ゆうもあ先生の自己都合退職
神奈川県立大学文学部学部長、鷲田清はゆうもあ先生こと有象無蔵教授が大嫌いだった。真面目で勤勉、生徒にも厳しく、たとえ、この講義の単位を落としたら落第する学生がいても、試験で一定の得点を取らなければ、容赦なくD判定をつけた。何人もの学生が奈落の底に落ち、せっかく合格した就職をフイにした。中には自殺する哀れな学生もいた。鷲田学部長は動ずることなく、学問をサボった者に世間は容赦ないのだよと言って死んだ学生を侮辱した。学生たちは激怒し、『鷲田学部長を更迭せよ』とプラカードを掲げ、ビラを作って抗議行動に出た。ここに至って鷲田は自分が危険な立場にいうことに気づいた。マスコミも嗅ぎ付けてきて、学生たちに取材をしている。なんとかしなければいけない。
ここで思い出したのが、鷲田の嫌いな有象無蔵である。奴は超ゆるい講義をして、ほとんどの学生にA評価を与えている。噂では試験当日、インフルエンザに罹り試験を欠席した学生にも「お見舞い代わりに」B評価を与えたという。なんとも不埒でいけ好かない男である。ただ、学生たちには莫大な人気がある。奴に今度の騒動を治めてもらう。鷲田は卑怯にも自分が表に出ないで、有象を矢面に立たせるつもりなのである。
「ああ、鷲田学部長、その件はお断りしますよ」
有象はきっぱりと言った。
「だって学部長、学生を落第させるのは本人の勉強不足だから仕方ありませんけれど、自殺した学生を侮辱する。死者に鞭するようなことは教職者としてやってはいけない非道なことです。私は学部長の尻拭いをするつもりは一切ありません」
有象の目には怒りが感じられた。
もっと怒ったのは鷲田学部長だ。
「有象くん、今まで君のわがままを許してきたのは私だよ。それを裏切るなら私にも考えがある」
そう言って鷲田は学部長室を出て行ってしまった。
「調子のいい男だ」
有象は学部長席に座り、机に足を投げ出して煙草を吸いだした。学部長室は禁煙である。だが、そんなこと気にしちゃいられない。
「ああ、この反抗で私のこの大学での生活は終わったな。よくて小田原キャンパスに左遷。悪くすれば諭旨免職あたりかな。まさか、懲戒免職はないだろう。退職金がもらえなくなる。まあ、そんな端金、いらないけれども」
ぷかー、煙草の煙が宙に浮かぶ。
「どうせクビだったら、ワイドショーのMC、受けとけばよかったな」
と有象は思った。湾岸テレビで始まった『イブニング・河童ですよ』は河童黄桜のあまりの無知ぶりに奥さん大爆笑。視聴率もそこそこいっているらしい。まあ、河童は本当の馬鹿だから、いずれメッキが剥がれるとして、悔しいのは河童と石田衣良先生の対談集が香蘭社から出版されて増刷を重ねていることだ。本当に運のあるやつが羨ましい。有象は机に置いてあった地球儀をぶん殴った。自分の拳が痛かった。
左遷や、解雇になると分かれば怖いものはない。有象は学生のデモ行進に一緒に参加した。
「鷲田学部長はやめろ!」「おう!」
「鷲田は悪魔の申し子!」「そうだ!」
気がつくと有象ゼミの五人が集まってきた。
「先生、来てくれたんですね」
「ああ、私は鷲田が嫌いなんだ。どうせ左遷かクビになるなら思いっきり、鷲田を糾弾して、地獄に道連れにしてやる」
「先生、クビになるんですか?」
大島敦子が心配そうに聞く。
「たぶんね。でも大丈夫。私、資産家だから」
有象がのん気に言うと、大島が、
「それじゃあ、先生の講義、受けられなくなります!」
と言って泣き出した。
「心配するな。我が家を開放して私塾を作る。名前は有象塾じゃあ芸がないな」
「ゆうもあ塾ってどうですか?」
前田優子が言った。
「あのね、ゆうもあ先生ってあだ名は私が若いころドジばっかりしていたことからくる蔑称なんだけどね」
有象はちょっとイラついた。
「でも今は親しみを込めてみんな言ってますよ」
柏木麻里子が反論した。
「じゃあ、ゆうもあ塾でいいか」
有象は簡単に折れた。
「ああ、デモも疲れたな。たまには『喫茶こばやし』にでも行くか。どうせクビだから、経費バンバン使っちゃおう」
「わあい」
有象と五人の学生は『喫茶こばやし』に行く。一時はメニューをリニューアルしてお客が入るようになったこの店も最近はまた閑散としてきた。店主がアメリカンを「泥水をすすっているようんものだ」と言ってやめてしまったのと、自慢のアップルパイなどのケーキを作っていた奥さんが、また探偵事務所に戻ってしまったからだ。なんでも大事件が勃発して、探偵事務所の人手が足りなくなってしまったのだそうだ。
「だから、ブレンドしか出せませんよ」
店主は残念そうに言う。
「それからここももう直ぐ閉店です」
「えっ?」
「私も探偵に逆戻りですよ」
「そんなに大事件なんですか?」
有象が問う。
「日本を揺るがす、大事件です」
「どんな?」
「詳しくは言えませんが、今の内閣総理大臣。あれは偽物の変装です」
「ええっ!」
「日本を再び、軍事国家にしようとしている、ある団体の回し者です」
「ちょっと待ってください。じゃあ、この前成立したあの法案は?」
「その団体の仕業です」
日本はまた戦争への道を行くのか。のん気に文学などやってられない時代が来るというのか?
