ゆうもあ先生の日常

 ゆうもあ先生こと有象無蔵は、ここ何年も午前中の講義は入れていない。三つしか講義がないのだから、一つくらい、入れてもいいのにと誰もが思うが、頑として入れない。一度は学長が出てきて説得した。他の教授、准教授や助手に示しがつかないと学長は迫ったが、有象先生は「午前中は研究の時間です。私は朝が早い。脳が一番活性化している。この時間を逃さば、有益な学問をすることはできません」と突っぱねた。突っぱねた時に力み過ぎて有象先生はオナラをしてしまった。しかし、それを学長になすりつけ「熱くなりすぎると、力んで屁をたれますよ」と学長の耳元で囁いた。学長は怒髪天を抜けて、倒れてしまった。救急車がすぐに呼ばれたが、間に合わなかった。それ以来、有象に午前中の講義を受け持つよう言うものはいなかった。命あっての物種である。

 有象はだいたい午前四時に起きる。春夏秋冬これは変わらない。手洗いを済ませると、学問に勤しむのではなく、注文された小説を執筆し、手直しをする。先月まではこれが楽しかった。ユーモアやギャグを丹念に織り込んで、洒脱なコメディー小説を書いていたのだ。自分で書いていて、自分で笑ってしまうこともしばしばだった。ところから今月から執筆している門松書店の小説誌『小説野獣』の編集長が代わった。竜野淑子という、純文学誌『すみれ』の編集長だった女性が、新編集長として就任したのである。前の編集長、虎尾は不祥事を起こして、倉庫に飛ばされたという。編集長が変われば、雑誌の方針も変わるし、担当編集者も変わる。有象には鰐淵純子という、若い女性編集者が担当者となった。有象の鼻の下がビローンチョと伸びる。鰐淵はすこぶるつきの美人だったのだ。だが喜ばしかったのはそこまでだった。鰐淵はいきなり「先生の今の文体では、この先、頭打ちになります。洒落やギャグを減らして、物語志向で行かなくては売り上げは伸びません」とピシャリと言った。「君、私は滑稽文学研究家だよ。私から笑いをとったら何も残らない」有象は反論した。すると、鰐淵は「笑い、笑いって言いますけど実際問題、笑いと滑稽とは違うと思うんですよね。落語や漫才などの演芸は人を笑わす芸ですよね。でも滑稽っていうのは、人に笑われているだけなんじゃないかと思うんです」うぬ、痛いところを突かれた。そのことは有象も感じていたことなのだ。「私、先生が教えてらっしゃる太宰の『滑稽小説集』読んだんです。古本屋で買って。ちっとも笑えませんでした。なんか、差別とか、嘲笑みたいなことばかり出てきて心から楽しく思えないんです。これが滑稽なんですか。それじゃあ、笑いとは違います」

「君の言うことはもっともだ。実は私もそう思っていた。しかしね、私は滑稽ではなく、笑いの詰まった小説が書きたいんだよ」

「先生、喜怒哀楽で、最も難しいのは人を楽します。つまり、笑わすことです。人は簡単には笑いません。それよりも重厚な人間ドラマを書きましょう」

「それは俺には無理だ。君、しつこく、僕に重厚なドラマを書かせるというのなら、帰ってくれたまえ。僕は集団社の鳥越くんに頼んで『小説プレアデス』で書かせてもらうよ」

 有象が言うと、鰐淵は笑った。

「先生、それは無理ですわ。『小説プレアデス』は鳥越編集長の元に、人気作家が集結して、あの小沢梨昌先生だって、原稿を載せてもらえないそうです。ましてや有象先生なんて、歯牙にもかけられませんわ」

 有象はその一言に激怒した。

「とっとと、荷物をまとめて帰れ!」

 鰐淵は「フン」と鼻を鳴らして帰って行った。実に不愉快な時間であった。しかし、木田元先生や、太宰ファンには悪いが、『滑稽小説集』は笑える本ではない。だからこそ、我が研究の材料になるのだ。時刻は気がつけば八時になっていた。朝食の時間である。

