ゆうもあ先生の講義 ⑨

 テレビのクイズ番組において、圧倒的知識量で優勝したゆうもあ先生こと有象無蔵は大講堂の前に来て驚いた。今日は『太宰治と滑稽小説集』の講義なのだが、学生や野次馬で講堂が満員御礼、黒山の人だかりだったからである。

「面倒くさいですねえ」

 有象はつぶやいた。自分がテレビで優勝したために、一時的にになってしまったからである。別に有象を見たところで何の御利益もないし、講義の単位をもらえるわけでもない。なのに馬鹿な学生たちは「俺が受けている講義の先生がテレビで優勝したんだ」とか「あたしの講義の教授って博識でクイズ番組で勝っちゃったのよ」と父ちゃん母ちゃんや、兄ちゃん姉ちゃん。友達や親戚、挙げ句の果てには、いぬのタロやねこのニャーちゃんにまで自慢して歩いたわけである。そして、日頃「どうせ、期末試験でなんか面白いことを書けばいいんだろ」と馬鹿にしている講義を、ライブかコンサートと勘違いして、お祭り騒ぎにに来ているのだ。

 有象は、

「こんな状態じゃ、講義はできませんね」

と教授室に戻ってしまった。

「やれやれ、どのくらいしたら元の静かな暮らしに戻るでしょう」

 ぼやく有象であった。

 教授室に戻ると、ゼミ生五人と、なんとか彼女らと和解した中森明美が花束を持って待っていた。

「先生、優勝おめでとうございます」

 四年の柏木麻里子が代表して渡してくる。

「やあ、ありがとう」

 こうして、普段から付き合いのある人からの祝福は素直に嬉しい。

「先生、お祝いに『喫茶こばやし』のアップルパイを食べましょうよ」

 渡辺由紀が言う。

「アップルパイ。レギュラーメニューになったのかい?」

「はい。奥さんが探偵事務所を辞めて、喫茶店に専念することになったんです。だからケーキが十種類。それにマスターが折れてアメリカンを五百円で出すようになったんで、お客さんがいっぱいになる日も出てきたんです」

 横山亜紀が嬉しそうに話す。

「しばらく行かない間に、随分と変わったな。私たちしかお客がいなかったのに。これでは静かに学問できないな」

 有象はまたぼやいた。

「でも、先生。喫茶店が潰れずにすむんだからいいじゃないですか」

 前田優子が言う。

「それはそうなんだがね」

「先生は何が不満なんですか?」

 大島敦子が聞く。

「何となく、秘密の場所を晒されたようで寂しい」

 有象は正直に答えた。すると、中森明美が、

「ガキみたいなこと言ってら、先生」

と毒づくので、

「そうだなあ。まさしくそうだ。私はガキなんだ」

と明美の言葉に納得した。


 それでもとりあえずということで、『喫茶こばやし』に行ってみると、適度に空いていた。ゼミ生たちの話を店主に言うと「『行列のできる店』じゃないんだから。前よりちょっと人の入りが良くなっただけですよ。それでもこっちは大助かりです」と嬉しそうに話した。

「奥さんがやめて探偵事務所は人手に渡すんですか? 乗っ取られちゃったんですか」有象が聞くと、「今の所長にとって、私は命の恩人なんです。だから、乗っとろうなんて絶対に考えません。私がオーナーで、月給制で続けますよ」と言った。

 席に着くと柏木が「改めまして、先生おめでとうございます」と祝福してくれた。「先生って、文学だけじゃなかったんですね?」「理系は全く駄目だが、文系は大体分かるよ」「すごい」すごいと言っても大学の一般教養レベルなんだが。「賞品の北海道旅行、誰と行くんですか?」前田優子が尋ねてきた。前田・大島問題は雑誌『ヘロヘロA』が休刊になったことで有象の心から消えた。本人同士には見えない軋轢があるかもしれないが、知ったこっちゃない。「へへへ、秘密」と答えてやったが行く相手はもう決まっている。婆やの裕子さんだ。婆やの裕子さんはもう、二年もウチで働いている。奇跡だ。たいてい四ヶ月くらいでやめてしまうのだ。それが何を気に入ったか「当分、ここで働かせてもらいます」といって働き続けている。その間にちょっとした関係も何回か結んでいる。彼女はおっとりしていて、いいのかよくないのかわからないウチに欲望を果たしてしまうのだ。いいのかな? これはと、後で考えてしまう。まあいいや。その彼女を慰労も込めて招待する。もちろん隙あらば、あっちの方もありだ。

「ところで先生!」

 柏木が訪ねてきた。

「夏の合宿を先生の家でやるって本当ですか?」

「ああ、そんなこと誰かに言ったような気がする」

「言いました!」

 前田と大島が口を揃える。

「でも四年生は無理だろ。就職先の合宿日があるだろ」

「うまく調整できました。お盆の前です」

 よかった。北海道旅行はお盆中だった。

「じゃあ来なさい。ただし、普通の三食しか出さないよ。ご馳走が食べたかったら、自分たちで拵えなさい。あと打ち上げ花火は禁止。五年前たまたまゼミ生がウチに揃って、酔っ払って打ち上げちまって、お隣の高木さんにこっぴどく怒られた」

「はーい」

「あたしも行っていい?」

 突然、中森明美は口を開いた。

「きみはゼミ生じゃないからな」

「いいじゃないですか。和解したんだし」

 柏木が意外なことを言う。

「いいけど、中森くん未成年だな」

「ええ」

「絶対飲酒しちゃ駄目だぞ。煙草もだ。約束できるか?」

「自信ないけど、はい」

「ところで、きみいくつだ?」

「二浪して二十歳」

「成年じゃないか!」

「え? 成年って二十五じゃないの?」

「どこの小学校出ているんだ。先生、電話するから教えなさい」

「どこだったか忘れちゃった」

「まあいい。酒も煙草も好きにやりなさい。でも、中毒は起こしちゃダメだよ」

 有象は明美の世間知らずに呆れてしまった。

「ああそれよりアップルパイと、飲み比べてみたいんでブレンドとアメリカンを」

 有象は頼んだ。あと十種、ケーキがあるという。楽しみだ。

 飲んでみたがやっぱり、ブレンドの方が美味しい。アメリカンはお湯割みたいで薄い。その分値段も安い。当然だな。アップルパイはとてもサクサクして美味しかった。この店は繁盛してしまう。有象は新しい、隠れ家を探すことにした。とにかく有象は一人静かな場所にいるのが好きなのだ。そして、新しい小説を書く。『ヘロヘロA』はなくなったから雑誌はちくわ書房のPR誌『おでん』にライトエッセーを書くことしかなくなった。これは楽な仕事だから良い。この自由な時間で書き下ろしを書くか? 題材はなんにしよう。思い切って歴史小説を書いてみるか。全部嘘っぱちの。これを読んで信じた者から「騙された。自慢げにこの小説の話をしたら笑われた」というクレームが来るような、大掛かりの嘘物語を書いてやろう。それもシリアスな文体でな。アップルパイとコーヒーを飲みながら有象は脳をフル回転させて次回作の構想を練っていた。

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