ゆうもあ先生の夏休み

【良い子は読んじゃダメ】


 大学は夏休みに入った。ゆうもあ先生こと有象無蔵は先日、テレビのクイズ番組で優勝してもらった北海道旅行ペアチケットを使って、婆やの裕子さんと道東方面、釧路、根室、知床、網走をめぐって、最後は札幌でゆっくりするという六泊七日のプランを立てた。湾岸テレビはケチだから往復の航空券しかくれなかった。けれど、それだからフリーなプランを立てられたのである。しかしこのプランだとどうしても自動車がいる。しかし、有象も裕子さんも車の運転ができない。ここで運転手の吉田の登場となるが、なんと吉田、飛行機が怖くて乗れないということが判明した。

「じゃあ、向こうでタクシーでも雇いましょうか」

 と有象が言うと、

「坊ちゃん、ちょうどいい具合に、北海道新幹線が開通しました。わたくし、函館までそれに乗り、あとは在来線を乗り継いで釧路まで参りましょう」

と吉田が提案した。

「そうか。でも北海道の在来線は時間がかかるぞ。我々の三日前にはここを出発しなさい」

「はい」

 吉田は答えた。

 しかし、北海道新幹線なんて必要なのかねと有象は思う。函館まで四時間である。飛行機に乗れば一時間で済む。吉田みたいに飛行機嫌いは青森新幹線で終点まで行って、特急か何かで札幌まで行った方が便利だ。とにかく、札幌に行くまでは役立たずだなと有象は考える。まあ、札幌に行くようになっても乗らないけど。

 旅行の三日前、吉田は張り切って出発した。現地で、最良のレンタカーを借りるという。まあ、頑張ってくれたまえ。

 今、家には婆やの裕子さんと有象の二人きりである。有象はなんとなく、ムズムズした気分になった。裕子さんは住み込みの婆やである。夕食の片付けが終わると部屋にこもってしまう。外出したことは一度もなかった。休日も土日で設定しているのだが、

「することがないので」

 と言って有象の食事や洗濯をしてくれる。それではあまりにも申し訳ないので、大沢家政婦紹介所には内緒で十万余計に渡している。それでも足りないくらいだ。肉体関係も三回ほど持っている。有象はどちらかといえば初心で草食系男子だがそれでもムラムラするときもある。そんな時、二十四歳の美しい人が目の前にいればどうしても発情してしまう。一回目は夕食を作ってる裕子さんの背中越しに抱きついた。

「坊ちゃん?」

 裕子さんは不思議そうな声を出したが、嫌がらなかった。あとは、寝室に入ってことを済ませた。その間、裕子さんが言ったのは「坊ちゃん?」だけだった。

 二回目、三回目も同じような感じだったから省略しよう。ただ有象は「坊ちゃん?」としか言わない裕子さんが、本当に許してくれているのかよくわからなかった。結婚するつもりは有象にはなかった。初婚の悪夢が脳裏に焼き付いて離れない。裕子さんがどう思っているかは謎だ。彼女は一切、そういった言動をしないからである。

 話がそれた。北海道旅行である。これは裕子さんへの慰労旅行の色合いもある。この話を切り出すと裕子さんは思った以上に喜んだ。

「あたし、横浜市から出るの初めてなんです」

 有象は飲んでいたお茶を吹き出した。

「正確に言うと港北区、緑区、都筑区、神奈川区、西区、中区です」

 なんという行動範囲の狭さ。

「聞きますけど、もし欲しいものが東京にしかなかったらどうします?」

「諦めます」

「どーしても、欲しいものだったら?」

「あたし、それほど物欲ないです。でももし、そういうものがあったら、妹に買ってきてもらいます」

「妹さんがいるんだ」

「四つ違いです」

「そりゃよかった」

「はい」

「じゃあ、今回は横浜市どころか、神奈川県、関東地方、本州から初めて離れるんだね?」

「そうです。ちょっと震えちゃいます」

「大丈夫だよ。楽しんでください」

「はい」

 

