ゆうもあ先生と女編集長
ゆうもあ先生こと有象無蔵は東急東横線妙蓮寺駅近くにあるショッピングセンター、『ハーベスト妙蓮寺』にいる。今日は運転手の吉田と車は帰した。JR横浜線の十日市場駅から菊名駅まで進み、東横線に乗り換えて一駅である。ものぐさな有象にとっては面倒くさい移動だが、相手が指定してきたのだから仕方あるまい。有象にとって、会いたいような会いたくないようなその人の命令は、有象には文句を言えなかった。断ることはできないのである。だいたい、相手は東京から、わざわざ出てくる。融通を効かせるのがダンディな男であると有象は考える。
相手指定の店はショッピングセンター内のグルメプラザにあった。『居酒屋 小料理 涼子』たいへんな人気で予約が取れないという。しかし、有象には裏ワザがあった。知り合いに“妙蓮寺の坊ちゃん”というあだ名の男がいる。資産家の息子で『ハーベスト妙蓮寺』の名誉館長をしている。そして『居酒屋 小料理 涼子』の立ち上げ時にオーナーを務めていた。今は飽きてしまってやめてしまったそうだが、今でも板長に顔が効く。彼に頼んで、一室小部屋を予約してもらった。ありがたいことである。なお、妙蓮寺の坊ちゃんの波乱万丈の半生をお知りになりたい方は有象無蔵作『兄貴。』をご覧いただきたい。しかし、売れなかったから絶版になっているかもしれない。その時は復刊ドットコムにリクエストしていただけるとありがたい。小説家にとって絶版とは我が子が死んだようで悲しいものである。もっと悲しいのが、品切れ重版未定である。絶版が死なら、こちらは植物状態だ。いつ、復活するかと祈りながら、毎日を過ごす。これもものすごく悲しい。出版社はもうちょっと、鷹揚に書籍を扱ってほしい。出版して三年で重版未定ではやりきれない。まあ、コンスタントに売れる小説を書けば、それでいいのだが……。
そんなこと考えていたら、連れが来た。
「遅くなってごめんなさいね」
入ってきたのは、門松書店雑誌部、『小説野獣』編集長、竜野淑子である。
「深田太郎先生のところに、エッセイの執筆依頼に行ったら、あの方、ああいう人でしょう、つい話が長くなっちゃって」
「ほう」
「中国のことわざに『水たまりに落ちた犬をみたら叩け』っていうのが、あるらしいの。今度の中国取材旅行で深田先生、水たまりに落ちちゃったらしいの。そしたら野犬がいっぱい集まってきて『日頃の恨みだ』って前足でちょんちょん叩いてきたんだって。笑えるわ」
「彼らしい、ジョークだね」
「そうね」
淑子はハンドバッグから『ヘブンスター』を取り出して吸い始めた。有象は、「そんなジョークを聞かせるために呼んだんじゃないだろう」
と言って自分も『チャビンONE』をポケットから取り出した。
「そうね。はっきり言うわ。あなた、編集部で問題になっているのよ」
「ストーリー性の高い小説を書けってことだろ。私には無理だよ」
「そうじゃないのよ。あなた鰐淵さん、泣かせたわね。彼女、男子人気ナンバーワンなのよ。それで男子社員たちが憤って、『有象無蔵を下せ』って雰囲気になっているの、今」
「私は、彼女を泣かせたりしていないよ。『帰れ』と一喝しただけだ。彼女だって、ぷりぷり怒って帰って行ったけどな」
「たぶん、そのあと怒りが悔しさに変わって泣いちゃったのね」
有象は一服すると、
「そんな面倒くさいことになっているなら、私は辞めていいよ」
と言った。
「でもね、ここだけの話。あなたに固定ファンもついていることは確かなのよねえ」
「それでますます自信がついた。その固定ファンを引き連れて、他雑誌に移籍しよう」
「それも困るのよね」
「勝手を言うな」
「怒らないで。外面は優しいのに、身内に短気なのがあなたの悪い癖」
「君はもう、私の身内じゃない」
「身内の時代があったのは確かでしょう」
淑子は有象の別れた奥さんであった。
「落ち着いて聞いてね。折衷案があるの。あなたには雑誌を移籍してもらいます。移籍先は当社の漫画雑誌『ヘロヘロA(エース)』ギャグ漫画雑誌だから、あなたの思う存分笑いの文学が書けるわ」
「私の固定ファンと年代層が合わないだろう」
「あなた、大学生相手に仕事しているんでしょう。少しは研究して、両者とも楽しめる小説を書けばいいでしょう」
「うむ。ちょっと考えさせてくれないか?」
「いいわよ」
「私は小説を仕事とは思っていない。はっきり言ってしまえば趣味だ。だから書ければいいんであって、雑誌に載せたり、単行本にしなくたっていいんっだ。売り上げが気になって不眠症になることもない」
「でも、書いたら誰かに見せたいでしょう。発行部数は『ヘロヘロA』の方が『小説野獣』の何倍もあるのよ」
「でも失敗したら、痛手も大きい」
「別に、いいんじゃない。趣味なんだから」
「そうだな」
「ところで、あなた。相変わらず大学で女学生の品定めをしているの?」
淑子は有象の大学の教え子だ。学校一番の美人だったから、口説き落として結婚したのだ。
「もう、そんな年齢じゃないよ」
という、有象の脳裏に大島敦子の顔が浮かんだ。自分の作品のファンだという敦子。自分のファンにはなってくれるだろうか? いやいや、ふしだらなことは二度と考えるな。淑子との悲惨な結婚生活を思い出して、頭を振った。
「あなた、大丈夫? 頭なんて振って」
「いや、少し酔ったようだ。今日は早めに帰るよ」
「そうなの? つまらない」
「遊びたいのか?」
「いいえ、いいの」
「そうか」
二人は店を出た。小説家と編集者。元夫婦としては仲が良い。でももう絶対結婚はしたくない。そういう関係の二人だった。
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