第4話潔癖男子の憂鬱

「ミミズで失神するなんて、潔癖症を克服出来たわけじゃなかったんだねー」


 目覚めて真っ先に、女たらしの哀れみに満ちた顔が飛びこんできたら、迷わず除菌スプレーを五回ふりかけても許されると思う。


「まあ、そーちゃんが気絶したお陰で騒ぎが広まって、先生が登場したから廊下の件は収まったけどね」


「羽柴……」


 見慣れない白い天井を眺めながら、俺は最悪の予想を脳内で組み立て、おもむろに口を開いた。


「んー?」


「此処は何処だ。もしかしなくても俺が今寝ているのは、先に誰かが寝ていて汗をかいていたかもしれない保健室のベッドか。俺が現在進行形で頭を預けているのは、ふけまみれの生徒が頭の下に敷いていたかもしれない枕か。そもそも俺は手を洗っていない先生か男子生徒の手によって運ばれたのか。除染されたくなければ今すぐ答えろ」


「……そーちゃん、よくもまあお経を読みあげるみたいな抑揚で、マシンガンみたいに話しきったね」


「いいから三秒以内に答えろ! 吐くぞ!」


「どんな脅し!?」


 ベッド脇の丸椅子に腰かけていた羽柴は、盛大に突っこんだ。


 しかし青ざめた俺の顔を見て、今の脅しが冗談ではないと気付いたようだ。

 ベッドシーツと枕は日光消毒したばかりのもので、運ばれてきたのが俺だと知った養護教諭によって念入りに除菌スプレーもかけられていることを、羽柴は早口に語った。


 ついでに俺を保健室まで運んでくれた教諭には、叱られると分かりながらも、俺を抱える前に新品の軍手をはめてもらうよう頼んでくれたらしい。


 その説明を聞いてやっと、喉元までせり上がっていた吐き気が幾分かましになった。全身にまとわりつく不快感も軽減される。


 俺の顔色が戻ったのを見計らって、羽柴は恨めしそうに言った。


「……そーちゃんを運んでくれた先生は怒ってすぐ出ていっちゃったし、保健の先生も用事だとか言い訳つけて席を外しちゃったんだぜー」


「…………」


「オレのいたたまれなさと言ったら!」


「…………」


「昼飯も食いっぱぐれたし」


「…………悪かった」


 ばつが悪くなった俺は、寝返りを打って羽柴に背を向け、蚊の鳴くような声で謝った。


「迷惑をかけた自覚はある。お前にも、先生方にもな」


 ついでに自分が普通じゃないっていう自覚もある、と、俺は胸の内でつけ足した。


 たなびくカーテンの隙間から陽光が差しこんで、窓際のベッドに横たわる俺の顔を照らす。だというのに、何故か俺の視界は黒く淀んでいくように感じた。


 しかし通夜のような空気を背負う俺へ、羽柴は退屈そうに


「潔癖男子の湊多くーん。オレを置いて勝手に感傷に浸ってるとこ悪いけどさー」


 と切りだした。


「……その呼び方はやめろ羽柴。そんなに殺菌されたいのか」


 起きあがった俺は、ポケットの中からアルコール綿の詰まった手のひらサイズのタッパを取りだし、羽柴の眼前にちらつかせた。


 そして空気を読め羽柴。俺は今、アンニュイな空気を漂わせていただろう。容赦なくぶった切るな。


 しかし羽柴は「えー?」と悪びれる様子もなく言う。


「だってそーちゃんの……性癖? を知ってる人はさ、皆そう呼んでるじゃん」


「……他人が勝手に陰で呼んでいるだけだろう。不愉快この上ない」


 非常に遺憾なことに、俺が、汚れを気にして電車のつり革を掴むことが出来ない、公衆トイレなどの便座に座れない、何度手を洗っても不潔な気がして気が済まないという不潔恐怖症……いわゆる潔癖症だと知る校内の生徒は、口をそろえて「潔癖男子」と揶揄するのだ。実にくだらん。


