ゆうもあ先生の講義 後期③
今日は『太宰治と滑稽小説集』の講義の日だった。ゆうもあ先生こと有象無蔵はこの講義が大っ嫌いだったから九月のTV騒動以来、無断で休講にしちゃっていた。それが最近になって教務課に知れて、有象はこっぴどく怒られてしまった。だから今日は絶対に開講しなくてはいけないのである。しかし、どうして面白くもない『太宰治 滑稽小説集』を有象は題材に選んだのだろうか? それは太宰治が一時期ブームになって、若い女子大生がワーキャー言うので、
「これはいい」
と下心大ありで講義を始めたのだ。だが、さすがに太宰ブームも去った。今、太宰を読んでいるのは、根暗な文学少女くらいだろう。(あなたがそうだったらゴメンなさい)そろそろ、題材を変えるか。夏目漱石の『吾輩は猫である』なんてどうだろう。あれは落語的要素があるから面白いだろう。でも有象がそれを読んだのは三十年以上前のことだ。それも中学の授業で無理やり、読まされたのだ。その頃、有象は江戸川乱歩にハマっていた。有象は基本、エンターテイメントしか読まない。幼少の頃からだ。小学生の頃は『誰も知らない小さな国』とか『ふしぎなかぎばあさん』とか『ズッコケ三人組』などを読んでいた。普通の小学生である。それが中学に入って乱歩の淫靡な世界にのめり込んだ。背徳の香りを嗅いだのである。ところが、高校生になると歴史小説にシフトした。原因は友人の持って来た、ファミコンソフトである。光栄の『三国志』だ。愚かにも当時の有象は、三国志を知らなかった。だから、劉備を劉邦、関羽を項羽と勘違いして、「この二人はいずれ争うんだ」などと思っていた。そんな有象に父親は吉川英治の『三国志』をくれた。まだ吉川英治文庫の頃だ。全八巻のやつである。一読、本をめくる手が止まらなかった。巻措く能わずとはこのことだ。あの分量を一気に読んだ。有象は呂布が好きになった。武力は抜群で戦争をすれば必ず勝つのに、政治力と信義に欠けるために曹操、劉備に負けて首を切られる。悲劇の武将。貂蝉との哀しい恋も良かった。ところが諸葛亮が出てくると戦争は軍略に変わる。それも面白かったが、前半の群雄がきら星のごとく現れては消えてゆくのが楽しかった。
三国志に飽きると、友人が新しいゲームを持って来た。『信長の野望』だ。今度は有象は戦国時代にハマる。おきまりのコースで司馬遼太郎の小説を片っ端から読み漁った。『関ヶ原』『城塞』その他もろもろ。中でも一番面白かったのは『国取り物語』の斎藤道三編だ。坊主、油売りから美濃の土岐家を乗っ取っていく様子は、理屈なく面白い。後期の司馬遼太郎は理屈っぽい。思想が入ってくる。これはエンターテイメントではない。教養小説だ。だから有象は『竜馬が行く』以外の幕末明治ものは読んでいない。読めばそれなりに面白いのだろうが、読まない。
それとは別に有象は中学生の頃、姉の部屋にあった一冊の本を読んでから、小林信彦という作家の大ファンになった。その本は『オヨヨ城の秘密』という本で子供向けのジュブナイルだが大人が読んでも充分に笑える本だった。しかもそれはオヨヨ大統領というどこか憎めない大悪党の子供向けシリーズの最終巻だった。有象は慌てて、第一巻の『オヨヨ島の冒険』『怪人オヨヨ大統領』を買ってきて貪るように読んだ。とにかく笑えた。有象のユーモア小説への情熱を目覚めさせたのはこの三冊である。その後オヨヨシリーズは大人向けにシフトし『大統領の密使』『大統領の晩餐』『合言葉はオヨヨ』『秘密指令オヨヨ』『オヨヨ大統領の悪夢』と続く。笑いに、ミステリーやサスペンスを加えた名作揃いだ。有象個人は不条理漂う『オヨヨ大統領の悪夢』が大好きだ。残念なことに予告されていた『オヨヨ大統領の最後』は執筆されなかった。そして、全作、絶版である。絶版でなければ講義のテキストに使いたいくらいだ。小林作品はあれだけ人気があったのにほとんどが絶版だ。口惜しい。そう思っていたら『紳士同盟』と『紳士同盟ふたたび』が復刊した。嬉しいことだ。若い人のにも小林作品に触れて欲しい。ただし最近出されているエッセーは駄目だ。年寄りくさい。有象が読んで欲しいのは全盛期の小説だ。古本が大丈夫なら是非、探して欲しい。
