ゆうもあ先生の暇つぶし

 ゆうもあ先生こと有象無蔵の開いた『ゆうもあ塾』は看板もなく、宣伝もせず、だいたい何をする塾なのかわからないので人が寄り付かず、入塾したのは母親が学習塾と勘違いした、小学一年生の斎藤孔明くんただ一人だった。ただ、この孔明くん、どこで覚えたかはわからないが古典から現代文学まで精通していて、有象に質問をぶつけてくる。その博学ぶりに恐れをなした有象は、助手の平田くんに孔明くんの指導を丸投げしてしまった。自分の意見がが孔明くんに論破されるのが嫌だったのである。孔明くんと平田くんは月・水・金と顔を合わせ、議論をしている。二人は反りが合うようだ。それにしても孔明くん、栴檀は双葉より芳しで天才ぶりを遺憾なく発揮している。末恐ろしい。それに真摯に答える平田くんも頼もしい。大学を辞めさせたことを有象は激しく後悔した。若い芽を摘んでしまったような気分だ。

 あれほど、『ゆうもあ塾』に入ると言っていた、有象ゼミの学生は学業が忙しいのか全然顔を出さない。それに有象を敬愛していると言った、樋口一応くんや草井君代、斎藤隆史、服部洋子も現れない。有象はすっかり暇になってしまった。

 暇を持て余しているとはいえ、有象はパチンコ、パチスロにハマったり、フィリピンパブに入り浸ったりする趣味はない。文学者の暇つぶしは文学でしかない。読書をするか、文章を書くかだ。有象は小説を書くことにした。どこにも発表する予定もないけれど。

「さて何を書こう。いつものユーモア小説ではつまらないな。ここは変化球でいこう。でもライトノベルは駄目だ。この前Web小説で書いて散々だった。読者四人だものなあ」

 以前、門松書店の猿田に頼まれて書いたWeb小説は悲惨な読者数で有象をびっくりさせた。悪い意味でである。

「ミステリーはどうだろう」

 最近では芥川賞作家が平気な顔してミステリーを書いている。無冠の有象がミステリーを書いたって誰も文句を言わないだろう。

「よし、ミステリーだ」

 と張り切った、有象だが急に頭を抱えた。

「トリックの作り方が分からない」

 悩む有象。

「でも何かの雑誌で『ミステリー初心者はとにかくどんでん返し、どんでん返しで読者を驚かせばいい』と書いてあった。それならできるかも」

 有象はどんでん返しを考えた。浮かばない。

「駄目だこりゃ」

 有象はミステリーを諦めた。

「じゃあ、何を書けばいいんだ」

 時代小説? 最近は書き下ろし文庫の時代小説が流行っている。けれど、有象は江戸時代の庶民の生活様式を知らないし、武家のそれとなると尚更わからない。ファンタジー? 上橋菜穂子先生に任しておけば良いし、下手すりゃライトノベルとかぶる。ぶるぶると頭を振る有象、悪夢がよみがえる。SF? 自動車も運転できないのにガンダムみたいのが描けるはずないし、宇宙人にも会ったこともないから書けない。恋愛小説? 女性作家の書くものだろ。残るものは私小説か。これでも四十何年間生きてきた。人生何もなかったわけじゃない。それらをぽつぽつ書くか。そうしよう。ドジばっかり踏んできた人生だ。少しはユーモアを交えて叙述してみるか。有象はパソコンに向かった。


『恋する頓珍漢』


 昔は桜といえば、入学式、入社式の頃に咲き誇り、人生の新たなステージ立つものに言葉通り花を添えたものだが、近年は地球温暖化で三月中に咲いてしまい、四月には無残な散り様を見せる。フレッシャーズの前途を予言しているようではないか。

 でも今年は違う。ロシアの方からくる寒気が桜の開花を遅らせ、今日の入学式を艶やかなものにしている。独立行政法人神奈川市立大学の教授室でコーヒーを飲んでいた、雨林雄三は窓から大講堂に入っていく新入生を眺めて、

「ああ、またしばらく電車が混むな」

と独り言をした。

 他人とあまり関わりたくない雨林は、少々うんざりした。入学式にも出席するつもりはない。それだったら読書をしていた方が良い。

「先生、入学式いかないんですか?」

 助手の川上が尋ねる。

「ああ、入学式の主役は学生だ。余計なものがしゃしゃり出て、大講堂の空気を悪くすることはない」

 雨林は答えた。


 翌日の通勤電車は案の定混み合っていた。これが五月、六月になるとスーッとすいていく。いつものことだ。電車からいなくなったものはどこへ消えてしまうのだろう。雨林は不思議に思った。その時だった「痴漢、痴漢です」と女性の声がして、その周りだけ空間ができた。あんなに超満員だったのになんで空間が開ける余裕があるのだろう。それはともかく、「痴漢」と叫んだ女性がデイバッグを背負った三十代ぐらいの眼鏡男を逆手に封じ込めている。眼鏡男は脂汗を垂らしてなすがままになっている。何人かの男性が眼鏡男を取り押さえ、女性と一緒に次の駅で降りた。雨林は面倒くさいので関わらなかった。ただ、女性の美しさに呆然としていた。


 雨林は大講堂で『吾輩は猫であると落語』という講義を行っていた。大講堂は超満員で立錐の余地もなかった。

 雨林は文学部一の人気教授だった。講義が面白いのと、単位がとりやすいのが原因だった。雨林は滅多に学生を不合格にしなかった。不合格とは挫折である。挫折をした人間は、自分を駄目な人間だと思ってしまう。そうすると、物事に投げやりになり、さらに挫折を繰り返してしまう。厳しさも必要だが、そこには愛と逃げ道を作ってやる必要がある。そういうことをするのは面倒くさいので、雨林は優しさだけを与える。それが学生にとって良いことなのか悪いことなのか雨林は考えない。ただ、淡々と人生を過ごすために、余計な揉め事を作りたくないのだ。そういう意味では雨林は良くない教育者かもしれない。


