ゆうもあ先生の講義 後期②

 月曜日、ゆうもあ先生こと有象無蔵はとても憂鬱だった。今日はあの天魔の夏合宿があってから初めての有象ゼミの日であった。どのツラ下げて学生たちに会えばいいのだろう。有象は「今日は誰もゼミに来ないといいな。いや来ない。絶対来ない。そうに決まっている。そして二度と私の前には姿を現さないであろう。それならそれで良い。みんなにはA評価を上げる。それで贖罪にしよう」

 こう思った。実は誰もゼミに来なかった時のために、ズボンの後ろのポケットに文庫本を忍ばせてある。『大菩薩峠 第一巻』中里介山。これを読んでこの世の諸行無常を知るのだ。ドアをそっと開ける。

「先生、こんにちは」

 なんと五人揃っていた。これは驚きだ。しかも屈託のない笑顔を見せている。あの日のことは忘れたようだ。

「遅くなってすまない」

 有象は深々と頭を下げた。それにはあの日の分も含まれていた。

「みなさん、久しぶりだね。課題の方は進んでいるかな」

 有象は内心の動揺を隠して、話しかけた。

「先生、私たちは終わりました」

 四年生の柏木麻里子が言う。

「ほう。では提出したまえ。あとで拝見しよう」

 柏木、渡辺由紀、横山亜紀が課題を提出する。原稿用紙五枚でいいと言ったのに、皆、A4の紙に三十枚ほど書いている。なかなか熱心だ。

「みんな、よく頑張ったね。これからは最終授業まで来なくてもいいよ。他の講義の単位を落として留年になったらいけないからね」

「大丈夫です。私たち単位はもう取ってますから。あとは有象先生の顔を拝見するのが楽しみだわ。ねー」

 柏木が心臓に悪いことを言った。恨んでて言うのかなあ。また機会があればと思っているのかなあ。有象は頭を振って、邪念を取り払った。

「前田くんと大島くんはどうだね」

 有象は視線を変えた。前田優子は生き生きしているが大島敦子に覇気がない。

「先生、完成しました。タイトルは『樋口一応一直線』です」

「『柔道一直線』にかけたな。面白い。見せてごらん」

「はい」

 ずっしり重い。

「書いたな。原稿用紙三百枚分はあるな」

「私、筆が乗っちゃったんです。後から後からフレーズが出てきて」

 嬉しそうに話す、前田優子。

「ああ、自動筆記状態だな。プロでもならない人はならない。君には小説家の才能があるかもしれない」

「ありがとうございます」

 前田優子は頭を下げた。

「大島くんはどうだい?」

 きっと上手くいっていないのだと分かりながらも有象は尋ねる。

「先生。あたし題材を変えようと思っているんです」

「横浜マリンズの風花監督を題材にしていたね。球団ともめたのかい?」

「いえ、球団はよくしてくれます。風花さんも協力的です。でも……」

「でも?」

「彼の面白さを文章にできないんです。あたし、文才が無くて。これだったら飼っている猫のチビのこと書いたほうがマシだと思って」

 大島の目に涙が浮かんだ。有象は一瞬たじろいだ。しかし、体勢を元にもどして、

「そう、自棄にならないほうがいい。取材先が協力してくれているなら、それを続けたほうがいい。出来不出来は気にしないこと。所詮アマチュアなんだから、誰も君を責めないよ。もちろん僕もだ」

「はい」

「できたところまで、見せてごらん……うん、大丈夫。これを続けなさい。途中で投げ出したらあちらさんにも失礼になる。それよりは出来がイマイチでも完成させたほうがいい」

「はい」

 答えながら泣きじゃくる、大島敦子。女の涙に男は弱い。有象の心はまた大島敦子に傾いた。


「平田くん。コーヒーを人数分淹れてください。ちゃんと君のも淹れるんだぞ」

「はい」

 助手の平田くんの淹れるコーヒーは『喫茶こばやし』の味がする。平田くんもいつまでもうだつの上がらない大学助手じゃなくて喫茶店でも始めればいいのに。

「気分を変えて、小説作法の話をしよう。最近Web小説のサイトに関わっているんだが小学校で習ったことさえできていない小説がいっちょまえの顔をして世間にさらされている。私も一応、国文学者の端くれだからな。他山の石と思って聞いてくれよ。君たちの文章にもおかしなところはある」

「えー、そうなんですか?」

「ああ。まず、基本中の基本。書き出しや、段落を変えた時は一文字開ける。これができてない投稿がいっぱいあった。個人的趣味ならいいが、人様に見せるときにこれだと、がっかりして読む気がしなくなる」

「へえ」

「渡辺くん。君そうだよ」

「きゃー、恥ずかしい」

「それから鉤括弧、話し言葉の後も一段下げるんだよ」

「そうなんですか?」

「鉤括弧で言えば鉤括弧の中に鉤括弧を入れる時は二重の鉤括弧『』を入れなければならない。みんな、できてないね」

「そうなんだ」

「それから…という記号。三点リーダーというのだがこれは文中では……というように二つ並べなければいけない——も一緒だ。三点リーダーは格好をつけて、たくさん使いがちだけど、あまり多いと文章が安っぽく見えるから、ここぞという時以外使わないほうがいいと私は個人的に思う」

「あたしいっぱい使ってました」

「それから!と?。これを文章の途中で使ったら次は一文字開けるのが基本だ」

「どういうことですか?」

「例文を出そう」

 私は馬鹿ですか? いいえ天才です。

 やった! 明日はホームランだ。

「そういうことか」

「鉤括弧の前の時は一文字開けなくてもいい」

「へえー」


「次に漢字のルビだ。他人事とかいてなんと読む? 横山くん」

「たにんごと?」

「違う、ひとごとだ。じゃあ一段落は?」

「ひとだんらく!」

「間違えだよ。いちだんらくだ」

「みんな、ひとだんらくって言ってると思う」

「そうだね。じゃあこれは。十手」

「じゅってでしょ」

「違うんだ。じってが正しい。十という感じには『じゅっ』という読み方はないんだ。NHKのアナウンサーのしゃべりをよく聞いててごらん。十本という言葉をきちんと『じっぽん』と発音しているよ」

「今度聞いてみます」

「あとこの言葉は間違いかどうかあててごらん。『全然大丈夫です』」

「普通に使ってますよ。でも間違いなんですね」

「ああ、全然のあとには〜ない、という否定語が来なくてはならない。この場合なら『全然問題ないです』というのが正解だ」

「日本語って難しいですね」

「そうだね。でも、だから多様な表現を使える。文学的な言語だと思う」

「だから先生は小説を書くのですね」

「そうかもしれないなあ。ああ、柄にもなく真面目な話をしてしまった。笑いがなくて申し訳ない」

「先生、普通講義には笑いなんてないんですよ」

「そうか。こりゃあ一本取られたな」

「ははははは」


 こうして、有象とゼミ生のわだかまりは取れた。しかし、大島敦子がちょっと心配である。

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