 出発当日になった。有象は荷物の少ない男なので、お気に入りのリュックサックとサブの手持ちのバックを持った。いつもならリュックだけなのだが、何せ六泊七日の大旅行だ。荷物を厳選してもこれくらいいる。裕子さんはたいへん荷物が多いだろう、少し手伝わねばならぬかと思っていると裕子さん登場。なんと小ぶりなディバック一つ抱えて現れた。

「裕子さん荷物少なくないですか?」

「そんなことないです。着替え二着持ちました」

「六泊ですよ。六泊!」

「途中で洗濯すればいいんです。石鹸は持ってきました」

 なるほど。講演などで旅慣れている有象もびっくりの荷物の少なさだ。考えてみれば、裕子さんはメークをしない。余計な宝飾品もつけない。ジーパンにシャツのシンプルな装いである。それで美しいんだから男の有象でも羨ましい。街を歩けば誰もが振り返る。裕子さんが外にでたがらない理由がなんとなく分かるような気がした。

 さて二人はJR横浜線鴨居駅から東神奈川駅まで乗車し、そこから少し歩いて、京浜急行の仲木戸駅から羽田空港行きに乗車する。東神奈川駅から仲木戸駅は歩いて五分である。事前にYahoo! で乗り継ぎを調べたから完璧だ。もうこの時代、紙の時刻表など不要に思えるが、毎月発行されている。ご存じない方もいるかと思うが時刻表は雑誌である。交通新聞社とJTBの二社から出版されている。そんな豆知識はさておき。

 羽田空港に到着した二人はというより有象はチケットカウンターでチケットを取り替える。飛行機は湾岸テレビがケチったのでEDOエド DUドゥーだ。JALやANAに乗れないのは残念だ。だが仕方ない。カウンターでごねてビジネスクラスに変えてもらった。これは自腹だ。まあ快適さには変えられない。

「時間まで売店でも覗いたらどうですか?」

 有象が裕子さんに聞くと、

「本を読んでいるのでいいです」

と断ってきた。何を読んでいるのかと覗き込んだら『匣の中の失落』竹本健治。四大奇書だあ。こんなもの読むのか。意外。

「じゃあ、私も」

 と有象は本を取り出した。『富士に立つ影・一』白井喬二。もちろん再読である。黙々と本を読む二人は、黙々と本を読みつつ、ゲートをくぐり、黙々と本を読みつつ飛行機に搭乗し、黙々と読書している間に飛行機は飛び、黙々と本を読んでいる間に釧路空港に到着した。有象は途中で一巻を読み終わり、二巻目に入っていた。

