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 フィーネは発券所から入場券を引き出し、エントランスでもある〈四月のアヴリル・ラトゥール〉の巨大な門へと、車椅子を滑らせて行く。

人間がいなくなっても、〈コンフィズール〉のだだっ広い通りは、賑やかなパレードが始終いつでも練り歩いている。

 ひといきれの代わりに施設内を埋め尽くす甘い粘ついた空気に晒され、軋む金色の髪を手櫛で解す。

 ガス灯を思わせる街灯に備え付けられたスピーカーからは、オーケストラが奏でる生演奏が絶えない。

 陽気な音楽は、しつらえて作られた派手な家屋とその住人たちにはぴったりだ。だが、どこか異様な雰囲気が漂っているのは、やはりここに人間がいないせいだろう。

 メインストリート、街灯の下、曲がりくねったベンチ。

 どこへ顔を向けても、夢の国の住人たちしかいない。

「ああ、お嬢さん。どこへ行くのです? お急ぎでなければ、私たちと一緒に、お茶でもどうですかな?」

 わざとらしい継ぎ接ぎだらけのスーツを着た菓子人形が、フィーネに向かってティーカップを持ち上げた。

 当然、精細な細工の施されたカップの中には、なにも注がれてはいない。丸いテーブルの上に置かれたポットにも、何も入っていないのだろう。

 紅茶を注がれた跡すらもないカップの底に、フィーネは「急いでいるので」と丁重に断り、奥へと進む。

 十二の塔の中で、一番の穏やかな場所である〈四月の塔〉の目玉は、枯れることのない砂糖の花々だ。

 ステンドグラスが張り巡らされたアーケードを抜けた先、視界一杯に広がるこの花時計が、そうだ。

 たくさんの色に染められた砂糖花は、地上を埋め尽くす糖蜜花と違い、繊細で美しい。

 作りものである以上、定められた一世代のみの儚い命が、これでもかとばかりに咲き誇っている。

「人間たちは、この花時計を見ていたのでしょうか。サラバントも、きっとあの人と」

 フィーネはゆっくりと、車椅子から降りた。

 サラバントの調整は、いつも、驚くほどに完璧だった。

 体重を支えているのは、他の菓子人形の足だ。なのに、最初っから球体関節に填っていたかのように、滑らかで違和感がない。

 しっかりと二本の足で立つが、喜びの念はフィーネには、ちっとも湧かなかった。

 違和感のない接合、汎用性の高いこの体こそ、菓子人形である一番の証だ。

 どう足掻いたところで、差別化しようとしたところで、結局は唯一無二のものではなく、その他大勢のその一部でしかないのを痛感させられる。

「そう、みんな同じ場所から生まれ出たもの」

 スカートを摘み、たくし上げると、真っ赤なエナメル靴が顔を出す。

 濡れたような赤色は、糖蜜花を連想させた。

 フィーネや、〈エヴァジオン〉に彷徨う菓子人形たちの、原材料である、あの毒々しい花を。

「ねえ、お願い……貴方はまだ、おかしくないのね? 私たちを、哀れんでくれているのよね? なら、聞いてちょうだい。お願いがあるの」

 砂糖花の中から、細い声が聞こえてきた。

 反射的に顔を向けると、半透明の砂糖花を砕きながら、白い肌を持つ手が伸ばされる。

「ここにいる菓子人形たちは、みんなおかしくなっちゃった。揃いも揃って、自分を人間だと思ってる」

 よくよく見れば、嘆く菓子人形の手は、いくつかの指が欠けてしまっていた。根元からではなく、途中から。歪な断面は、砕かれたようだ。

「ああっ、お願い!」

 砂糖花の中から這い出てきたのは、女性型の菓子人形だ。

 肩の位置で切り揃えられた黒髪は、蜜を塗りたくったかのような光沢があり、針のような堅さを持っている。

「私を――食べて! 壊されてしまう前に、どうか、食べて!」

 蜜を固めた睫毛を震わせ、青い瞳がフィーネを仰ぐ。 

「悲しいですね、とても。そう、私もとても悲しいの」

