第23話潔癖男子の過去②

食卓でしか顔を合わさないような父さんは、俺がただの綺麗好きだと感心していたくらいに鈍感だった。


「湊多は綺麗好きだなあ。何でも拭いてから使うなんて」


 そう言って、気楽そうに笑っていたものだ。


 そんな家族だったから、俺の異常に気付いたのは、学校の先生の方が先だった。俺が授業中に飛び出して泣きながら手を洗っていたと、担任が報告し、そこで初めて両親は俺を注意して見るようになった。


 その目は、最初は「うちの子に限ってまさか」という半信半疑のものだった。が、日を追うごとに、腫れ物を見るような目に変わっていった。


「――――湊多? そんなに手が赤くなるまで洗わなくていいんだぞ?」


 洗面所にこもり手を洗い続ける俺に向かって、父さんは引きつった笑みを浮かべて言った。


 それでもかじりついたように洗面台から離れない俺を、父さんは異様だと思ったのだろう。俺によって磨き上げられた鏡越しに、奇怪な物を見るような目の父さんと視線が合った。


 それから、父さんと母さんがケンカすることが増えた。もちろん、原因は俺だった。


「貴方からガツンと叱ってよ! 私、今日も湊多のことで学校から呼び出されたのよ! 集団生活が出来てないって!」


「俺はちゃんと注意してるだろう。そもそも、お前が職場で『清潔にしろ』ってうるさかったからこうなったんじゃないか!?」


「何よ、湊多がああなったのは私のせいだって言いたいの!?」


「……っそういう可能性もあるって話だよ!」


 夜毎リビングで繰り広げられる両親の会話は、亀裂が入っていく音に似ている気がした。


 姉さんはどうしていたかというと、俺が小学生の頃、姉さんは友だちや彼氏の家を遊び歩いていたので、家庭内に響く不協和音にはまだ気付いていなかった。


 だから姉さんが気付いたのは、皮肉にも、家族に限界が来た時だった。




 俺が中学二年の時だ。その日は心地よい陽光がリビングに差しこんでいて、涼風に煽られ白いカーテンが踊っていた。そんな爽やかな朝に、母さんは悲鳴を上げた。


「――――……もう嫌!!」


 食卓に載っていた朝食が、癇癪を起こした母さんによってひっくり返される。塵一つないフローリングに、スクランブルエッグがびちゃりと叩きつけられた。ひっくり返ったスムージーがテーブルを伝い姉さんの膝を濡らしていたが、姉さんは愕然としたまま身じろぎひとつしなかった。


 姉さんにとっては、青天の霹靂だったのだろう。


 俺は箸を除菌シートで拭いた格好のまま呆然とし、喚く母さんを見上げていた。父さんは立ち上がり、暴れる母さんの腕を掴んだ。


「おい、母さんやめろ」


「貴方からも何か言ってよ! 湊多、どうしてあんたはそうなの。いちいち細かくて……っあんたといると、息が詰まるのよ!」


 ヒステリックに叫んだ母さんは、気が触れたように髪を掻きむしる。


「もう気がおかしくなりそう、苛々する……っ。何でなのよ!」


 テーブルに点々と、母さんの涙が飛び散る。俺にはそれがスローモーションのように見えた。


 喉が切れそうなくらいに叫び続ける母さんの背を、父さんは宥めるようにさすり、客間の方へと連れて行った。


 ダイニングに取り残された俺は、ややあってから立ちあがり、スラックスのポケットに入れていた軍手をはめる。そしてそのまま、散乱したテーブル周りを片付けはじめた。


「湊多……?」


 姉さんは語尾を震わせながら俺の名を呼んだ。魂が抜けたように放心した姉さんは、大きな黒目を震わせて言った。


「ねえ……うちって、こんなにボロボロだったの……?」


 俺は返事をしなかった。いや、出来なかった。


 喉にゴルフボールでも詰まってしまったかのように声が出なかった。胸がギシギシと痛む。


 母さんを追いつめて泣かせたのは俺だ。父さんたちがケンカをするのも俺のせいで、姉さんを絶望させてしまったのも俺のせいだ。


 それでも、俺は泣きたいと思ってしまった。誰かに、この場から助けてほしいと思ってしまった。こんな俺を、許して、受け止めて、愛してくれる誰かがいたなら、こんなに胸の奥が悲鳴を上げたりしないのにって……身勝手にもそう思った。


 その夜、俺は父さんの書斎に呼ばれた。


 黒いチェアへ深く沈みこむように掛けた父さんは、疲れた顔をしていて、頬がやつれたように見えた。部屋の照明が、父さんの頬に深い影を作っている。


 父さんは俺の顔を見ずに、額を押さえながら言った。


「湊多……家賃は出してやるから、高校に上がったら、一人暮らしをしたらどうだ? あんまり言いたくはないが……母さんはほら、ちょっと今、情緒不安定になっていて、湊多も居心地が悪いだろう?」


「……」


「お前くらいの年頃なら、一人暮らしに憧れるもんだろう。な、出て行かないか。家を。お前も一人の方が、人の汚れを気にせず気楽に生活出来るはずだぞ」


 俺が家を出ることに、姉さんは反対した。今まで家族に無関心だったことをひどく後悔したのか何なのか、夜遊びをきっぱり止めた姉さんは、家族の亀裂を修復しようと必死だった。


 でも、俺は卒業と同時に出ていくことにした。……お互いの精神衛生上、これが最善の方法だと思ったんだ。




「……幼い頃の強迫観念に囚われたまま、ズルズルズルズルここまで身体だけが成長して……思い返すと、本当にくだらないな。おかしいだろう?」


 話し終えた俺は、無理に笑って見せた。胸の底にゆっくりと碇が落ちていくような感覚を、瞼を固く閉じることで追いだす。


 ホームセンターの駐車場まで辿りつくと、紫倉さんは俯いていた顔を上げた。


「おかしくない、です……」


 紫倉さんは風に消えそうな声で言った。顔を上げた紫倉さんは、驚いたことに静かに涙を流していた。


「だって、幼い頃のシナガセさんが辛い思いを抱えて、克服することが出来ずにここまで大きくなって、今も苦しんでいるなら、おかしくないです。……それはツライコト、です」


「……何で……」


 どうして君は、俺が欲しい言葉をくれるんだろう。俺の胸の痛みに、敏感なんだろう。どうして……紫倉さんが泣いてるんだ? 自分が志摩たちに苛められている時だって、涙を浮かべはしたものの、流しはなかったのに……どうして俺のために、泣いてくれるんだ……?


 その涙は、母さんの涙とは違う。俺のことを思って流してくれた涙だ。


「…………っ」


 思わず手を伸ばしかけて、やめる。意気地のない拳を、戒めるように固く握った。


 一瞬、紫倉さんのその、優しい涙に触れたい……彼女の涙を拭いたいと思った。


「……ほんとに優しいな。紫倉さんは」


「……?」


 首を傾げる紫倉さんの頬をまた一つ、涙が伝っていく。普段の紫倉さんは可愛らしいが、泣き顔は息をのむほど綺麗なのだと、初めて知った。

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