ゆうもあ先生の講義 ⑤
ゆうもあ先生こと有象無蔵は自分の講義ながら『太宰治と滑稽小説集』が大嫌いだった。なぜなら『滑稽小説集』がちっとも面白くないからである。全国の太宰治ファンを敵にしても言おう。『滑稽小説集』は面白くない。太宰は滑稽という言葉をたぶん、「まともでない」「馬鹿な」という意味で使ったのだと、有象は思う。しかし、有象も含めて一般の人は「滑稽」と聞けば「おかしな」「笑える」に取ると思う。だから有象もみすず書房版『太宰治 滑稽小説集』を手に取った。編者が木田元先生だということも拍車をかけた。木田先生とは学問の分野が違うから面識はなかったけれど、好みの読書の傾向がそっくりなので、親近感を覚えていた。例えば、急逝したミステリー作家の西林葉の『燕協奏曲』を楽しく読んだら解説が木田先生だった。そして「西林葉にはハズレがない」と断言されていた。実際そうだった。同じく大坂譲の「燃える太陽の果てに」を読んでそのトリックにびっくりしたら、解説がやっぱり木田先生だった。解説で「大坂譲は私の最も信頼する作家である」と書かれていたので、有象は大坂の既刊本をまとめ買いして読んだ。もう堪能したことは言うまでもない。「木田先生の推薦する本にハズレなし」有象は思った。残念ながら木田先生は鬼籍に入られたが、有象は尊敬することこの上もないのである。
しかし『滑稽小説集』はいかん。読んでいると眠くなってしまう。まあ、講義は学生に輪読させ、適当に解説をつければいいだけだから問題ないのだけど、それでもやっぱり気が重い。いっそ、休講にしてしまおうかと考えて思い出した。「大島敦子だ!」彼女とお近づきにならなければいけないのだった。これも新連載の小説の為である。決して、いやらしい気持ちからではない。とにかく彼女と今以上に親密になり、それを元にユーモア小説を書くのだ。この考えが小説家として間違っていると誰が言えるだろうか!
大講堂には七人の学生が待っていた。「自分が加わっても野球チームが出来ない」有象は独り言した。「いや待てよ。七人制ラグビーなら私は監督で踏ん反り返っていられるな」と思い直したりもした。学生が少ないのは非常に結構な話である。緊張しなくていいし、大声を張り上げる必要もない。来ている学生は真面目だから、おしゃべりを注意することもない。ちょっとくらい間違ったことを教えても社会問題にはならない。いいことづくめである。それに有象は簡単に単位をあげるから学生に人気がある。もちろん虚の人気だけれどもね。
大島敦子は最前列にいた。これなら講義終わりに誘いやすい。しかし、ここで大きな問題が! 横に前田優子がいるのである。二人はそんなに仲が良かったのか。ゼミで毎回二人でコーヒーを飲んでいれば、自然と仲良くなるか。有象は考える。ここで二人を強引に引き裂くのは得策ではない。今日のところは二人を誘って食事でもしよう。そういうことを続けていけば、前田優子に都合の悪い日も出てこよう。その日がチャンスだ。新連載に遅れるかもしれないが、そこはプロの小説家だ。これまでの出会いからゼミの様子、自分の本を好きだと言ったあの笑顔を描写すればいい。有象は即座に方向転換した。
講義は『おしゃれ童子』を輪読して終わった。有象が考えるにこの、おしゃれ童子は太宰自身だろう。子供の頃から自意識過剰だったんだなと思った。これが正解なのかは真面目に研究していないので分からない。そんなもんでいいのである。
「前田くん、大島くん。夕食でも一緒にどうかな?」
有象はさりげなく尋ねた。
「はい。行きます」
と喜んだ前田優子に対し、
「先生、あたしアルバイトなんです。ごめんなさい」
と、事もあろうに、本命の大島敦子に断られてしまった。だからって、「じゃあ、よそう」なんて言ったら前田優子に悪い。有象は前田優子と夕食に行くことになってしまった。
若い子には肉がいいだろう。有象は考えて、馴染みのステーキレストランに、吉田の運転するベンツで移動した。
「私、ベンツになんか初めてて乗ります」
とはしゃぐ、前田優子に対し、有象の心は複雑だった。
(まさか、アルバイトとはなあ)
考えてみれば、我が校は県立大学である。公立だ。授業料はやすい。寄付も任意だ。あまり裕福ではない家庭の子も大勢いる。大島敦子の家庭状況を調べなかったのは失敗だった。有象はつい、お金持ちの娘だった竜野淑子を基準に物事を考えてしまった。ところで、前田優子の家はどうなんだろう。
「前田くんのお父様は何をしているんだい? 差し支えなければ教えて欲しい」
「はい。オペラ化粧品の専務をしています」
「ああ、あの女子バスケットの強い」
「そうです」
こりゃ裕福だ。
「大島くんのことは知っているかい?」
「敦子は母子家庭で、奨学金で入学したそうです」
「ああそう。苦労してるんだ」
これは少し、援助するべきかな? と思って有象はハッとした。それでは援助交際ではないか。そうこうしているうちにステーキハウスに着いた。
前田優子はサーロインを百グラム。有象はティーボーンステーキを五百グラム頼んだ。
「君はもう、成人しているね」
「はい」
「なら、赤ワインを頼もう。店長、いつものやつ二つ」
「かしこまりました」
「先生、常連さんなんですね」
「親の代からね」
「すごい」
「私の父親はそこそこ名の知れた画家だったんだ。それに言うのも恥ずかしいが、ウチは資産家でね、芸術家肌の人間が多かったんだ。今は皆死に絶えたけどね」
「へえ」
そのあと、二人は互いの好みの本の話で予想外に盛り上がった。有象は日本のミステリーに落語関係の書籍。前田優子は『トリスラム・シャンディ』にはまっているということだった。有象は題名だけしか知らなかったが、教授という立場上「知らぬ」とも言えず、適当に相槌を打っていた。それでも、それはそれで楽しかった。竜野淑子とデートをしていた頃を思い出した。
デザートを食べて、おひらきになった。前田優子はエチケットルームで口紅を直してきた。そして、
「私、先生のことが好きになっちゃったみたいです」
と言って誰も見ていないところでそっとキスをしてきた。
「こら、子供が背伸びするんじゃない」
と有象は言ったが、顔が真っ赤になったのはワインのせいではない。絶対にない。
そのあと、吉田の運転で前田優子の家まで送る間、前田優子は有象の手を離さなかった。こちらは、完全に酔っているせいである。
その帰り有象は、吉田運転手に一万円を渡し、
「誰にも言うなよ」
と念を押した。これはとんでもない展開になってしまった。大島敦子と恋仲になるはずが、前田優子とキスしてしまった。これはどうすればいいのだろう。小説の登場人物を前田優子に変えればいいのか。しかし、環境的には母子家庭の大島敦子の方がストーリーに幅をもたせられる。ここで、有象は爆発した。
「二人と付き合っちゃえばいいんだ!」
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