 フィーネは、菓子人形の頭を撫でた。硬い、人のものとはまるで違う感触を掴み、ぱきりと手折る。

「私も、貴方も。みんな、悲しみでいっぱいね」

 髪を、口元に運ぶ。

 じっと、見つめてくる菓子人形の青い瞳に滲んでいるのは――溢れるほどの恍惚だ。

「……羨ましい」

 口の中で、溶ける蜜はなぜだかとても苦く感じた。


◇◆◇◆ 


 かつての火星軌道をなぞるようにして作られた、人工惑星〈ニューワールド〉。

 全長約十四億キロに及ぶ巨大な円環の天井に敷かれたレールを走る列車が、旅人たちの主な移動手段となっている環状列車AZ八〇〇系〈アンフィニ〉だ。

 汚れを知らない純白の長い車体が、金のレールの上に立つコーダの頭上を走っている。

『アンタ、本当に無茶苦茶よ!』

 吹き付けてくる強い風に、長い髪が捥ぎ取られそうだ。コーダは、腰を僅かに落とし、重心を低く保ったまま走る。

 金色のレールは、正八面体の黒曜石を思わせる〈エヴァジオン〉の外殻を、土星の輪のように一周している。

『ちょっとでも足を踏み外したら、あんた、地上に真っ逆さまだからね! 分かってるよね!』

「死人に、心配されたかないさ! ちょっと、黙っててよね!」 

風よけのために、周囲を覆っている透明度の高い硝子に、どれほどの厚さがあるか、コーダには分からない。

 いずれにせよ、足を踏み出す度にレールを凹ませる程の速度だ。この勢いのまま落ちて、突き破りでもすれば、なすすべもなく真っ逆さまだ。

「指を咥えて見ていたところで、何が変わるってのよ」

 純白の〈アンフィニ〉へと向かって、傾斜が一段と厳しくなる。躊躇なんて、している余裕はない。コーダはさらに加速した。

 ここは宇宙と違って、重力に支配されている。立ち止まれば、後はない。

『パギュール! 追いついた! もっと、もっと早く走りなさいよ!』

「いわれなくたって」

 前方に見える、紺色の車体。

 テラスに立ち、無骨なゴーグルのレンズ越しからこちらを睨み付けているのは、ラルゴだ。

 大きくはためく濃緑色のコートの隙間から、銃がちらつく。

 銃爪が引かれるのを、コーダは目視する。

 しかし、足場の限られたレールの上では、避けられるようなスペースはない。そもそも、きつい傾斜を駆け上っている最中だ。

 速度を、落とせない。

「オルビット! アナタ、まだ大丈夫よね!」

 飛びかかってくる銃弾を、コーダは〈ミラージュ〉を放出して受け止める。

『四の五の……いっ……てる、場合じゃ、ない……しょ!』

 喉元のスピーカーから響く声に、雑音が混じり始める。

 幸いなのは、ラルゴが持っているのは拳銃だということ。マシンガンやらライフルを向けられていたら、今ごろは、貫通されていたかもしれない。

(だといっても、まずいわね!)

 傾斜しているため、ラルゴからは狙い撃ちの位置にいる。速度も落とせないうえに、避けられないのなら、受け止めるしかない。

 ラルゴの拳銃の弾が尽きるのが先か、〈ミラージュ〉が消えるのが先か。

「……そんなの、待ってなんか、いられないじゃないのさ!」

 コーダは走りながら、空を見上げた。

 陰ることのない青空には、虹のような煌めきが浮かんでいる。〈ミラージュ〉だ。

 コーダが溜め込んでいる〈ミラージュ〉の、急激な濃度の下がり具合を感知してやって来たのだろう。

 分厚い〈ニューワールド〉の外殻を、じわじわと侵入してきているものの、ここに辿り着くまでにはまだ少し時間が掛かる。

『なに、よそ見……てるの! 前!』

 ノイズ混じりの悲鳴に、視線を戻したコーダは息を飲む。

 金色のレールをコン、と叩いて飛んでくるのは、手榴弾パイナツプル

 弾ける閃光が、コーダを一瞬のうちに飲み込んだ。

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