 朝食は玉子かけ御飯と決まっている。毎朝、近所の農家のおばちゃんが三つ届けてくれるのである。つまりは、有象は玉子かけ御飯を三杯食べ、豆腐と油揚げの味噌汁とイワシの干物を食す。野菜不足は香の物で満たす。ここ十年来続く、有象の朝食である。作るのは婆やである。婆やと言っても二十四歳。まだピチピチのギャルである。もう、お分かりかと思うが有象無蔵は独身である。正確に言えばバツイチである。十年前、妻だった女性は、有象の横着ぶりに呆れて、家を出てしまった。それ以来、大沢家政婦紹介所に頼んで、婆やを頼んでいる。有象が家政婦を婆やと呼ぶのはおぼっちゃまだった頃の癖である。紹介に当たって、有象は「若くて美人な子」と注文をつける。若くて美人な子がいれば、張り合いもでる。バリバリ働けるだろうという考えである。本当の婆さんだったらやる気が萎える。そうして「若くて美人な子」を雇うのだが、これが長続きしない。大きな屋敷に冴えない中年男子と一緒にいてもつまらない。おさんどんを作って、掃除、洗濯をするが、屋敷は広くても、所詮は男やもめである。すぐに、仕事が終わってしまう。ヒマである。若い女子は辛抱が効かない。すぐに辞めてしまう。これまでに三十人、辞めていった。四ヶ月に一人は辞める計算である。だが、今働いている裕子さんは長続きしている。彼女はおっとりしていて、ちょっと鈍い。他の人が半日で片付ける仕事を一日かけてやる。それがいい。それに彼女は人の話を聞くのが好きだ。口から生まれてきた男、有象と話が合う。彼の繰り出す、ギャグや洒落を「キャッキャ、キャッキャ」と笑って受ける。気持ちがいい。鰐淵純子とは大違いだ。いっそ、嫁にもらおうかとも思ったが、年が二十歳離れている上に、有象は前の結婚で、だいぶ懲りている。今の関係が一番良いだろうと、裕子の考えを一切無視して考えている。自分勝手な男である。

 朝飯が済むとやっと学問の研究に入る。ご存知のように、有象の研究課題は滑稽小説である。人類が文字を発明し、使用するようになってからすぐに、滑稽物、ユーモア物は世界中に派生した。研究課題は無数にある。しかし、有象の研究するのは太宰治の『滑稽小説集』ただ一つである。これも、彼の横着の表れだ。これでよく、教授になれたものだが、そこはそれ、口八丁に無尽蔵の金。上司であった教授をうまく抱き込んで、見事後釜に収まった。だが、そんな彼がまともに研究活動に打ち込むはずがない。『滑稽小説集』の一話『おしゃれ童子』の冒頭を読んで、「ああ、つまらぬ」と椅子にもたれかかって煙草の『チャビンONE』を吸う。彼は「研究者たるもの、煙草を吸って、脳を活性化させなければいけない」という信念に基づいて喫煙するのだが『ヘブンスター』みたいな強い煙草を吸うと頭が痛くなって、悪心を起こすので、不良中学生が吸うような、軽い煙草を吸っているのである。ああ、本作は未成年の喫煙を推奨するものではありません。

 結局、煙草をふかしているだけで、昼になる。当然、昼食をいただく。有象は無類の麺類好きであった。(ただし、讃岐うどん以外のうどん、冷麦、きしめんは除く)今日の裕子の献立は、ペペロンチーノであった。午後から講義があるのに、ニンニクたっぷりのパスタを作る、裕子を有象はお茶目さんだと思う。まあ、食後にリステリンをしてブレスケアを飲めば、女子大生に嫌われることはないだろう。

 大学には運転手付きのベンツで通う。運転手は吉田といい、元は自衛隊で戦車を洗車していた。冗談である。戦車を運転していた。安全運転な男である。

「じゃあ、先生。参りますよ」

「おう、頼む」

 神奈川県立大学は旭区の四季の森近くにある。広大なユニバーシティである。この中にいるだけで、充分に暮らしていける設備がある。ただ、有象が不満なのは料亭がないということだけだった。

 授業は適当にあしらう。真面目に有象の話を聞く学生などいないからである。どうせ、期末の試験に面白いことを書けばいいのだ。余裕、余裕である。有象は一度だけ、試験に、「走れメロスの走った距離を書け」と想定外の問題を出して遊んだことがある。答えは有象も知らない。学生たちは恐慌を起こした。後で、調べたところ、答えは十里だったのだが、正解した学生は一人だけだった。それは有象の別れた妻だった。期末試験に答えられなかったのだから、他の学生は落第なのだが、あまりにもかわいそうだったので、追試をしてやった。問題は当然「何か、面白いことを書け」であった。大講堂の方々で、安堵のため息が聞こえた。それはそれで笑える話であった。

 回想をしている間に講義の時間は過ぎた。学生のために、終業十五分前に講義を終わらすのが教師の礼儀である。

 今夜は横浜わいわい座で萬願亭道楽師匠の問題作『痩身合戦』を聴くことになっている。この話は師匠が二度目の失踪から復帰した際の独演会でおろした新作落語で、肥満しすぎた殿様が二人の痩身師を呼んで対決させ、勝った方を登用するという話だが、なんと、悪役の痩身師の方が勝ってしまうのである。「アクが強い」という下げに、客はびっくりしたが、実はそれは第一部で、今夜は第二部の初演である。有象はたっぷりと噺を楽しんだ。

 夕食を関内のホルモン料理屋で済ますと、吉田の運転で帰宅し、源泉掛け流しの風呂で体を休めた。

「さて、あの話、どうしよう」

 有象は考えた。今後の小説家としての生き方である。別に廃業しちゃっても一向に構わないのだが、男のプライドというものがある。

「よし、今のお笑い路線を貫くぞ」

 有象は決めて、布団に潜り込んだ。

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