ゆうもあ先生の最終講義

 その日、ゆうもあ先生こと有象無蔵は退職したはずの神奈川県立大学の大講堂にいた。肩書きは「作家・神奈川県立大学客員講師」である。客員講師と言ったって何をするでもない。入学願書についているパンフレットに一筆添えるだけである。まあ、こんな感じだ。『私は二十年余り、本校に奉職したわけであるが、本校の素晴らしさは学食の品揃えの豊富さとトイレの綺麗さである。特にトイレはシャワー付きトイレで私はたいそう重宝した。えっ? 教育内容ですか。もちろん素晴らしいですよ。私を教授にしたくらいですから。詳しくは……ああ残念、誌面が尽きてしまいました。せいぜい受験勉強を頑張って本校に合格して、自分の目でお確かめなさい。随分とがっかり、いや思ったよりはやる気が出るでしょう』なんとも人を食ったメッセージである。


 さて神奈川県立大学の大講堂に戻ろう。今日ここで有象無蔵の最終講義が行われるのである。当初、そんなものは予定されていなかったが、樋口一応くんや有象ゼミのメンバー、柏木麻里子、渡辺由紀、横山亜紀、前田優子、大島敦子に有象の講義のコアなファン、草井君代、斎藤隆史、服部洋子が発起人となって大学側と交渉。学長の樋口一角は孫の樋口一応に甘いから、二つ返事でOKを出した。でも、学生が集まるかしら。そんな心配に反して大講堂は超満員。日頃の単位の甘さや、最前の鷲田学部長追放デモに参加するなど、いつも学生側に立っていた有象は案外、彼らに人気があったのだ。だから今回の退職を惜しむ声が方々から聞こえた。ただしそれは「俺、単位危ないんだよな。来期は有象教授の講義で単位キープしようと思ったのに、やめちゃうんだもんなあ」「あたしもよ」という情けない声がほとんどだった。


 午後二時。有象が大講堂に登壇する。会場割れんばかりの拍手。有象はせっかく梳かした髪の毛をボリボリかいた。照れが半分、緊張が半分。

「えー、こんなに多くのオーディエンスにお集まりいただくのは春の講義ガイダンスだけなもので、ああ、手が震えるなあ」

 有象は緊張を隠さない。

「なんだかもう冬だというのに今日はお日柄もよろしく……これじゃあ、結婚披露宴のスピーチだな」

 軽く笑いが起きる。

「まあ、こういうのを小春日和っていうんですな。寒いより暖かい方がいいに決まっている。今日はいい日だ。そんな日に樋口一応くんはじめ多くの有志のご配慮で私の最終講義をさせていただけるとは嬉しいやら面倒くさいやら悲喜こもごもですな。ゴホン」

 有象は咳払いした。

「私の人生、洒落や酔狂で生きてきたので、前途有望な君たちに私がお伝えすることなど、サラサラございません。終わり」

 会場がざわつく。

「で、終わらせたらこんなに楽なことはないんだけど、お時間の方が後一時間ほど残っております。こんなことなら、事前にしゃべること決めて原稿用紙に書いてくればよかったなあ」

 ぼやく有象。すると、会場から、

「何にも考えてこなかったのかよー」

と文句が上がる。

「うん、考えてこなかった。何か問題でも?」

「大問題だよー」

「そんなこと言ったって、急に最終講義をやれって言われてさあ、頭真っ白だよ。白髪だったら染めればいいけど、脳みそを黒々にしたら死んじゃうよ」

「駄目だこりゃあ」

「おう、駄目だよ私は。生まれた時から駄目なんだ。駄目の十字架を背負ってゴルゴダの丘を登る三蔵法師だよ」

「なんか違うぞー」

「分かっているよ。時間稼ぎしているんだ。こうして、脳を一汗かかせれば気分がほぐれて上手い台詞でも思いつくかと思ってね」

 会場が失笑の渦に包まれた。有象に最終講義は必要なかったかもしれない。

「今日は脳から汗が出ないなあ」

 なんて言っている。

「私がねえ、洒落や酔狂に生きているのには訳があるんですよ」

 本題に入ったようだ。

「私は病的に気が弱くて、とっても臆病な人間なんだ」

「嘘だー」

「嘘じゃない、事実だ。そしていつも死について考えている」

「えー」

 会場がざわついた。

「その点じゃあ、私の嫌いな太宰治に似ているな。嫌いなのに太宰の講義を二十年間していたのは、どこかでシンパシーを感じていたのかもしれない」

「先生ー、自殺を考えたことは?」

「もちろんある。あるというより何回も未遂をしている」

「えーっ!」

「ある時は大量に飲めば死ねるという薬品を飲んだ。結果は死んだように寝ていただけだった。薬では死ねない」

 しんとする場内。

「そんな、死にたい死にたい病の私が突然、喘息の発作で本当に死にそうになった。その時私は何を考えたと思う? 『死にたくない』って思った。そう、死にたい人間なんていないんだ。死にたいんじゃなくて楽になりたいんだよ。思い煩うことなく、楽しく生きる。それが人間の理想だ」

「でも、人には様々な苦しみ、悲しみがあります!」

「そうだね。人間は万能じゃないから乗り越えられない壁や障害があります。よく『超えられない壁はない』っていう人がいるけど、それは嘘です。じゃあ、どうすればいいか? 私は別の道を通って壁のことを忘れてしまえばいいと考えます。『それは逃げだ』と言う人もいるでしょう。けれど私は逃げていいと思います。一つのことにこだわって命を落とすより、違う道に逃げ込んで生きることが大事だと思います」

「一つのことにこだわって、ノーベル賞を取ったり、オリンピックに出る人がいますが?」

「そうですね。その人たちはたいへんなご苦労、努力をされたのでしょう。でも、それは『乗り越えられる壁』を努力と根性で乗り越えたのです。乗り越えられない壁を乗り越えようとしたんじゃないと思います。残念なことに人間の能力には差があります。ある人には乗り越えられる壁でも別の人にはどうしても乗り越えられない。そういうことってあるんじゃないですか」

「じゃあ、先生は無駄な努力ってあると思っているんですか?」

「いいえ、思っていません」

「矛盾している!」

「私は思います。その時には無駄な努力でも、後々に生きてくると」

「具体的には?」

「そうですね。私は小説を書いていますが、途中で話に行き詰まり、ボツにした原稿がたくさんあります。無駄な努力です。それがある時、全く別の小説を書いていて、ボツにした原稿のストーリーを組み込んでうまく収まったということが何度かあります。努力が別の形で実ったということでしょうか」

「うーん」

 会場が息を飲んだ。

「さあ、もう質問はありませんか?」

「先生はこれからどう生きるおつもりですか?」

「そうですねえ、朝ゆっくり起きて、のんびり読書して、晩酌をして寝ます」

「堕落してらあ」

「そうだね。私は堕落を楽しむよ。楽しむ。人生を楽しむ。できそうでできないことだよ。それに私は挑戦する」

「いいなあ、お金持ちは」

「父祖に感謝するよ」

 そういうと有象はスタスタと歩いて会場を後にした。


「ああそうか『喫茶こばやし』は閉店したんだった」

 有象はシャッターの降りた店の前で呆然とした。

「ああ、コーヒーが飲みたい」

 慌てて、吉田の運転で家に帰り、助手の平田くんにコーヒーを淹れさせる有象であった。

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