第3話潔癖男子の失念
俺の小さな呟きは、周囲の喧騒にかき消されて誰の耳にも拾われなかった。
土まみれの彼女と昨日の彼女が同一人物ならば、傍観者に徹してはいられない。また泥だらけなんだな、という突っ込みは頭の隅に放り投げ、俺はラテックスに守られた手で、羽柴を押しのけた。
「え? ちょっと、そーちゃん? どうしたの?」
泡を食う羽柴を振りきって、俺は憑かれたように教室を出る。
「おいおい、そーちゃん何する気!? 戻れって。そっちは、そーちゃんの苦手な土が……」
背後から、羽柴の止める声が追いかけてくる。が、アドレナリンでも出ているのか、俺は何故だかはやる気持ちを押さえられなかった。足がどんどん前へ出る。
ギャラリーは俺の存在に気付くと「おい、あの色加瀬だぞ」と言いながら道をあけた。
……俺はモーセか。
周りの観衆は新たな役者の登場に湧きたち、さらにそれが俺だと分かると、どよめきを大きくさせる。俺があっという間に彼女の前へ辿りつくと、羽柴が窓越しに短く呻いた。
……ドロ子と呼ばれる彼女の前に立つということは、必然的に志摩たちに背を向けるということだ。
だから当然、
「何なのあんた。つか誰。今あたしらがドロ子と話してんだけど!」
突如現れた俺へ、志摩は声を荒げた。
俺が吊りあがった目で睨みつけると、志摩は一瞬ひるんだ。しかし、連れの女たちが見ているため引けないようで、黒々としたアイライナーで囲まれた目で俺を睨み返してきた。
蝶というよりは蛾の集団に向かって、俺は低い声で言う。
「ここを通りたいなら、土の零れていない端を歩いていけばいいだろう」
「はあっ!? 何であたしらが端通んなきゃいけないわけ!? いいから、部外者は引っこんでてよ!」
気炎を上げた志摩の発言に、腰巾着の女どもが「そーよそーよ」と声をそろえる。
それに気をよくした志摩が俺を押しのけるべく手を伸ばしたところで、羽柴から「ちょっと君!」と鋭い牽制が飛んだ。
「除菌スプレーぶっかけられたくなかったら、そーちゃんには触っちゃ駄目だぜ!」
「は……? い、意味分かんないんだけど。ねえ?」
志摩は痛んだ髪を掻きながら、背後の友人四人を振りかえり同意を求めた。
しかし色男から注意を喚起されたことに、嫌な気はしなかったらしい。少しだけまとう雰囲気が丸くなった。
「あ、あの……?」
『ドロ子』こと美少女が、俺に向かって遠慮がちに声をかけた。
俺が見下ろすと、例の美少女はくっきりとした二重まぶたの瞳を不安げに揺らし、小さな唇を震わせた。昨日は鼻筋の通った横顔しか見えなかったため分からなかったが、真正面から見ると案外あどけない。
だが……どうして彼女が顔を上げるまで、昨日のあの子だと気付かなかったのか。
よくよく見ると、彼女が動くたびに揺れる滑らかな髪は、腰まである長さといい、絹のような艶といい、やはり昨日の彼女と同じだというのに。己の鈍さに舌打ちをしたいくらいだ。
「あ、あのっ。ごメーワクをおかけして、すみませんっ。す、すぐ片付けますので……っ」
あまりにも不躾な視線を送りすぎてしまっただろうか。それとも、俺が威圧的に感じられたのだろうか。
美少女は、俺に文句を言われると勘違いしたらしい。彼女は涙声で訴えると、白磁のような手で土をかき集めだした。
桜貝を思わせる爪にみるみる土が詰まっていくのを見て、志摩たちが「汚ーい」とそしり笑う。
……志摩たちは、少しは黙れないのか。というか、違う、俺の予定では、こんなはずではない。
美少女の瞳に浮かんでいた涙が今にも決壊しそうなくらい盛り上がったところで、俺は出来る限り急いでスラックスのポケットからハンカチを取り出した。
一緒に出てきた除菌シートはポケットにねじこんで戻し、彼女と同じ目線になるよう、足元の土を避けて屈みこむ。
ぶっきらぼうな俺なりに、骨ばった手で精一杯ハンカチを差しだす――というか、突きだすような形になったが、とにかく彼女の眼前へかざした。
「ふえ……?」
まさかハンカチを差しだされるとは思っていなかったのか、彼女は間抜けな声をだした。
しかし彼女以上に大きなリアクションをとったのは、ギャラリーの方だった。『俺』という人間をよく知る観衆の動揺は、波のように広がる。
羽柴なんかは呆けた顔で
「そーちゃんが……あのそーちゃんが女の子にハンカチを……」
と呟いた後に、何故か息子の旅立ちを見送る母のごとく、口元を押さえ涙ぐんだ。
「そーちゃん……もしかして例のアレ、克服したの……!?」
おい羽柴。何だその、成長した息子の勇姿に感極まる母のような顔は。なぜ声を詰まらせている。殺菌されたいのか。
「これを使うといい」
周囲の目と、突きだしたままやり場のない手に居心地が悪くなった俺は、美少女へ向かって素っ気なく言った。
「……そのままでは手が汚れるばかりだろう。このハンカチを使って土を払うといい。……顔にも土がついている」
驚いて涙が引っこんだらしい彼女は、今度は羞恥に頬を赤らめてあたふたし始めた。
顔についた土を払おうと、土にまみれた手で頬に触るため、余計に泥を塗りたくる羽目になっている。
「えっえっ? す、すみませんっ。やだ、何処についてるんだろう……」
「――――っいいから、これで拭け!」
「わ……っは、はいっ!」
やきもきして俺が一喝すると、彼女は小動物のように飛びあがり、首を縦に振った。それから恐る恐る俺の差しだしたハンカチを見下ろし、もう一回俺を見て、ふわりと顔をほころばせた。
「うっわ……」
そう漏らしたのは、女たらしの羽柴か、それとも彼女の笑顔にやられ周囲で頬を染めている他の男子か。不覚にも、俺も心中で同じように「ほう……」と息を漏らした。
背後で志摩たちが「バッカみたい」と悪態をつくのも気にならないほど、その表情は破壊力があったからだ。
何なんだ、彼女のその、帰宅した主人に尻尾を振る愛犬のような、もしくは、クリスマスが突然やってきた子供のような笑顔は。
俺は彼女の微笑みに、全幅の信頼を置かれた時に似た優越感を覚えた。
だからだろうか。
「ありがとうございます……っ」
破顔してハンカチを受けとる彼女を前に、俺はまた失念していたんだ。
「あら……?」
土で汚れた彼女のカッターシャツの袖口から、ニョロ、なんて小憎たらしい擬音を立てて
「あら、ミミズさん……」
そう、土に潜んでいた小汚いミミズなんかが出てきて
「あらあら……?」
のろのろと俺の手元へ向かってくるもんだから
「あ、あれっ? あの、大丈夫ですか!?」
彼女がそう声をかけてくれたにもかかわらず
「ひいいいいいっ」
俺はキャラに似合わない上ずった悲鳴を上げてしまって
「だめだ、そーちゃん白目むいてる……」
しゃしゃり出てきた羽柴と、一目惚れした彼女の前で気絶してしまうまでは
……自分が潔癖症であることを、すっかり失念していた。
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