 空港には吉田が待っていた。レンタカーはベンツ。いつもと同じ乗り心地である。

「さて、釧路に来たんだ。釧路湿原を見に行こう」

 有象は珍しくポジティブなことを言った。


 釧路湿原は原始時代に戻ったような気分になった。途中の物見台から眺める景色は緑の絨毯だった。

「うーん。釧路湿原満喫。では何か美味いものを食おう。吉田、ガイドブック持ってきた?」

「はい。やはり、海産物にラーメン。ザンギなんてのもありますね」

「ザンギって何ですか?」

 裕子さんが聞く。

「簡単に言うと鳥のから揚げですね。細かく言うと味付けが濃いようです」

 吉田が答える。

「やっぱり、海産物がいいな」

 有象が腹の音を鳴らした。

「刺身などは他のところでも食べられるので、ここは炉端焼きにしましょう」

「いいなあ」

 一行は街へ出た。『ヒグマ屋1号店』という店で炉端焼きを堪能した後、漁港を眺めてホテルに入ろうとした。すると、

「先生」

 と誰かが有象の肩を叩く。

「なんだい?」

 振り向いた有象はおののいた。中森明美がいたからだ。

「どうしてきみがここに」

「へへへ」

 笑ってごまかす明美。

「私が呼んだんです。申し訳ございません。言い忘れていました」

 裕子さんが割って入った。

「どうして?」

「私の妹だからです」

「えっ?」

「先生に誘われて、せっかくだからと思って、私の貯金で連れてきました」

「そ、そうなの」

 動揺する、有象。

「姉妹だったんだあ」

 それにしては随分性格が違う。まあ、そういうことはよくあることか。

「しかし、そうなると部屋割りが狂う」

 有象はシングルとツインを借りていた。吉田をシングルに押し込め、裕子さんとツインで止まろうと思っていたのだ。それが狂った。これではツイン二つ借りなければならない。そうすると自然に裕子さん姉妹で一室、有象と吉田で一室になる。有象は吉田のイビキなんか聞いて寝たくはなかった。そこで策を練った。ホテルのフロントに無理を言って、シングルを四室借り直したのだ。ハイシーズンで難しいかと思ったが、鼻薬を聞かせて強引に借りた。今後も泊まるたびに策を練らねばならぬのか。面倒くさいなと有象は思った。

 夕食はホテルで摂った。釧路の夜は早い。店がすぐに閉まってしまうのだ。味気ないが何も食べないわけにはいかないから我慢した。味は悪くなかった。さて夜だ。有象は片目でちらっと見た裕子さんの部屋へと向かう。目的は一つだが、それだけに来たと思われるのは恥ずかしいので、酒を持って行った。一緒に飲もうというわけだ。

 ドアをノックする。特に返事はないが足音が近づいてくる。ドアが開く。出てきた顔は中森明美だった。

「先生!」

 明美は素早く有象を部屋に入れると鍵をかけた。有象は部屋を間違えたとは言えなかった。

「先生が来てくれるなんて嬉しい。それお酒ね。一緒に飲もう」

「あ、ああ」

 有象は自棄になった。酒を浴びるように飲んだ。明美も同じように飲んだ。二人は陽気になり。ダンスを踊ってベッドに飛び込んだ。そして朝まで愛し合った。明美と裕子さん、よく見たら顔がそっくりだった。美人ならどっちでもいい。

 翌日、有象と明美は寝不足だった。有象は原稿の締め切り間際などに徹夜をするので結構慣れているのだが、昨夜はお戯れが過ぎた。明美は徹夜なんて初めてだと意外なことを言ってあくびをした。

「まあ、お二人ともお疲れのようですね」

 何も知らない(と思われる)裕子さんがのんびりとした口調で言う。姉妹でもここまで違うものか?

「まあ、慣れぬ旅行だからね」

 有象はごまかした。

 次の目的地、根室では日本最東端の納沙布岬を見た。緑が痛々しいほど豊かだ。この先に日本が無いと思うと不思議な気分になる。

 次は知床だ。だがその前に有象は行きたいところがあった。野付半島というところで、通称「この世の果て」と呼ばれる壮大な景色が待っているという。

 野付半島は、北海道標津郡標津町および野付郡別海町にある細長い半島である。延長二十八キロメートルにわたる砂嘴であり、規模としては日本最大である。野付半島・野付湾は、湿地の保全に関するラムサール条約に登録されている。

 ウィキペデ●アによるとこう書かれている。つまり自然が作った半島なんだが、有象には神が作りたもうたものに見える。特にトドワラというトド松が地盤沈下に伴う海水の浸食により枯死したものは、恐怖と神の存在を感じる。まさにこの世の果てに来たと思わせる。UFOが来たら間違いなく連れて行かれる。そんな神々しい場所だった。有象の脳内説明で、野付半島の凄さがお分かりいただけたであろうか。

