ゆうもあ先生の文化祭
天高く馬肥ゆる秋。食欲の秋、スポーツの秋。秋にはいろいろあるけれど、ゆうもあ先生こと有象無蔵にとってはやはり秋は読書の秋である。とはいえ、一年中読書している有象にとって、それは今がたまたま秋だというだけであり、春になれば読書の春、夏ならば読書の夏、飛んで冬ならば読書の冬と一年中読書の季節なのである。
それでも秋は読書の季節である。涼しい風が頬を伝わり、優しい日差しが鼻先を掠める。ちょっと眠たくなるけれど、読書欲がそれに勝る。有象は読みかけの大未完小説『大菩薩峠』をこの秋で完読するつもりでいた。もちろん再読である。大学は文化祭の準備で講義どころではなく、一方、有象にとっては嬉しい連休を心おきなく取れるラッキーな五日間であった。例年ならば。
十月に入って、有象ゼミのリーダー格、柏木麻里子が、
「うちのゼミでも何かやりましょう。この前提出した課題をコピーして冊子を作って販売して、それから、焼きそばの屋台を出しましょう」
と有象に言ってきたのだ。
「そりゃあ、結構なことだ。好きにおやりなさい。私は文化祭の間、執筆活動に勤しむから」
と有象が大嘘をつくと、
「それじゃあ、駄目なんです。出店をやるには准教授以上の監督が必要なんです」
柏木が怒った顔で言う。
「平田くんじゃあ駄目なのかい?」
「平田さんは助手です。資格があるのは准教授以上!」
「しかたないなあ。でも私は料理できませんからね。見ているだけですよ」
「教授に何かしてもらおうなんて考えてません。いてくれたらいいんです」
それならば、読書できるなと考えた有象は、
「じゃあ、出勤しますよ。でも本当に何もしませんからね」
と念を押して、しぶしぶ承諾した。
「でもね、柏木くん」
「何ですか?」
「大島くんの作品がまだできていないじゃないですか。彼女をのけ者にするんですか?」
「知らないんですか? 彼女、あの後頑張って作品を仕上げたんですよ」
柏木がしたり顔で言う。
「知らない。そんなこと知らない。私が知らないことをどうして君が知っているんだ。作品ができたなら、最初に私に見せるのが当然のことではないか」
「だって、先生最近サボってばかりじゃないですか。彼女だって困ってましたよ」
「でへへ……」
有象は『大菩薩峠』が面白くて、二週間も講義をサボっていたのである。そのおかげで、六巻まで読み終えた。
「とにかく、大島くんに会ったら私に作品を見せなさいと言ってください」
「はーい」
柏木麻里子は言いたいことをいうと去って行った。
「面倒くさいなあ」
一人になると有象は本音を漏らした。そして煙草に火をつけ、
「絶対に何もやらないからな」
とつぶやいた。
大島敦子に有象はなかなか会えなかった。そうすると、会いたくなる。でも会えない。有象の心はまた大島敦子でいっぱいになってきた。
その次の週の月曜日、有象ゼミに大島敦子はこなかった。親族にご不幸があったらしい。有象の心はますます大島敦子に乱された。
「大島くんの実家ってどこだっけ?」
前田優子に聞くと、
「宮城県ですけど、どうしました?」
逆質問されてしまった。
「あ、ああ、お香典を持っていかなくちゃと思って」
と有象はとぼけた。
「亡くなったのは遠い親戚だそうです。先生がそこまですることないんじゃないですか?」
鋭い質問。
「そ、そうだね。私は何か勘違いしていたよ」
有象はまたとぼけた。
その晩、有象は久しぶりに裕子さんに抱きついた。情事の最中、裕子さんは、
「先生、別の女の人のこと考えてる」
と言って最後までさせてもらえなかった。仕方がないので、家政婦になった中森明美を襲ったが、空手チョップでダウンさせられた。女の勘は鋭すぎる。やむなく寝室に行って、寝ながら『大菩薩峠』の七巻を紐解いた。全然、頭に入らなかった。