 鼻息も荒く憤慨する俺とは対照的に、羽柴は気楽そうに笑った。


「気にしてるなら悪かったよ。まあ、それはさておいてさっきの話の続きだけど」


「さておくな」


「何度も話の腰を折らないでよ。で、そーちゃんはそもそも土も虫も駄目なくせに、どうしてあんなことしたわけ」


 羽柴の言う「あんなこと」とは十中八九、俺が土にまみれた美少女へ近寄り、ハンカチを差しだしたことだろう。


「こんな風にぶっ倒れること、普段なら予想出来たでしょ?」


「……それは……」


 意識的に避けていた話題を振られた俺は、言葉を詰まらせた。腕を組み、昼休みの廊下の一件を思い返してみる。


惚れた相手を見つけてハイになっていたというか……喉の渇きを覚えるような衝動に駆られて、気付いたら潔癖症であることを忘れて彼女にハンカチを差しだしていた。


 ……まあ彼女に直接手を貸さなかった点や、ミミズを見て我に返り、急に血の気が引いて倒れた点をふまえると、無意識な部分で汚れることを恐れていたように思うが。


 そう説明し終えると、羽柴は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。


「……え? じゃあ、そーちゃんが昼休みに言ってた、一目惚れした片思いの相手って……」


「ああ、さっき廊下に土をぶちまけていた彼女だ」


「え、えーっ。うっそ、何で!?」


 椅子をひっくり返す勢いで立ちあがった羽柴は、困惑顔で俺につめよった。


「そーちゃん、潔癖症なのに、よりによって『ドロ子』に惚れたの!? ありえるの? それ」


 頭に疑問符を浮かべた羽柴は、ほこりが飛ぶというのにベッドシーツをバンバン叩いて騒ぐ。


 やめろ、汚い。


 たまりかねた俺が除菌スプレーを羽柴の眉間すれすれに突きつけると、奴は不服そうに椅子へ座り直した。


「……志摩も彼女を『ドロ子』と呼んでいたが、『ドロ子』とは何なんだ」


 廊下での一件を思い出した俺がしかめ面で問うと、羽柴は「あだ名だよ」と答えた。


「本名は紫倉砂子しくらすなこちゃん。俺らと同じ二年生で、二組の子だよ。園芸委員で唯一真面目に活動してる子なんだけど、さっき見たとおりいつも泥だらけでさー。女の子たちによく『砂子じゃなくて、泥子だー』って、からかわれてるんだよね。だからドロ子」


「紫倉、砂子……」


 惚れた相手の名前を唇に載せると、胸の辺りに甘い疼きを覚えた。


 が、自分も普段から『潔癖男子』と叩かれ嫌な思いをしているせいもあって、『ドロ子』という悪意のこもったあだ名に対する怒りの方が強く感じられ、俺は元々冷たい表情をさらに厳しくした。


 よりによって人の名前をいじってからかうなんて、悪意しか感じられないな。


「紫倉さんが『ドロ子』なんて呼ばれてる理由は、密かに男子から人気があるせいで、女子にひがまれてるってのもあると思うよ」


 俺の眉を読んだ羽柴が、すかさず付け足した。


「ああ……なるほど。あの容姿だし、彼女はやはりモテるのか……。ん?」


 小さな疑問が胸をかすめて、俺は首を傾げた。


「なのに何故、他の男どもは紫倉さんへ手を貸さなかったんだ」


「そりゃあ他の男子も、いくら可愛くても、泥だらけの子には近寄りたくないでしょー」


 羽柴はさも当然と言わんばかりだ。


「だから潔癖症のそーちゃんが、紫倉さんにハンカチ差しだした時は本当に感動したんだよ。あー……そう考えると、そーちゃん、本当に紫倉さんに惚れてるってことかなぁ……」


