ゆうもあ先生の講義 ④
また二人だけだった。三年生の前田優子と大島敦子。しかし、有象に不満はなかった。二人とも、積極的にゼミに参加している。教授として指導する側にもやる気が湧いてくる。有象が普段、やる気がなくて、おちゃらけな講義をし、就業規則ギリギリまで休講をするのは、講義の主役たる、学生に失望してのことである。その学生が、熱心にゼミに参加するなら大歓迎である。その上、二人とも美人なんだから気分上々である。
「また今日も、喫茶店でやりましょう」
有象は笑顔で二人に言った。
「はい」うん、いいお返事である。
喫茶店はいつもの『喫茶こばやし』美味いコーヒーが飲める。少々高いが。
「いらっしゃいませ」
店主の声ではない、若い女性の声がした。顔を見るとなかなか可愛い。
「店主は?」
有象が聞くと、
「ちょっと小用に、でもすぐ帰りますから。いつもご愛顧いただいている有象先生ですよね。私、店主の妻の悦子と申します。いつもありがとうございます」
あの店主にこんな若い女房がいたのか。羨ましいぞ。いや、羨ましくない。
「私の名前、よくご存知でしたね」
有象が尋ねると、
「この店の経理は私がやっているんです。領収書を書くのは『有象ゼミ』くらいですから」
と悦子は答えた。
有象はゼミのときには、二人にコーヒーをおごっているわけではない。きちんと領収書をもらって、費用として計上していたのだ。毎回、三千円なんて自腹を切るわけない。
そんなところに店主が帰ってきた。
「有象先生、お待たせして申し訳ない」
「いいんですよ。我々は勉強のためにここをお借りしているんですから」
「ここは勉学にはいいでしょう。客がいないから静かにできる」
「ご冗談を。ところで店主は何の小用だったんですか?」
「探偵ですよ、探偵。人手不足で駆り出されました」
「引退したのではなかったので?」
「所長はやめましたが、私がオーナーなんです。だから事務所のピンチには助太刀に行かなくてはならない」
「面白いですね。差し支えない範囲で、話をお聞かせいただけませんか?」
「いいですよ。小説の参考にでもしてください。コーヒーを入れながら話しますから、どうぞカウンターへ。学生さんもどうぞ」
前田優子と大島敦子もカウンターに来た。興味深々である。
「最近、世間では怪人千手観音という新手の怪盗があらわれたんです」
「以前は怪人トエンティ・フェースなんてのがいましたね。どこに消えたんでしょう?」
有象が言う。
「ゲホゲホ」
「店主、大丈夫ですか?」
「はい。話を千手観音に戻しましょう。やつは神社仏閣の神像、仏像専門の怪盗です。これまで東京、神奈川で三十件の窃盗をしています。ご存知かどうか知りませんが東京の警視庁と神奈川県警は伝統的に仲が悪い。形ばかりは合同捜査本部を立ち上げましたが、情報の隠しあい。まともな協力はできません」
「それは面白い。今度、小説に使ってみよう」
「で、今日。ある寺に、挑戦状が届いたんですよ」
「どこですか?」
「鶴見区の苦災寺です」
「あれ? “妙蓮寺の坊ちゃん”家の菩提寺だ」
「まあ、珍しい。苦災寺を知っているとは」
悦子が感心する。
「坊ちゃんの父君の葬儀に出席しましたから。子供の頃ですけど」
すると店主が尋ねる。
「その“妙蓮寺の坊ちゃん”とはどなたですか?」
「妙蓮寺一帯の大地主、“妙蓮寺のご母堂”の長男です」
「元『鯨組』の?」
「そうです。よくご存知でしたね」
「その辺は、探偵の調査網で」
「ところで千手観音は何を盗みに来たんです?」
「苦災寺のご本尊は黄金の不動明王なんです。それを盗むと言ってきました」
「ほう」
「それはどれくらいの重量なんですか?」
前田優子が聞く。熱心な子だ。
「五百キロ以上ある」
「じゃあ、簡単に持ち上げるのは無理ですね」
「そう、分解して細かくしてから運ばねばならない」
「分解できるのですか?」
「できるよ」
「じゃあ、持ち運びも可能ですね」
「ふふふ」
「店主、なぜ笑うんですか?」
有象は尋ねた。
「実はね。数年前に、同じように黄金の不動明王を盗もうとしたやつがいるんですよ」
「誰ですか?」
「怪人トエンティ・フェース」
「ああ」
「私はね、その守備を任されて、その時、彫金職人に頼んで不動明王のレプリカを作ったんですよ。それが今も残ってましてね。発信器付きで本物とすり替えたんです」
「そりゃあ、すごい。千手観音はすぐ逮捕だ」
「ところが千手観音、多摩川に逃げましてね。あそこは警視庁と神奈川県警の境界線だ。千手観音のやつ、警察の隙をかい潜って、逃走しました。残念です」
「うーん。そうですな。しかし、たいへん面白い話を伺いました。我々の研究にも役に立ちます」
「そう言っていただけたら溜飲も下がります。そうだ、今日はコーヒーをご馳走しましょう」
「本当ですか? ありがとうございます。ところで、お二人さん。課題の進捗具合はいかがかな?」
「私、一からやり直しです」
前田優子が言った。
「どうしました?」
「将棋の奨励会に取材を申し込んだんです。そしたら、子供のお遊びには付き合えない。棋士たちには命がかかっているんだと怒られました」
「まあ、気を落とさずに、新しい題材を探すんですな。大島くんは?」
「隣のお姉さんと友達になりました」
「それを題材に笑いの文学が書けますか?」
「お姉さん、小さい頃から不幸続きで、心から笑ったことがないって……」
「そりゃあ、悲劇しか書けないね。二人とも、まだ今期は始まったばかりだ。焦らず次の題材を探しましょう」
「はい」
「さあ、コーヒーが入りましたよ。冷めないうちにどうぞ」
店主が言う。
「いただきます」美味い。今日はタダだからよけい美味い。それにしても、前田優子は研究熱心だ。有象のゼミでは珍しい人材である。一方、大島敦子はどうも天然ボケの気配を感じる。自分の小説のファンだということをプラスしても、前田優子の方が優秀だなと有象は冷静に分析した。
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