あっ、こんな妄想していたら三十分近く過ぎてしまった。三十分を超えると自然休講になってしまう。急がねば。
「やあ、諸君久しぶり」
有象は臆面もなしに言った。学生は八人いた。そのうち二人は前田優子と大島敦子だ。
「じゃあ今日は『花吹雪』を輪読するよ。前田くんからどうぞ」
輪読が始まると有象は妄想に入った。
「吉川英治、司馬遼太郎、池波正太郎。昔は国民作家と呼ばれる人がいた。今はどうだろう。人気だけなら東野圭吾あたりか。私は何作か読んだが、面白かったのは『秘密』と『白夜行』『容疑者Xの献身』くらいだった。彼の文体はあんまり好きじゃない。なぜ、あんなに売れるのかわからぬ。あとは宮部みゆきか。彼女は良い。でも『火車』までだな。『模倣犯』は読んでないから分からないが、最近の作品には触手が動かない。もう思い浮かばないなあ。ああ、村上春樹を忘れていた。でも残念。私は一作も読んでいない。今度読んでみようかな。もしかしたら面白いかもしれない。そうすると『風の歌を聴け』から読むべきか、『1Q84』をいきなり読むべきか……」
「先生!」
突然前田優子が声を上げた。
「輪読、終わりました」
「そうか、では出席簿代わりに感想文を書いてください。終わった人から帰ってよし」
有象はやる気なさげに言った。
「先生。どうしてこの講義はやる気ないんですか?」
講義後の『喫茶こばやし』で前田優子がつっこんだ。有象は前田優子と大島敦子を誘ったのだ。
「私は太宰治が嫌いだ」
有象ははっきり言った。
「じゃあ、こんな講義やらなきゃいいのに」
「しかしな、学会ではわしが太宰ツウで通っているのだ」
「なんでですか?」
「太宰はあれでユーモア小説を結構書いている。遺作の『グッド・バイ』あれは完全にユーモア小説だ。暗い話ばっかり描いていればいいのに。奴も躁鬱病かと疑ってしまう」
「学会の思い込みなんですね」
「そうだ。迷惑している。だが、来期からは夏目漱石をやる。『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』はコメディーだからな。だが、大学が私と契約してくれるかどうか」
「先生、失職ですか? 困ります。せっかく有象ゼミに入れたのに」
「すまんな。それに自ら職を辞すかもしれない」
「えー? どうしてですか」
「ここだけの話だが、湾岸テレビが私をメインにしてニュースバラエティを始めたがっている。そうすると公務員であるこの大学はやめなきゃならない」
「先生、その話受けるんですか?」
「今はその気はないが、向こうさんがしつこくて」
「ギャラがいいから?」
「私はお金には困っていない。やりがいの問題だ」
すると、ずっと黙っていた大島敦子が言った。
「私たちが卒業するまで、いてください!」
目が真剣だった。
「私だって慣れたこの地がいいに決まってる。だが、クビになったらどうしようもない」
「そんな」
大島敦子は泣き出した。泣くな、有象はその涙に弱い。
「何れにしても、冬だよ、冬」
そう言いながら有象は大島敦子の涙に心奪われてしまうのだった。
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