ゆうもあ先生の講義 ③

 翌週の月曜日の午後、ゆうもあ先生こと有象無蔵が教室の扉を開けると、学生は前田優子と大島敦子しか出席していなかった。

「四年生は就職活動で忙しいのでしょう。そんな時こそ、このゼミでリフレッシュしたら良いのになあ」

 自分も厳選した才色兼備の学生の顔が見られなくて残念だとは有象は言わない。一応、ジェントルマンで通っているからである。それでも、前田優子と大島敦子の顔を見て、機嫌が良くなる。特に自分の作品のファンだと言ってくれた大島敦子に心は若干乱れている。

「二人だけじゃあ、教室にいても広すぎて間が抜ける。どうだい、喫茶店にでも行って、コーヒーを飲みながら、何かおしゃべりでもしましょう」

 有象は提案した。

「はい」二人の学生は賛成した。有象の大学近くの喫茶店の行きつけは『喫茶こばやし』であった。最近できた店なのだが、店主の挽くコーヒーは苦味の中にかすかに甘みがあり、砂糖なしでいける。美味い。何でも失踪した店主の父親が残したオリジナルブレンドを、レシピにそって正確に再現したように見えても、思い通りの味にならず、五年かけてようやく、豆の温度管理、挽き方などを試行錯誤しながら今の味にたどり着いたという。ちなみに店主は、元は私立探偵の事務所を開いていて、そこの所長だったそうだ。名探偵だったと自慢する。だが、血なまぐさい事件に遭遇し、探偵に嫌気がさし、知人に所長の座を譲ったという。このマスターの半生は有象無蔵著『探偵家業』に詳しく書いてあるのでよろしく。そんな店に二人を誘う。

「空いてますね」

 前田優子が鋭い洞察力を見せる。この店、メニューはホットコーヒーだけ、ケーキ類などない。それにコーヒー一杯千円する。貧乏学生や、やりくり上手な奥様が近寄るべきもない。有象のような、本当のコーヒー好きだけが足繁く通う店なのだ。

「前田君は鋭いね。観察力、洞察力は小説という嘘の世界にリアリティを持たせるために必要だよ」

「ありがとうございます」

 前田は律儀にお礼を言う。この子は真面目だ。もしかするとクソのつく真面目かもしれない。そんな彼女が何で自分の半分ふざけたゼミに応募したのだろう? 有象はとても不思議に思った。

「あのう、先生」

 大島敦子が恐る恐る尋ねてくる。

「何だね」

 優しい口調で答える有象。口髭が震えている。

「あたし、小説を書いてみようと、パソコンの前に座ってみたですけど。全然、何も浮かんでこないんです。どうしたらいいでしょう?」

 初心者が陥る悩みだ。

「大島くん、君は大河ドラマかスターウオーズのような小説を書こうとしているのではないかい?」

「えっと、たくさんの人物が出てくる小説が書きたいです」

「気持ちは分かるよ。でも、いきなり、何十人も登場人物が出てくる小説を書こうとしても上手くいかない。登場人物のキャラクター設定を考えるだけで嫌になってしまう」

「じゃあ、どうしたらいいんですか」

「それはね、自分の身近なもの、事柄、人物を書いたらいいんだ。よく観察してね」

「あたし、一人暮らしなんです」

「隣には、どんな人が住んでいるの?」

「たぶんなんですけど、夜のお仕事をされている方だと思います」

「いい材料じゃないですか」

「ええっ? 朝のゴミ捨てに顔を合わせるくらいですよ」

「それでいいんです。あとは、あなたが、その女性がどういう一日を過ごしているのか? 同僚にはどんな人がいるのか? 彼氏はいるのか? とだいたい十人くらいのサブキャラクターを創造していけば自然と話ができてきます。処女作ですから作品の出来具合を気にすることはありません。まずは完成させてみることです。原稿用紙百枚分にこだわらなくていいですよ。あれは年度末の課題です」

「はい、頑張ってみます」

「前田君は調子どうかな?」

 有象は放っておいた前田優子に声をかける。

「私はプロの将棋の奨励会の悲喜劇を書いてみたいと思います」

「へえ、それはどうして?」

「テレビのドキュメンタリーで奨励会の厳しさをやっていたんです。二十六歳までに四段に上がれないと強制的に退会になるんです。タイムリミットのある小説ってサスペンスがあって面白いと思います」

「うん、いいね。あとは主人公とライバルたちの人物設定だね。ただ、ウチのゼミは笑いの文学の講義だから、厳しさの中に、くすぐりを入れてくださいよ」

「そうですね。えへっ」

 笑った前田優子は途轍もなく可愛かった。

「人物設定といえば、私の書いた『軌跡』という小説は知っているかな?」

「あたし、読みました。すっごく笑って、最後泣きました」

「ありがとう。あれの主人公、風花涼は元は香蘭社で私の担当をしていた編集者だったんだ。それが担当していた女性作家の盗作事件の責任を取らされて営業部に回り、そこの上司と喧嘩して大怪我を負わせて懲戒免職になったんだ。消えたなと思ったね。ところが例のクルリントの買収による、横浜マリンズ監督公募制で素人なのに監督になって、一年目は突然の大怪我で全休。そして二年目にジャパン・シリーズまでチームを持って行った。そしてなぜか失踪してしまう。こんなに人物設定がしやすいやつはいなかったよ」

「人脈って大切なんですね」

「そうだね」

「あたし、友達たくさん作ろう。Facebookやるわ。優子ちゃんはやってる?」

「やってるわよ。友達リクエストするわね。先生は?」

「今夜からやる。そのリクエストというのをしてください」

「先生、できますか?」

「大丈夫なはずです。できなかったら婆やにやらせます」

「先生、婆やがいるんですか? ハハハハ」

 前田優子は笑った。

「先生、ファイトです」

 大島敦子はガッツポーズを作った。

「今日はこの辺で終わりにしよう。気をつけて帰るんだよ」

「はい、ごちそうさまでした」

 二人を見送ると、吉田の運転で飛んで帰り、パソコンでFacebookの設定をした。予想通り、できなかったので婆やの裕子さんに手伝ってもらってやっとできた。

「これで、大島敦子との距離が縮まる」

 その時、有象は不埒なことを考えていた。

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