第二章 菓子人形と人間
1
明らかに異常事態を知らせる大きな揺れに、不意を突かれたコーダは、臙脂色の絨毯へと、勢いよく飛び込んだ。
踝まで埋もれるほど毛足は長いとはいえ、まさか、掴めるほどには長くはない。
左右に大きく揺さぶられる車内の中をごろごろと転がり、白いテーブルクロスが掛けられた長卓の足に、強かに背中をぶつける。
「ちょっと、いったい、何があったの? この、ポンコツ! アンタ、センサーがついているんだから、気付きなさいよねっ!」
『気をつけるのは、あんたのほうよ!』
頭から落ちてくる銀のフォークやらナイフやらに顔を顰めていたコーダは、額の〈オーヴァチュア〉ではなく、甲高い少女の声に舌を打った。
どうやら、更に面倒なのが、起きてきてしまったようだ。
長い髪に絡まったフォークを引き抜いて、手荒に放り投げると『乱暴に扱わないで!』と注文が入る。
「いいじゃない、アタシのフォークじゃないし」
『食器なんて、どうでも良いのよ、髪が抜けたじゃないの!』
確かに、放り投げたフォークに薄桃色の髪が数本ばかり絡んでいる。だからといって、何が問題なのか。全く分からないと嘆息して、立ち上がる。
「細かいことを気にしすぎるのよ、オルビット。髪なんて、まだたくさん在るんだから、ちょっとやそっと、なくなったって問題ないじゃないの」
『コーダ! コーダ・オルビットは、あたしよ! 勝手に名前をとらないでって言っているでしょ!』
少女の切実な金切り声が、宇宙服に取り付けられている通信装置を破壊しそうな勢いで響く。
「コーダは、アタシが貰ったのよ。この肉は、アタシのもの。いちいち口出ししないでくれる?」
煩いから黙れと、言葉尻に僅かな苛立ちを混ぜて、コーダは通信機の音量を絞った。緊急用なので消音(ミユート)にできないのが、とても面倒だ。
『図々しい! なんて、図々しいの! あんたなんて、パギュールで充分なのよ。エイリアンって呼ぶのさえ、もったいないわ。コーダに至っては、失礼って言ったほうが良いわね。反省して!』
「パギュール? なによ、それ」
復活させたコーダ・オルビットの脳から、パギュールが何を表すのかを探る。
(なるほど、ヤドカリね)
脳裏に浮かんできた小さな甲殻類の映像に、思わず笑いが込み上げてくる。そう、確かに、オルビットのこの体は、コーダにとって借り物の殻だ。
大気中では、拡散するばかりの〈ミラージュ〉を閉じ込めておくためのもの。
宇宙服の細かな繊維の中には、ヤドカリが殻に海水を溜める代わりに、予備の〈ミラージュ〉が溜め込んである。
「パギュール、ね。でも、それを言うなら、アナタだって、ヤドカリじゃないのさ」
やたら煩く騒ぐオルビットの人格は、この宇宙服の繊維の中に宿っている。
脳の機能再生の時に、一緒になって再生された人格が、涙となってこぼれ出た際、宇宙に拡散せずに繊維の中に止まったのだった。
「いい、オルビット。アナタはもう、死んだの。もちろん、生き返ったわけでもない」
ヘルメットからはみ出した長い髪を翻して、コーダは窓際に向かって歩いてゆく。
「今のアナタは、そうね、幽霊みたいなものなのよ」
オルビットからの返事は、ゼロ。ただ、ノイズだけが通信機から返ってきた。
都合が悪くなると、すぐ黙る。オルビットの常套手段に構っているのも時間の無駄だと判断して、コーダは窓にヘルメットを押しつけた。
薄暗い地下を照らし出すように、眩いオレンジ色の光が、細い筋となって雨のように降り注いでいる。
『緊急用のブレーキが、何らかの理由で作動しているみたいですねぇ』
「火が出てるわよ、何とかしなさいよ!」
『何とかって、どうしろと? それがし、端末がございませんと〈エヴァジオン〉のシステムに介入できませんよ!』
「使えないわね、このポンコツ!」
相も変わらず暢気な様子の〈オーヴァチュア〉に、コーダは苛々と、ヘルメットを窓硝子に打ち付けた。
「だから、何らかの理由って、何なのよ!」
『それはもう、何らかです』
「役立たず!」
しれっと、悪気もなければ当然のことのように答えてくる〈オーヴァチュア〉に、コーダは苛立った。
コーダは、ヘルメットのバイザーを跳ね上げて、ぎゅっと握った拳を思いっきり打ち込んだ。
『ちょっと、なにやってんのよ!』
黙りを決め込んでいたオルビットが、悲鳴を上げた。確かに、自分の額を殴るなんて馬鹿げているが、湧き上がってくる衝動は、どうしようもない。
大して役にも立たないのに、なければ困る厄介者へ募る苛立ちを、どこかで発散しなければ、コーダ自身の頭が吹き飛びそうだった。
「とにかく、サラバントの所に行くわよ。何が起こってるのか、彼だったら分かるんじゃないのかしら? 〈エヴァジオン〉のシステムと繋がっているみたいだし」
バイザーを下ろし、先頭車両へと向かおうと、踵を返したところで、ふと立ち止まる。
丈夫な宇宙服の、内側。柔らかな人の肉を包む肌を、一気に裏返されるような悪寒に、コーダはすっと息を飲んだ。
固く閉ざされた、銀色の扉を凝視する。
『どうしたのよ、立ち止まっちゃって』
危険を察知した直感が、ヘルメットからはみ出た長い髪を、そろりと逆立てた。
――来る!