「でも大丈夫。全日本探偵連盟の精鋭、私も含めてですが、団体の正体を見破り、白日のもとに晒してやりますよ」
ははははと店主は笑ってキッチンに戻った。
有象はコーヒーをすする。美味い。これが飲めなくなるのか。一抹の寂しさが漂う。
「さて、有象ゼミ最後の講義をここでするかね」
「そんな、寂しいこと言わないでください」
大島敦子が涙声になる。
「有象ゼミ最後の講義で、ゆうもあ塾最初の講義さ」
「先生、私たちもゆうもあ塾に入っていいですか?」
柏木たち四年生が一斉に言う。
「ああいいとも。ゆうもあ塾は出入り自由だ。お代は一切頂きません。ただし、コーヒーは不味いぞ」
「それならブレンド豆くらい私が提供しますよ。ただではありませんが」
店主が言う。
「これから忙しくなるのにいいんですか?」
「豆を挽くのは私の趣味ですから」
「おいみんな、これからも美味いコーヒーが飲めるぞ」
「でも、誰が淹れるんですか?」
「平田くんというわけにはいかないか。彼には明るい前途があるしな」
すると平田くんが珍しく慌てて、現れた。
「先生、学長がお呼びです」
「うぬ、ついに来たか」
有象は立ち上がって代金を支払うと(もちろん領収書はもらった)店を出て大学に戻った。
「先生、クビになっちゃうんですね」
大島敦子がまた泣く。
「先生なら大丈夫よ。お金持ちだし、小説家の仕事もあるんだから」
柏木麻里子が言った。
学長室に入ると学長の樋口一角が席に座っていた。その顔は険しい。
「有象くん、君は鷲田文学部長を非難する学生のデモに参加しているようだね」
「はい、参加しています」
有象は堂々と言った。
「それはどうしてかね?」
「鷲田は人間として、教育者として許せないからです」
「上司を非難したらどうなるかわかっているね?」
「覚悟はできています」
「そう、覚悟は出来ているの。じゃあ、鷲田くんに変わって文学部長よろしくね」
「へっ?」
なんのことやらさっぱりわからない有象。
「鷲田はわしが追い出した。これ、シャレじゃないからね」
「はあ」
「わしの孫も君を買っている」
「お孫さん?」
「樋口一応という学生だ。柔道をやっている」
「ああ、『近代柔道』愛読者の!」
「そうだ。孫はたいそう君を慕っている」
「なんででしょうね? 私には分かりません」
「で、学部長の件。引き受けてくれるな」
「いやあ、その」
「なんだ?」
「責任者っていうのは責任を取らなきゃならないから責任者なんですよね」
「何を言っとるのだ?」
「いやあ、要するに柄じゃないってことで」
「断るというのか?」
「まあ、有り体に言えばそうです」
「何と欲のない男だ」
「ついでに教授も辞めさせてください」
「何だと?」
「私、前から思っていたんです。人にものを教えるのってたいへんだなって。それよりもいつまでも学び続ける人でありたいなって思ってたんです。今回がちょうどいい機会なので、教授の職を辞したいと思います」
「学びながら教えるという手もあるぞ」
「単位だけ欲しい学生に真面目に教える気はありません。私塾を作ろうと思っているのです。笑いと滑稽、ユーモア、そして人生」
珍しく有象は真面目に受け答えをした。そうしないと樋口学長がおっかなくて、辞めさせてくれないと思ったからである。
「君の言いたいことはよく分かった。退職を認めよう。ただし……」
「なんですか?」
「客員教授になってもらいたい。君は一応、著名人だからな」
「何にもしませんよ」
「名義貸しで結構です」
「じゃあ、分かりました」
有象は面倒くさいから本当は断りたかったが、何にもしなくていいらしいし、樋口学長を怒らすと何もかもぶち壊しになりそうだから、しぶしぶ受け入れた。
「では失礼します」
有象は学長室を出た。
数日後、有象は自宅でうだうだしていた。退職は今月末、来月からは国民年金と国民健康保険と住民税と固定資産税を自分で払わなくてはならない。(とは言っても婆やの裕子さんがやってくれるのだが)
