ゆうもあ先生の憂鬱
モテるということは案外辛いもので、三年生の前田優子と大島敦子に惚れられてしまった有象は激しく混乱した。当初は竜野淑子似の大島敦子と擬似恋愛をして、それを面白おかしく小説にしてやろうなんて思っていたのに、前田優子がしゃしゃり出てきてからおかしくなった。かと言っても前田優子が悪いわけではない。有象と読書傾向が似ているし、物事はっきりしている。うじうじしていない。そこがいい。有象は前田優子を嫌っているわけではないのだ。どちらかといえば好きな方だ。有象は恋愛には淡白だと自分では思っているが、今回ばかりはちと困った。
そうこうしているうちに雑誌『ヘロヘロA』に連載する小説の締め切りが迫ってきた。予定ではもう第五話くらいまで書いてやろうと思っていたのだけれど、蓋を開けたらタイトルも決めていないし、内容は全然構想がない。『仕事きっちり』で有名な有象先生大ピンチだ。『ヘロヘロA』は中学生から若手社会人まで幅広い読者層の雑誌だ。ギャグ満載のいつもの有象節なら充分いけるはずなのでが今、有象の心は前田と大島で貸切で、ギャグどころか、赤ちゃんさえも笑わせられない。「こりゃ、ギャグ小説は無理だな」有象は早々に諦めをつけた。そして決心した。「第一回は笑わせるのではなくて笑われよう」自分の恥をかいて、読者に笑われよう。そう決めた。
有象が人生最大の笑い者になったのは、竜野淑子との結婚と離婚である。今から十年前、若き文学部教授だった有象は大学のホープだった。講義だって今の三つなんて遊びみたいなことはなく、十コマを受け持っていた。それも『夏目漱石論』『森鴎外論』から『村上春樹論』『中上健次論』『現代ミステリー論』までその講義内容は多岐にわたっていた。
あれは四月のことだった。『現代ミステリー論』の講義の真ん前の席に、この世の言葉では言い表せない美しい女学生がいた。去年までは見たことはないから、おそらく三年生であろう。その美しさに惹かれてしまった有象は講義で三回とちった。こんなこと初めてである。全く講義に集中できない。有象は講義を二十分切り上げて終えた。そしてとっとと退散しようとした。しかし、それはできなかった。くだんの美しい女学生が「先生、質問があるのですが?」と有象に訪ねてきたからである。「それは長引きますか?」有象は聞いた。「はい、結構お時間をいただくとおもいます」女学生は言った。「ならば、教授室で、コーヒーでも飲みながら伺いましょう」有象は心拍数の上がるのを感じながら教授室に女学生を誘った。
教授室には助手の落合くんがいた。落合くんにコーヒーを二つ頼んだ。落合くんはインスタントコーヒーを淹れるとそそくさと出て行った。彼なりの気遣いだろう。コーヒーはまずかった。『喫茶こばやし』と平田くんが現れて、おいしいコーヒーを教授室で飲めるのは十年後の話だ。
「さて、質問とはなんですか?」
「まずはここ最近の東京創元社の出す、『連作短編に見せかけて実は長編でした』という編集者T氏のやり方って姑息だと思いませんか? 読者を馬鹿にしている。ミステリーは一作一作で完結するのが本当ではないでしょうか?」「そういう、考えもあるね。今君が言った手法を『東京創元方式』というんだ。ミステリーは過渡期に入っているんだよ。現実世界では警察の科学捜査で大体の犯人は分かってしまう。だからミステリーに出てくる警察は田舎の間の抜けた警官でなければならない。有能な警官が出てくるのは『警察小説』として区別されるお約束だ。それと同じように現代ミステリーにはお約束がある」
「なんですか?」
「読者を思いっきりびっくりさせなければならない」
「ええ」
「かつてアガサ・クリスティが犯したように、ミステリーのルールを逸脱することによって、新しい驚きが生まれる。君は殊能将之の『黒い仏』を読んだかい?」
「いいえ」
「ミステリーだから詳しいことは言えないが、とんでもない、逸脱が行なわれている」
「今度、読んでみます」
「ところで君はどんな本を読むのかな?」
「活字ならなんでも読みます」
「ミステリーオンリーじゃないんだね」
「はい」
「素晴らしい。今、君はどこのゼミにいるの?」
「どこにも入っていません。ゼミ合宿など、父がうるさくて」
「なら、私のゼミに入るがいい。合宿なんてやらないから。ただ、いろいろな小説を輪読して、議論して、卒論には小説を書いてもらう」
「楽しそうですね。でも有象ゼミは人気があって入れないと聞いたのですが」
「急に空きができてね」
もちろん嘘である。
「じゃあ、お世話になります。では失礼します」
女学生は帰って行った。
「いけね、名前を聞かなかった」
それほど有象は舞い上がっていたのである。
名前はすぐに知れた。竜野淑子。いいところのお嬢さんらしい。淑子も有象に気があるのかのように毎講義、一番前の席に座って聞いていた。有象は彼女のためだけに講義している気分になった。
初めてのゼミが来た。ゼミ生は毎年五人だが今年は六人だった。だが、有象には一人しか見えていなかった。今日の課題図書は、井上靖『敦煌』薄手の本だからみんな読んだきたのでろう。活発なディスカッションが続く。だが淑子は発言しないまま終わった。
「読んでこなかったの?」
有象が聞いた。
「読みました」
「じゃあ、自分の意見を言えばよかったのに」
「先生のお姿を見るのに夢中で、そんな余裕ありませんでした」
二人はその日、ホテルで愛し合った。そしてその場で結婚の約束をした。実際に結婚したのは淑子が四年になった時である。
淑子は四年になって、卒論で素晴らしい小説を書いた。有象は淑子に文学新人賞に応募するように言った。しかし、淑子は応募しなかった。理由を聞くと、「私は書く人より読む人がいい」と言った。実際、彼女は門松書店の編集部に入社した。彼女が真顔で読む原稿は売れ、笑って読む原稿は売れないと評判になった。
結婚して淑子は有象がとんでもない横着者であると知った。縦のものを横にしない。時々は斜めにして遊んでいる、そういう男だった。大学のキビキビした姿とは大違いである。
「大学と自宅、どっちのあなたが本当のあなたなの?」
淑子は聞いた。
「自宅! お布団にくるまっているのが好きなの」
有象は甘えた声で言った。
翌日、淑子は家を出た。
有象はショックだった。リラックスした姿を見せただけなのに、家を出て行くとは。最近聞いた話では、淑子は優秀な編集者な反面、他との折り合いが悪かったらしい。精神的に疲れたところに、布団にくるまる有象を見て腹が立ったらしい。有象にもう少し、思いやりがあったら。結婚生活も長続きしたであろう。
ここまで書いて、有象は「これ『ヘロヘロA』に載せる内容か? 『婦人私論』に載せるべきじゃないか?」と頭を悩ませた。そこに電話が入った。
「もしもし、有象ですが」
——『ヘロヘロA』の猿田です。
「やあ、今キミのところの原稿を書いているんだが問題が起きてねえ」
——ああ、そのことなんですが。
「どうしました?」
——『ヘロヘロA』来月で休刊になりました。ですので先生の原稿は不要になりました。申し訳ありません。
「そうか、世の中浮き沈みがあるよ。君も気を落とさず、頑張りなさい」
——ありがとうございます。
電話は切れた。すると有象は新たに原稿を売り込むため『婦人私論』の出版社、中央私論新社に電話をかけた。
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