 さて一行は昼食をちょっと離れているが知床の入り口、羅臼で摂ることにした。手頃な店がなかなか見つからない。

「あそこならちょうどいいんじゃない」

 明美が指差したのは『ヒグマ屋2号店』だった。

「私はウニ丼が食べたい」

 有象が言うと、

「あたしも」

と明美が同調する。

「あたしはえーと、ウニ、いくら丼にします」

 と裕子さん。

「わたくしもウニ、いくら丼を」

 吉田が注文した。

「日本人は魚卵が好きだな」

 有象がつぶやくと、

「わたくしは数の子がダメなんです」

吉田が言った。

「そういえば、私も好きじゃないな」

「コリコリしすぎますからね」

「でも、日本人には珍重されている。私らはマイノリティかもしれない」

「そうですね」

 そんな話をしているうちに丼が来た。予想通り、大きさはそんなになかったがたっぷりウニ、いくらがのっている。これで二千円なら手頃だろう。

 店を出てすぐ吉田に有象は命令した。「必ず知床峠に入る前にガソリンを満タンにしろ」強い口調だった。これには理由がある。例の“妙蓮寺の坊ちゃん”が新婚旅行の時、知床峠に入る時にガソリンチェックを忘れた。車は八合目まできたところで、ガソリンがほぼ切れた。登頂を諦めた坊ちゃんは、ギアをニュートラルにして自然滑走でなんとか羅臼に戻り給油したという。「あんなところで立ち往生したら下手したら夏でも凍死するぜ」“妙蓮寺の坊ちゃん”は煙草片手に恐怖を有象に語った。

 そんなわけで有象は吉田に強く命令したのだ。

 知床峠の頂上からは羅臼岳などの知床連山が美しく見える。晴天の日は北方領土も見えるというが、晴天にかかわらず、何も見えなかった。プーチンの鉄のカーテンだろうか?

 知床は見る場所が豊富だった。知床連山に登るのは無理だが、遊覧フェリーで知床岬を満喫し、帰るとベンツの上にカモメたちが「落し物」をたっぷりしていて、吉田を落ち込ませた。「どこかで洗車すればいいよ。レンタカーなんだから落ち込むなよ」「はい」と言った吉田の目には光るものが。車愛ここに極めりである。

「今日は知床に止まって明日からは如何するんですか?」

 裕子さんが聞いて来た。

「明日、札幌に入ってもいいし、明後日でもいい。でも最終日は必ず札幌にいます!」

「すごい宣言ですわ」

「なんたって、札幌ベアーズ対横浜マリンズのチケットを“妙蓮寺の坊ちゃん”に手に入れてもらったんですからね。皆がいかなくても私は行きますよ」

 有象は興奮していた。

 知床第五ホテルは家族向けのホテルである。シングルの数は少ない。二部屋だけ確保できた。どう割り振るか? 有象は吉田とツインに泊まり、裕子さん姉妹をシングルに泊めた。

 さて、夜も更けて有象は今度こそ裕子さんの部屋にチャレンジするべく、一升瓶片手に廊下を歩いていた。すると、

「先生、また来てくれたの。嬉しい」

 後ろから中森明美が抱きついてくる。明美はこの階にはいないはずだが?

「さあ、また一杯、いえ、いっぱいやりましょう!」

 おかしいなと思いつつ、明美の勢いに押され部屋に入る。結局この日も飲んだくれ、酔った勢いで愛し合ってしまった。


 翌朝、さすがに二日徹夜は厳しい。酒も入っている。有象と明美は朝食をパスした。

「具合でも悪いんですか?」

 裕子さんが尋ねるので、

「酒の飲み過ぎです」

と半分正直に答えた。

 明美は若いから回復が早く、出発時には普通になっていた。若いっていいな。

「今日は知床五胡を見てカムイワッカの滝を見て、オシンコシンの滝を見ましょう」

 ガイド役の吉田が張り切っている。

 知床五胡はヒグマが出るので、全部見ることができる可能性は少ない。その分休めるなと有象は思ったが、今日に限ってクマが出ない。しっかり五湖見ることができた。素晴らしい景色だが、ものすごく疲労した。カムイワッカの滝は広い草原を随分歩いてやっと見られる。景色は本当に素晴らしい。だが二日酔いには地獄のようだ。オシンコシンの滝は駐車場から近くて助かった。清流の出すマイナスイオンに薄汚れた心と身体が洗われるようだ。そうだ、朝食を食べていない、有象は急激に腹が減った。