所得税を払うためには小説を出版しなければならいのだが、現在雑誌の連載はちくわ書房の雑誌一点。一回原稿用紙二枚のエッセイだから当分、書籍化される気配はない。小説の書き下ろしは全くしていない。下手すると非課税人間になってしまう。
「お国のために小説を書かねば」
と思いはするが、全然アイデアが思い浮かばない。まあいいか。と思っていると、
「先生、お客様ですよ」
裕子さんが言う。
「誰だ。女学生かな」
と有象がにやけると、
「男の方です」
と言って裕子さんは有象のお尻をつねった。強烈に痛い。本気出すなよ。
「いてて、あっ! 平田くんではないですか」
驚く有象。
「先生、僕も大学を辞めてきました。弟子に、書生にしてください」
優しいジャイアン、平田くんが真剣な顔で言う。
「馬鹿な。大学に残れば准教授にはなれたろうに」
「僕は先生の助手で幸せでした。それに『喫茶こばやし』の閉店セールで大量にブレンド豆を買ってきました。美味しいコーヒーが淹れられるのは僕だけです」
「そういうことなら、ここにいなさい。給金は安いよ」
「はい」
『喫茶こばやし』のコーヒー豆を見た途端、有象は平田くんを受け入れた。平田くんは歩くサイフォンか!
有象は玄関に『ゆうもあ塾』の看板を立てようと考えた。
「看板にする木がいるな」
そう考えて、平田くんを連れて吉田の運転で近くのホームセンターに行った。普段、こういったところに来たことのない有象は、その圧倒的な品揃えに恐怖心を覚えた。
「この世はいらないもので満ちている」
目的の材木は一番奥のコーナーにあった。それらしい木がそこそこの値段で売っている。
「失敗するといけないから三枚くらい買っていこう」
有象は三枚とも平田くんにもたせて会計に行った。
家に帰った有象は居間に新聞紙を敷いて畳を汚さないようにして、一筆したためようとして気がついた。
「家には筆も墨もない!」
平田くんを文房具屋さんに行かせて、有象は煙草をふかしていた。
「書は心、書は集中」
一応まともなことを言っているがタバコの灰が看板にする木に落っこちて焦げ跡がついてしまった。
「……味だな」
有象は気にしないことにした。
「戻りました」
平田くんが文房具店から戻ってくる。
「先生、こういうのに墨汁ではなんだと思って墨石を買ってきました」
有象はそれを聞いて面倒くさくなる。
「平田くん、君に墨をすらしてあげよう」
面倒くさいことはすべて他人任せだ。
「さあ、すりたまえ」
平田くんを急かす有象。
「はいできました」
平田くんが墨を差し出す。
「では、たあ……うぬぬ、平田くん」
「なんでしょう」
「お香典じゃないんだから薄墨はないでしょう」
「すみません、加減がわからなくて。すりなおします」
「うぬ。もっと一生懸命すりたまえ」
煙草の焦げ跡の木はおじゃんになった。
「はい、すりました。今度は試し書きしたから大丈夫です」
「よし、書くぞ。たあ、うりゃあ、よいしょ。うぬ、見事な出来だ」
「先生、なんて書いてあるんですか?」
平田くんが聞く。
「平田くん。君はひらがなも読めないのかね。もちろん『ゆうもあ塾 主宰 有象無蔵』だ」
「僕にはヘビのラジオ体操にしか見えませんが」
「平田くん、ジョークの腕を上げたねえ。これを玄関に飾って、ついでにコーヒーを淹れてくれ給え」
「はい」
平田くんは首をかしげながら看板を抱えて出て行った。
夕方。
「先生」
裕子さんが有象を呼ぶ。
「なんですか?」
「玄関に変なラクガキの書いてある板があったんで、明美と二人で捨てておきましたわ」
有象はずっこけた。
だから、ゆうもあ塾には看板がない。
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