ゆうもあ先生の講義 ⑥

 ゆうもあ先生こと有象無蔵が教室に入ると今日も学生は三年生の二人だけだった。四年生はどうしてしまったのだろう。そんなに就職活動がたいへんなのか? アホノミクスとかいう阿保首相の政策はどうなってしまったのだろう。などと考えて教壇に進む。

「お二人さん、こんにちは。今日も美人だねえ」

 とお追従を言って空気を和ませる。

「今日も喫茶店で講義といたしましょう」

 有象が言うと、

「はい」今日もいい答えが返ってきた。

 今日も大学近くの『喫茶こばやし』に行く。

「ああ、先生に学生さんいらっしゃい。今日も空いてますからゆっくり勉強できますよ」

 店主が自虐的なことを言う。しかし、いつもここは空いている。潰れないことを祈るばかりだ。

「講義に入る前に、大島くん」

「はい」

「きみ、生活費がたいへんなんだろう。バイト、バイトでは学業に集中できないし、体を壊す。そこで、この『高須先生記念奨学金』を奨めるよ。卒業後の返金も不要だし、審査もザルらしい。合格間違いなしだよ」

「あ、ありがとうございます。早速応募してみます」

「ぜひ、そうしたまえ」

 そう言うと有象は煙草を取り出して吸った。作戦成功だ。

「では、講義に入りましょうか。二人とも、作品の方向は決まったかな」

「私、樋口一応くんのこと取材しようと思うんです」

 前田優子が口を開いた。

「樋口一応くん? ああ、あの柔道青年ね。彼のどこが面白いんだね?」

「樋口くん、ああ見えて話が面白いんです。柔道部に入ったのも、柔って字を見て『柔らかい道か。軟弱者のやる部活だろう』と思って入っちゃったそうです。そうじゃないって気付いて逃げ出そうとしたんですけど、合宿所が無料なんで今もいるそうです。笑えますよね」

「柔道を軟弱者のやる部活と感違いするとは相当世間知らずの、天然ボケだな。いいよ、彼をじっくり観察してみなさい。面白いことが見つかるかもしれない。でも深い関係になっては駄目だよ。先生が許しません」

「はーい」

 前田優子は返事をした。

「大島さんはどうかね」

 有象は聞いた。

「それがですね、バイト先で一緒になったおじさんなんですけど、経歴が面白いというか悲惨なんです」

「また悲しい話かい?」

「いえ、それが一流の大学を首席で卒業して、一流の出版社に入って、ベストセラーをたくさん編集したそうです。ところが、期待して育てていた新人女性作家のデビュー作が盗作騒ぎになって商品回収。本人は営業に異動になったそうです。でも彼には営業の才能が全くなくて、売上が上がらないので、それを叱責した上司と喧嘩して、プロレス技をかけたら首の骨が折れちゃったそうで、会社を懲戒免職になったそうです。その後はいろいろあって、今はあたしと一緒に、商品のシール貼りをしています」

「ふーん、どっかで聞いた話だなあ。その男、どこの出版社に居たって言ってた?」

「門松書店です」

「そ、そいつは風花涼だ! すぐに捕まえなければ!」

「有名人なんですか?」

「我らが横浜マリンズをジャパン・シリーズに導いた、名将だよ!」

 今日は風花はお休みだという。彼の住んでいるところは分からない。明日の出勤を狙って捕らえるしかない。

 有象は“妙蓮寺の坊ちゃん”に連絡を取った。

——なんだ、有象先生珍しい。なんか用ですか?

「用なんてもんじゃない。風花涼が見つかったんだよ」

——ええっ?

「で、あんたクルリント(マリンズの親会社)の社長と知り合いでしょ。連絡を取って捕まえるの手伝わせてよ」

——分かった。早速、連絡する。

「これでくるぞ!」

——マリンズ黄金時代!