次の火曜日、有象は講義もないのに大学にやってきた。気が急いて仕方がない。校内を歩いて大島敦子を探し求めたが、出会えたのは樋口一応くんだけだった。
「樋口くん。大島敦子さんを見なかったかな」
さりげなく聞いてみると、
「先生。僕、その人知りません」
と言われた。この役立たず。
結局、三時過ぎまで探したが大島敦子の姿はどこにもなかった。その晩、有象は発熱して、一週間、大学を休むことになる。
病気明けに有象が教授室に入ると、大島敦子が平田くんと談笑していた。嫉妬に狂った有象は、二人の間を切り裂き、
「平田くん、この前頼んだ資料はできているのかね」
と叱責した。もちろん資料など頼んでいない。平田くんは首をひねって、
「まだです」
と言った。
「ならもういい。コーヒーでも淹れてきなさい」
と強く言って平田くんを追い出すと、
「大島くん、たいへんだったねえ」
彼女の肩をさすりながら慰めた。
「ああ、はい。遠い親戚なんで、そんなにたいへんではありませんでした」
大島敦子は正直に答えた。
「なんにしても人が亡くなるのは悲しいものだ」
有象は一人、合点すると、
「そうそう、課題の作品ができたんだってねえ。見せてごらん」
と教授っぽいことを言った。
「はい。これなんですけど」
大島優子が見せる。
「では、拝見……。」
それはひどい出来だった。有象は胸ポケットの赤ボールペンで紙が真っ赤になるくらい校正したくなる欲求を必死にこらえた。そして、
「処女作にしては頑張ったな」
と微妙な褒め方をした。
「ありがとうございます。じゃあ早速、文化祭用にコピーします」
とコピー室に行ってしまった。
「ああ」
有象は放心した。
翌週に『神奈川県立大学文化祭』が晴天五日間の予定で始まった。有象ゼミは、101号教室という超好立地を獲得していた。さぞ、焼きそばが売れるだろうと有象はのん気に構えていた。自分は教授室で煙草でもふかしていればいいだろうなどと思っていると、
「教授、たいへんです」
と柏木麻里子が走ってきた。
「どうしました?」
「渡辺さんと横山さんが急に就職先に呼ばれて、ここにこれません」
と真っ青な顔で言う。
「君と前田くんと大島くんでなんとかならないのか?」
「もう朝一から満員で、とても三人ではやってられません」
「平田くんはどうした」
「平田さんは助手有志の会で喫茶店を出しています」
「呼び出せないのか?」
「だって、平田さんのコーヒーがあそこのメインですよ。無理です」
「しまった。奴のコーヒーをこっちでやればよかったんだ」
「とにかく教授、来てください」
柏木麻里子は有象をとっ捕まえて101号教室に連れていく。
「私は本当に、何もできないぞ」
「商品のお渡しぐらいなら、小学生でもできます」
「ならば君、小学生の弟がいただろ」
「労働基準法違反で捕まります。頼みます教授」
と無理やり有象は焼きそばお渡し係にされてしまった。
結局、渡辺由紀と横山亜紀は五日間とも就職先に拘束され文化祭に来れなかった。有象は初日だけで嫌になってしまい、次の日からは婆やの裕子さんを連れてきて接客させた。焼きそばは文化祭史上最高の売り上げを記録した。
「平田くん」
有象は文化祭の後片付けを終えた平田くんを睨んだ。
「どうして、ウチでコーヒーを売らなかった?」
「教授が何もおっしゃらなかったからです」
平田くんは、至極真っ当な答えをした。
「前田くん、大島くん」
「はい」
「来年の文化祭に、我が有象ゼミは不参加とする。命令だよ」
あまりの疲労に大島敦子への思いも消えてしまった、有象であった。
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