ゆうもあ先生の講義 ②

 毎週月曜日の午後は、有象ゼミの講義が行われる。なんで月曜日なのかというと、月曜はプロ野球がないからである。地元の横浜マリンズを熱烈に応援している有象は、用事のない限り、CS放送でマリンズの試合を見るのだ。ただし、あまりに弱いので、八時までに、テレビのスイッチを切ってしまうことが多い。

 それはさておき、有象ゼミである。定員は五名なのだが、このゼミは他のゼミから“茶飲み会”“井戸端会議”と揶揄されるほど、甘いゼミなので、毎年、ゼミ生候補が千人ほど集まってくる。ちなみに文学部文学科の学生数は千二百人である。なんと志の低い学生が多いことかと嘆くべきか、二百人も志のある学生がいるのかと心強く思うかは読者の勝手である。

 ゼミ生の選考は有象先生自ら行う。珍しいことである。普通なら、助手の平田くんに任せてしまいそうなものなのに。それには理由がある。有象は学生をその能力や、やる気で選ぶのではなく「美人かどうか」で選ぶのである。言ってみればアカハラであるが、有象は「総合的に判断して決めさせていただきました」とにべもない。今年は四年生が二人卒業するので、二人の新人を選んだ。前田優子と大島敦子である。これに新学期から四年になった、柏木麻里子と渡辺由紀、横山亜紀が加わって、今年度の有象ゼミ、スタートである。

「みなさん、こんにちは。当ゼミ担当教授の有象無蔵です。よろしく。それからこの優しいジャイアンみたいなのが助手の平田くんです」

「よ、よろしくお願いします」

 美人に囲まれ、緊張気味の平田くん。頑張れ。有象は続ける。

「私は滑稽文学。笑いの文学の研究をしております。ひとくちに笑いというと、みなさんは軽く考えがちでしょう。しかし、笑いとは難しいものです。人の感情の中で一番難しい。例えば、前田君を怒らせてみます。前田のブス。ヤリマンの最低女め」

「先生!」

「ほらね、簡単に怒ったでしょ。前田君、ごめんね。これは実験だから」

「は、はい」

「人を悲しめたり、喜ばせるのも簡単です。前田さん、もう実験はしないから安心してください。人を悲しめるなら、その人の大事なものを奪ったり、立ち直れないくらいの罵詈雑言を履けばいい。人を喜ばすなら。渡辺さん、美人だね。と褒めたり、何か高価なプレゼントでもあげればいい。そうでしょ」

「はい」学生たちはうなずいた。

「ところが、笑いは違う。人の笑いのツボは、千差万別です。大島さんが笑っても、柏木さんはきょとんとするだけかもしれないのです。笑いはその人の育った環境や性質によって変わるものなのです。だから、多くの人を同時に笑わすことのできる落語家や芸人さんたちは、ある意味総理大臣より偉いと言えます」

「へえ」学生たちが感嘆する。有象もまともにやれば講義できるのである。

「私は笑いを、その中でも笑いの文学を研究しています。言葉でしゃべっても人を笑わすことは難しいのに、それを文字に置き換える。言文一致運動によって、話す言葉と、書く言葉は同じになりました。これは笑いの文学にとって、幸いでした。それ以前はご存知ですね『なになにで候』って言葉が、普通に、手紙や、小説なんかにも使われていたのですよ」

「えー?」

「あれ、高校の国語の授業で習いませんでしたか? まあいいでしょう。しゃべり疲れました。お茶でも飲んで、少し休みましょう」

 お茶会の始まりである。みんなでお茶を入れ、お菓子を配る。新人だけにやらせない。先輩面は禁止である。これが有象ゼミのお約束である。言っちゃあ、悪いが女子の後輩いじめは陰湿である。それを避けるために有象はあえてこんなルールを作った。彼にしてはよくできました。

 お茶はアールグレイ、お菓子は鴨サブレーである。両方とも有象が用意した。紅茶はアールグレイに限るというのが有象のポリシーであり、鴨サブレーは先日、鎌倉に花見に行った時、豊悦屋の本店で購入した。

「さて、新人の諸君はどんな本を読むんだね」

 有象が前田と大島に話を向けた。

「私は伊佐坂幸太郎先生のファンです」

「なるほど、彼の小説は最後に伏線が綺麗に回収されて面白いね」

「先生も読まれるんですか?」

「何を言う、私は読書家だよ。じゃあ、大島くんは?」

「えっと」

「どうしました?」

「媚びているみたいで恥ずかしいんですけど。先生の著作が好きです!」

「なにい!」

 有象はお茶をこぼしそうになった。自分のファンなんて初めて見た。しかも、可愛いい自分の学生である。

「なにが特に好きかな?」

「この前出た『道楽』なんて面白くて、一晩で読んじゃいました」

「あれはねえ、実在の落語家、萬願亭道楽師匠の事を書いたものなんだ。最後の章の新作落語は、師匠の書き下ろしだよ」

「そうなんですか」

 有象はすっかり、大島敦子を気に入ってしまった。

「さて、そろそろ講義に戻りますか。とは言っても、そんなに時間がない。今後の方針をお話しして終わりにしましょう」

 有象は残った紅茶を飲み干した。

「去年までは、太宰の『滑稽小説集』の読解に力を注いでいましたが、どうも面白くない。今年は君たちに、ユーモア小説を書いてもらおうと思います」

「えー」四年生からブーイングが上がる。楽なのが取り柄の有象ゼミで小説を書けなんてないもんだ。

「うん、うん、わかるよ。君たちには就職活動があるからね。だから、その最中に起きた面白いこと、面白い人をショートショートで原稿用紙、五枚くらいにまとめればいいさ。五枚なんてあっという間だよ」

「はーい」不満はあるが、長い卒業論文を書くよりはずっとましだ。

「三年生の二人には、長いものを書いてもらうよ。原稿用紙百枚分だ。もちろんパソコンでいいよ」

「はい」

 二人はやる気充分だ。

「じゃあ、今日はここまで。お疲れ様」

「ありがとうございました」

 学生が帰っていく。

(しかし、あの大島敦子。私のファンだなんて、喜ばせるじゃありませんか)

 有象はニヤニヤした。しかし、彼は笑っていられなかった。この後、門松書店の小説誌『小説野獣』の竜野淑子編集長とのサシでの対決がセッティングされていたからである。

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