 講義が始まって二十分ほど経った時だった。締め切られていた大講堂の正面入り口が開き、まばゆい光が直線上に立つ雨林の顔を撫でた。一人の人間のシルエットが浮かぶ。その人はまっすぐ雨林の方に歩いてきた。そして、

「朝は助けてくれなかったのね」

と雨林に話しかけてきた。あの、痴漢にあった美人だった。

「ああ、君があまりに強かったから、助けはいらないと思ってね」

 雨林は答えた。

「あたしだって本当は怖かったわ。でも、これから先、あの男の被害を受ける女の子がいたらかわいそうだと思って、必死に腕を折ってやったの」

「骨折させたのか?」

「そうみたい。でも正当防衛だって、おまわりさんが言っていた」

「警察に行っていたのか」

「当然でしょ。だから講義に遅刻しました。情状酌量をお願いします」

「ああ、いいよ。そうだ、出席を取る。名前は?」

山吹季子やまぶき・としこ

 雨林は普段、取りもしない出席を取って美人の名前を知った。

「さあ、あいている席に着席しなさい。講義を続ける」

 雨林は内心のドキドキを隠して、冷静に言った。


 山吹季子は雨林の講義に必ず顔を出すようになった。一年の受講できない専門課程の講義にも姿を現した。そして、一番前の席の真ん中に座って雨林の顔を眺めている。ノートは取っていなかったから講義を聴いているわけではない。ただ雨林の顔を見ているだけだった。

 雨林もいつの頃からか、季子の顔を見て講義するようになった。季子はこの世のものとは思えないほど美しかった。講義の内容は暗記しているので問題はなかった。だがこの二人の行動は大学中の噂となり、教授会の問題となった。


「雨林くん、君は女子学生に見とれながら講義をしているのかね?」

「いいえ、たまたま私の顔のちょうどいい位置に彼女がいるだけです」

「まさかとは思うが雨林くん、君はその女子学生とふしだらな関係にあるのかね」

「いいえ、ありません。しかし、相手は十八を過ぎた一人前の女性。私は独身です。ふしだらな関係というのは相手が女子高生だったり、私が妻帯者だったりするときに言う言葉です。訂正をお願いします」 

「君たちは付き合っているのかね?」

「いいえ。でも私は付き合いたいと思っています」

 教授たちは雨林の堂々とした言葉に、声も出なかった。


 雨林と季子は正式に付き合うことになった。そして六月には籍を入れてしまった。雨林も季子も両親が他界していた。その寂しさが二人の結婚を急がせたのかもしれない。

「あたし、結婚しても大学はやめない。あたしには編集者になる夢があるの」

 ベッドの中で季子が言った。

「ああ、構わない。ウチにはお手伝いさんがいるから、家事をすることもない」

「いいえ、お手伝いさんはやめさせて。あたしが家事をする」

「おい、無茶言うなよ。それじゃあ体が持たない」

「大丈夫。空手で鍛えたこの体は頑丈だわ」


 雨林の自宅は大邸宅である。そこに雨林と季子は二人で過ごすことになった。季子は朝四時に起きて朝ご飯と昼の弁当、そして夕食の下ごしらえをした。六時になってご近所に迷惑がかからない時間になると掃除や洗濯をする。雨林邸は部屋が三十あるので、一日ですべてはできない。季子は六日で五部屋ずつ掃除した。洗濯は二人分だから楽だった。だから毎日やった。ものすごく洗濯物が少ない日はシーツやタオルケット、カーテンを洗った。

 雨林といえば、四時に一緒に起きるが、家事は一切しないで、執筆や読書など、自分のやりたいことをやっていた。


 季子には厳しい家事と勉学の両立だったが、彼女は頑張り、三年次には学年首位の成績を取った。負けず嫌いなのである。

 激しい愛で結ばれていた雨林と季子の間に亀裂が生じたのは、就職活動のせいだった。季子のスケジュールが変則的になり、食事や弁当が作れなかったり、洗濯が滞ってしまったりした。しかし、お坊ちゃん育ちの雨林は家事が一切出来なかった。そして、溜まりゆく洗濯物や床の埃に苦言を呈した。その時、季子の中でくすぶっていた、何かが破裂した。季子は雨林を空手でボコボコにし、離婚届に判子をついて家を飛び出した。雨林は全身打撲で入院した。医師には「知らない大男に因縁をつけられボコボコにされた」と話した。警察が動いたが、もちろん、犯人は捕まらなかった。


 雨林はこれを機に結婚恐怖症になり、独身を続けている。でも、女遊びはちょこちょこしているらしい。季子は門松書店に就職し、希望通り編集者となり、バリバリ働いている。


 二人の結婚生活は、破綻したが、友人としての付き合いは続いている。だが二人とも、結婚生活の話はしない。暗黙の了解がある。門松書店の社員は季子が結婚していたことを知らないものが多い。

「あんなに美人なのにもったいない」

 とよく話題になる。

 それを聞くたび、季子は、

「仕事が恋人。仕事が亭主」

と言って恋愛話を煙に巻く。


 二人とも結婚生活はなかったことにしている。


「よし、完成。どこかの雑誌に載せてもらおう。まさか、門松書店には持ってけないよな。また中央私論新社に持って行こうかな?」

 有象は電話帳を取り出した。

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