何が、とも、誰が、とも考える余裕もなく、コーダは膝を折って、上質な絨毯の上に腹這いになった。
本能的な行動は、正解だった。
直後、最初の揺れよりも強く、熱い衝撃が車体を大きく揺さぶった。
『もう、いったい、なにが起こってるのよ! ここって、遊園地じゃなかったの?』
内側からの衝撃に、頑丈そうな扉が、古くなった缶詰のように膨らんだ。
変形したせいで、機密性の失われた扉の隙間から流れ込んで来る黒煙は、とても苦そうに思えた。僅かな隙間からは、ちらちらと火の手も見えている。
「遊園地だった、ってことは、確かだろうけど」
ヘルメットがあってよかったと独りごちながら、ぱっと立ち上がったコーダは、そのままの勢いで絨毯を蹴り、半壊の扉へと跳び蹴りをかました。
むわ、と吹き付けてくる熱風をものともせず、炎上した車内に飛び込んでゆく。大きい窓が全壊し、温い風が車内に吹き込んでいた。
『いやよ、ちょっと戻りなさいよ! 燃えちゃう! あたし、燃えちゃうわ!』
「宇宙服なんだから、そう簡単に焦げやしないわよ」
オルビットの抗議を無視して、コーダは燃え上がる炎の中、先頭車両を目指して、ひた走った。
サラバントたちと別れた四両目に入ったとたん、頭から勢いよく風が吹き付けてくる。見上げると、大きな亀裂が走っているのに気付いた。
「上から、入ってきたのかしら? 随分と乱暴ね」
レールと車輪の高摩擦によって刮ぎ落される金属が、オレンジ色の雨となって宇宙服の上を流れていくのに、オルビットは『熔けちゃう!』と半泣きの悲鳴を上げた。
『この列車、懸垂式のモノレールなんですけどね。屋根に登るなんて、危険なことをしますねぇ。電線に触れたら、簡単に吹き飛んでしまいますよ。どうか、コーダお嬢様は、真似をなさらぬよう、お願いいたしますね』
『死ぬのも、痛いのも嫌なんだからね! 絶対に、無茶しようと思わないでよ』
口うるさいのに、こうまで釘を刺されてしまっては、コーダは頷くしかなかった。
体は人間とはいえ、既に死んでいる。気にしたって意味ないだろうに――面倒だ。
「ちょっと、見なさいよ、これ。砂糖の塊じゃないの?」
足元には、たくさんの瓦礫に混じって、拳ほどの白い塊が落ちていた。
高熱に曝されて僅かに熔けた表面が、てらてらとシートの上で燻る炎の色を映している。
コーダは、バイザーを少しだけ持ち上げた。黒煙に混じって、ほろ苦いカラメルの匂いが、鼻を擽った。
砂糖壺から転げ出てきたにしては明らかに大きすぎる塊。おそらくは、菓子人形のものだろう。
『電車の中に、菓子人形が入って来たんですかね』
不規則な壊れ方に、切り裂かれているシートと床。全て、サラバントの蛇腹剣によるものだろう。銃弾の跡に見える窪みも、あちこちに残っていた。
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