「なかなかいいところないわね」

 車中で裕子さんが言う。

「ああ、あそこになじみの店があるわよ」

 明美が指差した先には『ヒグマ屋3号店』があった。


「ねえ、お姉さん。ヒグマ屋って何店舗あるの?」

 吉田が店員さんに聞いた。

「ええ、三店舗です」

 全店制覇したのか。記念品でも出して欲しいと有象は思った。


 今度は網走を目指す。網走といえば番外地だが、刑務所は博物館に変わっている。それより大地に広がる農場が美しい。この景色は日本では北海道だけだ。あとは外国に行ってみるしかない。「でっかいどう、北海道」有象は懐かしいキャッチフレーズを叫んでいた。


 網走でもファミリータイプのホテルを予約してしまった。疲れた有象はツインを二部屋撮り、静かに眠ることにした。四十代で二晩徹夜は厳しすぎた。有象は泥のように眠った。


 翌朝、今日は快適に目覚めた有象、ビュッフェタイプの朝食をしこたま食べた。今日は長旅になるが札幌に向かう。時間に余裕があるのでもし無理だったら旭川に泊まって旭山動物園を見たっていい。だが次の日のうちには札幌に着きたい。充分に休息をとって、試合に臨みたい。交流戦は三試合だが“あの妙蓮寺のぼっちゃん”でさえ一試合のチケットしか取れなかったんだ。命を賭けて応援しなければ!

 結局、吉田の運転テクニックで旭川を飛ばし、その日に札幌に着いた。有象は『海へ』という海鮮居酒屋に皆を連れて行き、新鮮な魚介類をたらふく食べた。

 翌日は自由日にして、有象は寝て過ごし、裕子さん姉妹はスイーツめぐり、吉田は時計台を見に行って首をひねって帰ってきた。

「どうですか、今日も『海へ』に行きますか」

「賛成」

 吉田が手を挙げる。

「あたしはジンギスカンが食べたい」

 明美が反対する。

「あたしはどちらでもいいです」

「そうか。じゃあレディーファーストでジンギスカンと行きましょう」

「吉田さん、ごめんね」

 明美は謝った。

「いえいえ」

 吉田は笑ってごまかした。


 中島公園駅近くのキリンビール園本館でジンギスカンをたらふく食べた一行はホテル前で解散した。今日は全員シングルルームである。明日の野球観戦に備えて(ナイターなのに)早く寝ようと考えた有象はシャワーを浴びてベッドに横たわろうとした。すると、チャイムが鳴る。まずい、明美だな。今日は何があっても断ろうと、ドアを開けると裕子さんがいた。

「坊ちゃんの意地悪。ずっと待っていたのに」

 有象は野獣のような一夜を過ごした。

 翌日も自由行動とした。有象は疲れてベッドで横になって過ごした。

「姉も妹もなんて、私の倫理観は欠落している」

 有象はこの北海道旅行を激しく後悔していた。だが、悪いのは明美を呼んだ裕子さんである。明美さえいなければ、裕子さんとしっぽりできたのである。それがすっかり理性を失い野生に戻ってしまった。明美のことだ、ゼミ生に言いふらしたりするだろう。私は教え子とナニをする破廉恥教授の汚名を被るだろう。もしかしたら解雇されるかもしれない。本も売れなくなるだろう。週刊夏冬や週刊新調に知られたら大スキャンダルだ。ベッ●ーやショーン●の比ではない。世間からバッシングを受け、苦災寺あたりで謹慎だろう。なんでヤっちゃったかなあ、明美と。初日にルームナンバーを間違えたのが失敗の元だった。覆水盆に返らず。後悔先に立たず。こんなことわざばかりが思いつく。


 さあ、気分を入れ替えて横浜マリンズを応援しよう。有象は吉田の運転で札幌市豊平区にある札幌市営地下鉄東豊線福住駅の近くにある北海ドームにやってきた。チケットは二枚あるが、吉田は遠慮するという。もったいない。それに地元愛に欠ける。歩道を見よ。マリンズ戦だというのに、グレーの帽子をかぶった札幌ベアーズファンが大挙してドームに陣取っているではないか。有象は強引に吉田も観戦させると決めた。吉田はプロ野球を全く知らないど素人だ。たっぷり解説してやる。


