ゆうもあ先生の病欠届

 ゆうもあ先生こと、有象無蔵は丈夫な体の持ち主である。だからと言って勘違いしないで欲しい。スポーツという名前のつくものは一切できない。拒絶反応で引きつけを起こす。ある年、大学の体育祭で綱引きをすることになり、これならばいいでしょうと張り切って参加したのはいいが、なぜか綱の真ん中に立ちすぎて、支点になってしまい。縄で作った蓑虫になってしまった。顔は青白く、チアノーゼを起こしている。慌てて救急車で運ばれ、命を落とさずに済んだが、危ないところだった。以後、大学は体育祭を有象の公休日に行うことにしている。

 社交ダンス、あれもスポーツである。それを大人のたしなみと勘違いした有象は駅前の社交ダンススクールに体験入学したことがある。あのスローテンポなら大丈夫だろう。そう思ったのが失敗の元だった。お相手も体験入学の女性だった。ここからして間違っている。初心者にはベテランをつけるべきだろう。それを、ど素人同士をくっつけるから取り返しのつかない事故になる。まず、有象は音楽に合わせて足を一歩出した。普通、相手は一歩下がるものである。しかし、相手の女性は身じろぎひとつしなかった。当然有象の足は相手の足を踏みつける。相手は外反母趾だったらしい。天地をひっかく声で「痛いいいいいい!」と吠えると、ハイヒールのかかとで有象の足を踏む。「ぎゃああああ」これは猛烈に痛い。二人は大げんかになった。インストラクターが止めに入った時には、足の踏みあいだ。これは断然、ハイヒールの女性の方が強い。だが有象も負けない。全体重をかけて女の足の骨を砕いた。両者痛み分けである。インストラクターが双方に事情を聞くと「私は右足を前に出しただけだ。女性は左足を後ろに下げるだけだろう?」と有象は言う。それに対して女は「そんなこと聞いていない」と怒った。まさにズブの素人だったのだ。その後、有象は女と共謀して、その社交ダンススクールを訴えることにした。一審で治療費と慰謝料二百万円ずつ勝ち取った。今日の敵は未来の味方である。それからも女とは年賀状のやり取りはしている。

 なんてことはどうでも良いのである。ここで言いたいことは、有象が体が丈夫なのである。まず、風邪をひかない。生まれてこのかた風邪をひいたのは一回だけで、その時は天地が狂うかの如く、のたうちまわり、嘔吐し、下痢便をしたけれども、医者の薬を飲んだら一日で治った。普段かからないかわりにかかった時は一騒動なのである。でもかからないんだから問題ない。それに、アレルギーが全くない。花粉、食物、動物、金属、一切ない。唯一あるのは元妻の竜野淑子である。あれにはかなわない。近寄らないに限る。

 その他、骨折、捻挫、切れ痔、いぼ痔全く関係なし。健康ハツラツ! のはずの有象が熱を出した。かなり高熱である。唸り声を上げるほどである。早速、医者を往診で呼ぶ。小俣内科皮膚科医院の小俣琴太先生である。

「無蔵くんが熱を出すなんて初めてじゃないか」

「はい」

「ウチが儲からなくて困った事だ。さあ、見てしんぜよう」

 小俣医師は触診する。血圧を測る。熱を測る。最後にインフルエンザ検査薬を使う。

「困ったな。インフルエンザでもなく、風邪でもない。他の病気も見当たらない。残る可能性は恋の病だ!」

 万座がガクッとなるが、有象の顔は真っ赤になる。誰もその事に気がつかない。

「解熱剤を出そう。まさか、その年で知恵熱じゃないだろうな?」

 有象の顔がどす赤くなった。


 小俣医師が帰ると、有象は婆やの裕子さんに頼んで、大学に病欠届けを出してもらった。いくら怠け者の有象でも平日は大学に居なければならない。無断欠勤は評価が下がる。それを頼むと「一人にしてくれ。昼飯はいらない」と言って、裕子さんを追い出して、布団で思考する。

「知恵熱か。それが一番当たっているな」

 と一人呟く有象。前田優子の突然のキスと言動。有象が考えていた計画を凌駕することが起きたのだ。

「私は前田優子と大島敦子とどちらを選ぶべきなのだ?」

 有象は悩んだ。

「上手く行く可能性が高いのは前田優子だ。あそこまで行ったんだからな。でも、あの子は真面目すぎる。ユーモア小説の登場人物としては少し弱い。一方大島敦子はちょっと天然ボケしていてユーモア小説の主人公にはぴったりだ。でもアルバイトが忙しいから付き合える時間が少ない。帯に短し襷に長しとはこのことだな」

 ウーン、熱が上がる。解熱剤でも飲むか。有象が裕子さんを呼んで水を持ってきてもらう。

「お医者様でも草津の湯でも恋の病は治りません」

 裕子さんが怖いことを言った。彼女は何もかもお見通しなのか?

 思考に戻ろう。要は大島敦子に時間と余裕を与えればいいのだ。そうだ、奨学金だ。彼女に返済不要の特別奨学金をあげよう。そうすればアルバイトに精を出す必要もなくなる。審査で落とされる心配はない。なぜなら奨学金担当教授は有象自身だからである。解熱剤のおかげで体が楽になってきた。明日は登校できそうだ。と思ったところに、

「先生、お客様ですがどういたしますか?」と裕子さんの声。

「私は病気だ。帰ってもらいなさい」

「でも、若くて綺麗な学生さんですよ」

「なに? 名前は聞きましたか」

「前田優子さんとおっしゃいました」

 ドカーン。構想が崩れる。ここで前田優子と楽しく歓談などしたら心がこっちに傾いてしまう。いかんなあ。でも、見舞いに来てくれるとは嬉しいなあ。

「熱は下がった。居間に案内してください」

 裕子さんに言うと有象はパジャマを着替えた。


「今日はどうしたの?」

 有象はわざとらしく聞く。

「高熱で倒れられたと聞いて、慌ててきました」

「大袈裟だよ、君。ちょっといつもより熱が高かっただけだよ。現に解熱剤で下がっている」

「安心したわ」

 前田優子がほっと息を吐く。かわいい。

「せっかく来たんだ、夕食を食べて行きなさい。裕子さん、夕食一人分追加ね」

「はーい」と遠くで声が聞こえる。

「私、先生の書斎と書庫が見たいわ」

「ああいいよ。そこを右に曲がったところだ。私はまだちょっと熱があるから、案内は勘弁させてもらうよ」

「はい」

 前田優子は嬉しそうに歩いて行った。


 今夜の夕食は有象の体調を考えて、蟹雑炊だった。前田優子は美味しい、美味しいと二回もお代わりした。裕子さんも嬉しそうだ。

「先生」

「なんだね」

「先生の書棚を見ると、ホラーやせい惨な殺人事件が出てくるものも多かったんですけど」

「ああ、ミステリーは私の趣味ということもあるが、恐怖の先には何があると思う?」

「分かりません」

「笑いだよ。人は怖すぎると笑うんだ」

「へえ」

「そういうアプローチで課題をこなすのも一つの手だね」

「はい」

「今日はもう遅い。吉田の車で帰りなさい」

「はい。ごちそうさまでした」

 前田優子は素直に帰った。しかし、大島敦子より、前田優子と親しくなりすぎている。困った。困った。

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