく頷き返すと、幼さが色濃く残る顔が、嬉しそうに破顔した。
「この世界に、人間はいるかしら? アタシ、生きている人間を捜しているの」
答は「いいえ」だ。
かつて、移動歓楽都市〈エヴァジオン〉は、今では人の形をした菓子たちだけが溢れ返る、無人の廃墟と化していた。
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