 ドームに入るとマリンズが打撃練習を行っていた。これがビジターゲームの醍醐味だ。開門時間の関係でホームゲームだと見られない打撃練習が見られるのだ。

「やってるやってる」

 有象はウキウキしながらグランドを見つめる。バッターはトラファルガー。五番で三年連続ホームラン王に輝く、マリンズの宝だ。

「いいか吉田、このトラファルガーがホームランを打った時の勝率は八割だ」

「はあ」

 吉田が興味なさげに頷く。

「次は台場だ。ブシドウジャパンの四番バッターだ」

「じゃあなぜマリンズの四番じゃないんですか?」

「それは門脇がいるからだ。三番台場、四番門脇、五番トラファルガーで強力なクリーンナップができる。もっと言えば一番の元町から九番の富士まで強打のラインナップが組めるんだ。さすが風花監督」

「よくわかりません」

「吉田は野球をやったことないのか?」

「はい。将棋の奨励会にいたので」

「奨励会? どっかで聞いた話だな。それじゃあ、将棋一筋で野球なんか見ている暇はなかったな」

「はい」

「まあ、今日見てゆっくり覚えろよ。楽しいと思うぞ」

 有象は自分勝手に決めつけた。

「そうだビールを飲もう。吉田もやるな」

「喜んで」

「あーすみません。生二つ」

 有象は売り子さんに注文した。

「よし、乾杯」

「乾杯」

 グランドはベアーズの守備練習に変わった。すごい歓声が上がる。

「さすがホームだけあって人気がすごいですね」

 吉田が言った。

「そうなんだ。ナ・リーグは地元意識が強いんだ。地方にバラバラに別れているからな」

「マリンズのいる方は?」

「首都圏に三チーム固まっているのがいかん。西はばらけているからな。それに東京キングと大阪タワーズが全国区で、相手のホームでも地元チームより声援が大きい。地元意識のなさだな」

「へえ、昔は東京キングが勝っていればそれでよかったのに、今では多様化しないといけないんですね」

「わかってきたな吉田。お姉さん、生ビール二つ」

 調子に乗ってきた有象はまたビールを頼んだ。試合開始までに5杯頼んだ。吉田も付き合った。


 記憶があるのは三回までである。ベアーズの先発、大山が165キロの日本新記録をマークすれば、マリンズの先発、住友が88キロのカーブで打者を翻弄、投手戦だあと言った有象は疲れがたまって試合中寝てしまったのだ。もったいないもったいない。

『ドーワー』とドーム中に轟く歓声で有象は目を覚ました。スコアボードを見ると九回裏2アウト満塁。得点は2−1でマリンズが勝っている。しかし、バッターは四番大山。シュアなバッティングができる男だ。マリンズのマウンドにはクローザー日向。大山右打席に入る。日向、第一球内角ストレート。ストライク。第二球は外角に外れ、ボール。カウント1−1。

第三球フォークボールが決まって1−2。第四球フォークボールを続けるも、大山よく見て2−2。勝負の第五球。渾身の内角ストレート。ボールの判定。風花監督走って出てきた。球審海老原に盛んに何か言っている。このままなら退場だ。ここはヘッドコーチの宗谷に抱きかかえられてベンチに戻る。泣いても笑っても第六球、同じところにストレートだ。ストライク! 試合終了。マリンズ三連勝、風花監督復帰後初めて三位に浮上した。


「不覚だ。すっかり寝てしまった」

「でも、最後の好勝負見られて良かったじゃないですか」

「そうだな」

 こうして北海道最後の日は終わった。


 新千歳空港で有象と裕子さんはベンチに座って読書していた有象は『富士に立つ影・三』裕子さんは『匣の中の失落』の続きである。明美はJALで先に飛び立ってしまった。有象は、本を読みつつ、先のことが心配でならなかった。隣の裕子さんと明美の姉妹。前田・大島ペア。何が起こるかわからない。まずは夏合宿だ。うまく乗り越えられるのだろうか。不安いっぱいの有象だった。



 

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