ゆうもあ先生の雨模様

 運転手の吉田が熱を出した。婆やの裕子さんは運転ができない。もちろん、ゆうもあ先生こと有象無蔵も運転なんてできない。教習所には通ったことがある。しかし、あのしかし、講師の嫌味な態度はなんだ。それでもサービス業の接客か! 怒った有象はその時、健在だった父に頼んで教習所の土地を買収し、教習所を潰してやった。跡地にはガソリンスタンドを置いて、小気味良い接客態度で、ご近所から評判をいただいている。お近くにお寄りのさいはどうぞお越しください。

 そんなことはどうでもよかった。車が使えないのだ。外は雨である。タクシーでも呼ぼうかと思ったが、雨の中の散歩もよかろうとして徒歩での出勤を決めた。

 神奈川県立大学はJR横浜線の十日市場駅から徒歩五十分である。いくらなんでもそんなには歩けない。駅からバスが出ている。だがそれが非常に難しい。大学のパンフレットには「十日市場駅から横浜市営バスもしくは神奈川中央交通バスで、23系統、もしくは65系統に乗って『神奈川県立大学入り口』バス停で降りること。『神奈川県立大学』駅で降りると二十分余計に歩くことになるので注意すること。また同じ23系統、65系統でも『神奈川県立大学付属病院』バス停行きがあり、病院と大学間には直通バスがなく、歩いて約一時間かかるのでさらに注意するべし」と書いてある。方向音痴の有象にとってはこれは魔境であった。

「先生、やっぱりタクシー使ったほうが良いのじゃありません?」

 裕子さんが言う。その一言で今日は有象の反骨心がムクムクと湧いてきて、

「いや、たまには満員電車に乗ってみたい」

と強気なことを言って家を出た。傘をさすなんて何年ぶりだろう。雨でしっとりした街を行く。鴨居は坂の多い街である。有象の大邸宅はその坂の頂上だから行きは足取りも軽い。だが帰りは……タクシーを使おう! 心に決めた有象だった。鴨居駅近辺は住宅地が多く、工場や研究所もあるので乗降客が多い。久々の人の群れにおののく有象。

「えい、ままよ」

 と階段に踏み込んだが、そっちは下り口。「馬鹿野郎」と怒鳴られて転んだところを踏みつけられて、這々の態ほうほうのていで逃げ出した。服中泥だらけである。

 なんとか階段を上ったが、切符の買い方など覚えているだろうか? とりあえず鴨居十日市場間の値段を調べる。切符だと百六十円、IC乗車券だと百五十四円とある。

「IC乗車券?」

 有象がSuicaやPASMOを持っているはずがない。知らないことは聞きたくなる。早速、駅員さんに聞いてみる。

「このIC乗車券とは何かね?」

 駅員さんは縄文人を見るような目で答えた。

「JRではSuica、私鉄ではPASMOとなっております。同じ機能です。この中にお金をチャージしていけば、切符を買わずに改札を通れます」

「それはいい。じゃあ、買おう」

「では、切符売り場でお願いします」

「何、切符売り場に行かなくてよいから便利と言っておいて、切符売り場まで行かすのか。この嘘つき、駅員」

「勘弁してくださいよ。初めの一回だけで、あとはフリーですから」

「私はこの一回しか電車に乗らないのだが」

「コンビニやスーパーなどで使えますから便利ですよ」

「そういうところはあまり行かないんだけどな。長々と説明を聞いたし、Suicaとやらを購入するか」

 と有象は駅員に助けてもらってSuicaを作り、1万円チャージして、なんとか入場する。

 ホームに降りて、有象は気がついた。

「なんで私はこんなに早くウチを出てきたのだろう」

 有象の講義は全部、午後である。午前中は特に用事はない。それを「満員電車に乗れるぞ」と子供のように張り切って家を出てきてしまった。迷子になりやすい子供みたいである。

 だが、まあボーっとしていても仕方ない。教授室で、平田くんをからかって遊ぼうなどと思っていると八王子行きの電車が来た。有象は何も考えずにそれに乗った。車内に入るとアナウンスがある。『今日もJR横浜線ご利用ありがとうございます。こちらは快速八王子行きです。十日市場には止まりませんのでご注意ください』

 えっ? いつ横浜線に快速ができたんだ?(1988年からあります)有象は焦った。どうすればいいのかわからなかったからである。いや、冷静に考えればこの前だって電車に乗っているのだから(ゆうもあ先生と女編集長参照)分かるはずなのに、満員電車にのぼせて正常な思考ができなくなってしまったのだ。「うわーん」有象は大人のくせに泣き出した。周りがドン引きして、そこにだけ空間ができる。あんなに満員電車だったのに、なんで空間ができるんだ?

 そこに、一人の女性が近寄ってきて言った。

「先生、大人がこんなところで泣いたら恥ずかしいですよ」

 前田優子だった。

「前田くん、私は迷子になってしまったんだ。一人で来たのが失敗だった。婆やに一緒についてきてもらえばよかった」

 有象が大声で叫ぶので、車内は大爆笑に包まれた。ひとかどの男が「婆や」なんて、うぷぷぷ……

「迷子になんかなってませんよ。次の中山で降りて各駅停車に乗ればいいだけです」

「えっ、そうなの。助かったあ。前田くんありがとう」

 有象は思いっきり前田優子に握手した。そういうのもセクハラに入りますよ。しかし、そんなことはお構いなしに前田優子は、

「先生、なんだか心配だから学校まで連れてってあげます」

「それは助かります。そうだ、お礼にさっき買ったSuicaを差し上げましょう」

 有象はSuicaを差し出した。

「先生、何を使ってホームに入ったんですか?」

「このSuicaです」

「じゃあ、出る時もSuicaが必要です。人にあげちゃ駄目ですよ。個人情報も入っているんだから」

「へえ、そうなんだ」

 何も知らないおぼっちゃま有象だった。

 前田優子のおかげで、最大の関門、バスも何とか乗れた。前田さまさまだ。

「この後授業でしょう? じゃなかったらモーニングコーヒーでも奢るところだけど」

「じゃあ私、講義さぼっちゃいます」

 と言って前田優子は有象の右腕に強引に左腕を差し込んだ。

「おいおい」

 有象は戸惑うが、前田優子はお構いなしで、

「先生、私たち、キスまでしたのよ」

 と言って笑った。

「人生一生の不覚」

 有象は避けなかった自分を悔やんだ。

「ところで今何時ですか?」

 有象は聞いた。

「九時です」

「『喫茶こばやし』はそんな早くからやっていたかな?」

「私、マッチもらいました。十一時からです」

「残念。ああそうだ。『喫茶こばやし』のマスターからワイルドブレンドをもらったんだ。教授室で平田くんに淹れてもらおう。私が淹れても美味しくないのだが、平田くんが入れると店の味になるんだ。彼は妙に器用なところがある」

「平田さんっておとなしい方ですね」

「天性の照れ屋なんだ。だららどこも研究室に入れなかった。コミュニケーション能力がないと言ってね。かくいう私もコミュニケーション能力が低い。だから彼を引き取ったのさ。しゃべらなくてもいいから、楽だ」

「先生の場合、コミュニケーション能力が低いんじゃなくて、人付き合いが面倒くさいだけなんじゃないですか。今だって、花の女子大生に平然と喋っている」

「そうかもしれないな。さあ行こう」

 二人は腕を組んだまま教授室に行った。

 それを一人の女学生が呆然と見ていた。大島敦子だった。

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