 羽柴は尖った顎に手を当て、最後はひとり言のように


「でも潔癖男子とドロ女って……前途多難な恋路になりそうだよねぇ」


 と囁いた。


 俺はふてくされて視線を窓の外へやった。窓枠に嵌めこまれた景色の中では体育の授業が繰り広げられ、走り幅跳びで砂だらけになって笑う男子生徒たちの姿があった。


「……紫倉さんのことは、もういい。諦める」


「え、諦めんの? 早くない?」


 羽柴は意外そうに目を丸くした。


「極度の潔癖症なのにハンカチ貸すくらい、紫倉さんのこと気になってんでしょ?」


「それは……そうだが……」


 図星を突かれて、俺は歯切れ悪く言った。


 正直な話、昨日の情景を雨の匂いまで漂ってきそうなほど鮮明に思い出せるくらいには、紫倉さんのことが気になっている。


 けれど……。


 初恋に舞い上がって周りが見えなくなっていたが、倒れて冷静になった今なら、分かる。


 俺は潔癖症なんだ。


 無菌室にいるような人間にしか素手で触れられない俺に、普通の人間と同じ恋愛は出来ない。出来たとしても、手を繋ぎもしないなど、プラトニックにもほどがある。


「……羽柴。お前だって、俺に恋愛は厳しいと言ってただろうが」


 俺は八つ当たりまじりに言い捨てた。


「えー、でも、応援しないとは言ってないじゃん。それに……」


 羽柴の瞳が悪戯っぽくきらめいた。


「よくよく考えたら、そーちゃんが恋愛なんて希少なこと、この先ないだろうから、ちょっと興味あるし。本気で紫倉さんに惚れてるなら協力するよ?」


「興味は余計だ。……だが……」


 諦めたくはないが、俺が彼女に惚れていたってもう……。


「協力なんて無駄だ。どうせもう幻滅された」


「え、どうして」


 捨て鉢に言った俺へ、羽柴は間髪いれずに問う。俺は薄い唇に、自嘲の笑みを刻んでみせた。


 いきなり無愛想にハンカチを差しだしてきて、挙げ句目の前で白目をむいた男を、紫倉さんが気味悪がらないと思うのか? 軍手をはめた教諭に運ばれている俺を見て、彼女が異様に感じなかったと? 


 ――――そして何より


「幼稚園から腐れ縁のお前なら分かっているだろう。極度の潔癖症を抱える俺は、常人とは違う。厄介者の俺は他人に嫌悪される。だから俺の周りに人は寄らない。…………実の両親すらな」


 言い添えた最後の一言に、普段は顔全体で喜怒哀楽を表現する羽柴のおしゃべりな表情が、一瞬凍りついた。


「湊多、おじさんたちは……」


 羽柴が真面目くさった顔で言いあぐんでいると、五時間目だろうか、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、奴は喉に小骨が刺さっているような渋面で黙った。完全に発言のタイミングを見失ったようだ。


 空気を重たくした自覚のある俺は調子を戻そうと


「ちなみに羽柴、お前は俺の周りをうろついているが、生殖のことしか頭にない変態だから例外だ」


 と、いつも通りの辛口で発言を締めた。


「え、ひどっ」


 その返しを機に、羽柴はやっと顔のこわばりを解いて席を立った。奴はそのまま、ベッドを仕切っていたカーテンを開けて出口へ向かう。


 チャイムで途切れた言葉の続きを言う気はないらしい。


 ということは、話は終わりなのだろう。俺もいい加減保健室を後にすべく、ベッドの下に揃えられた上靴へ足を通す。


 しかし右の踵が上履きに収まったところで、羽柴から「けどさ」と声がかかった。


「紫倉さんが湊多を幻滅するかはさておいて……お前が紫倉さんに幻滅するのは、早いかもしれないぜ?」


「……どういう意味だ?」


 ドアに手をかけた羽柴は、その場で立ちつくす俺へ意味深な笑みを向けた。


「紫倉さんの人柄を見くびっちゃ、損かもよって話」


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