 前にも述べたが、風花涼はプロ野球に関してズブの素人である。だが、少年期からマリンズの試合をテレビに食いついて見て、その勝因、敗因を細かく分析していた。それが子供のうちなら児戯だが、大人になってからも続けていた。言ってみればマニアだ。数年前に起きたマリンズ球団売却の時、新親会社クルリントの上島竜一社長は監督公募という話題性の強いことをした。早とちりの風花はそれを球団職員の公募だと思って応募した。彼は面接の途中になって、これが球団職員の試験ではなくて監督の面接だと気付いた。そこで彼は三十年近い球団分析から、マリンズの弱点を晒しだし、こうすればいいと献策した。その鋭さに魅力を感じた上島竜一は風花涼を監督にする。ところが開幕戦の開始直前、事故が起き、風花涼は意識不明の植物状態となり、シーズンを棒にふる。彼が目覚めたのはシーズン終了後だった。

 上島竜一社長は二年目の風花にかけた。風花はコーチ陣を一新。そしてメジャーで暴力事件を起こし、追放されていた日向五右衛門投手を周囲の反対を押し切って入団させる。その日向らナインが風花をしたって、奮起し、奇跡のア・リーグ制覇を成し遂げる。しかし、福岡ドンタックとの第七戦、九回裏2アウトからの微妙な判定を抗議したにもかかわらず、審判団に無視され日本一を逃した風花は

ショックで球場から失踪、家にも帰らず、未だ消息はつかめていない。

 その、風花涼が見つかったのだ。彼を再び、マリンズの監督に復帰させれば、まさに黄金時代が来るかもしれない。有象は興奮で眠れなかった。

 翌日、大島敦子をベンツに乗せ、工場に向かう。妙蓮寺の坊ちゃんや上島竜一クルリント社長も若手社員数名を連れて付いてくる。ここで有象はふと不安になった「大げさなことになったが、男が風花じゃなかったらどうしよう。大島敦子は天然ボケだ。何か肝心なところでボケていたら……」不安が心を占める。雨が降ってきた。叩きつけるような雨だ。こんな中、大島敦子は風花涼を見つけられるのか?

「あの人です」

 大島敦子は言った。無精髭をはやし、背中を丸めて歩いてくる。これは違う! 有象が思った時、妙蓮寺の坊ちゃん、その子分、クルリントの面々が男を半ば拉致した。違う、違うって。風花涼はもっと颯爽としていたって。


 男は風花涼だった。彼は敗戦のショックで何もかも嫌になり、放浪の旅に出ていた。時が経って金がなくなり、大島敦子と同じ工場で商品のシール貼りのアルバイトをしていた。

「風花はん、今まで何やっとったんや」

 クルリントの上島社長が怒る。

「あーい、すいまてーん」

 風花はボケている。こんな男だったのかとがっくりする有象。

「とにかく復帰だ。監督の宗谷はヘッドコーチに格下げ」

 上島は即決した。

 三月、四月と負け越していた横浜マリンズが、監督交代を機に勝ちだしたのは言うまでもない。一匹の獅子に率いられた羊の軍団は一匹の羊に率いられた獅子の軍団より強いのだ。


「大島くんのおかげで、マリンズ絶好調。言うことなしですよ。ありがとう」

「あたしも奨学金をもらえることになりました。ありがとうございます」

「そうですか。これは良かった」

 今日も二人の学生と有象の講義というより雑談が続いている。

「前田くんは、樋口一応くんの取材、進んでいますか?」

「はい。彼はやっぱりおかしいです。逆立ち歩きの練習をしていて、途中で上下が分からなくなって『あっ、地面がない』って必死に地面にしがみついたそうです」

「わははは、三半規管でも見てもらった方がいいのではないか」

「あたしは風花さんを取材することにしました」

「ほう。球団から許可は下りたの?」

「特別にいただきました」

「彼は逸話の宝庫だからねえ。面白い話がたくさん聞けると思いますよ」

「先生」

 前田が言った。

「ウチのゼミは夏の合宿をしないんですか?」

「やったことないありませんねえ」

「やりましょうよ」

「楽しそう」

 大島もいう。

「じゃあ、ウチに来なさい。部屋は余っているし、冷房もある。三度の飯も準備させるし、ホームシックになったらすぐ帰れる」

「わーい」二人は喜んだ。

 こんなことで、喜べるなんて幸せだ。有象は思った。

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