第2話潔癖男子の初恋
「つまり、俺は恋をした」
雨の放課後から一夜明けた昼休み。
移動教室から戻ってきた俺は、ポケットに常備しているアルコール綿で机の上を拭きながら昨日の出来事を語り、導きだした結論を簡潔に述べた。
「生まれて十七年、恋というものをしたことはないが――――胸が締めつけられるようなこの感覚は恋だと思う」
「そう……。それはいいんだけどね、そーちゃん……」
次に手術用のラテックス手袋をはめた手で机に教科書をしまい始めると、押し殺したような声が返ってきた。
「移動教室でオレがそーちゃんの席に座るたび、アルコール綿で消毒するのやめてくんない!? 地味に傷つくんだけどっ!」
……
この男、烏の濡れ羽色をした俺の髪とは違い、ミルクティーブラウンだかシフォンベージュだか……とにかく面倒くさい名前の髪を肩口まで伸ばしている挙げ句ハーフアップにしていて、おまけにベージュのカーディガンの袖口で指先を隠しているという、実にだらしない奴だ。
もうすぐ六月だぞ、俺のように襟足にかからない髪型とカッターシャツで十分だろうが。
「アル綿で拭くのは仕方ないだろう」
俺は死刑宣告のように重々しく呟いた。
「雑菌がついていたら困るからな。特に羽柴、お前は身なりだけでなく下半身までだらしないから、卑猥な菌でも移ったらどうしてくれる。というわけで俺に半径二十メートル近寄るな」
俺は冷酷に言い渡すと、フローラルの香りがする除菌スプレーを羽柴へ三回噴射してやった。長い付き合いで俺からの攻撃は慣れているであろうに、羽柴は犬のようにキャンキャン吠えて噛みついてくる。
「ぶっは……っくさ! しかも二十メートルって遠くね!? ってゆーかオレの下半身は緩くないし、卑猥な菌って何なのって感じだし――――何より、幼なじみに対してその扱いはないっしょ!? そんでそんでっ医療品のアルコール綿とかラテックスとか、何で持ってるわけ……」
「俺の親は眼科医だからな」
早口でまくし立て、最後は力尽きたように放ってきた羽柴の質問に、俺はさらりと答えた。羽柴は頭が痛そうな様子で、前髪で覆われた額を押さえる。
「そういえばそうだったね……あーもう……もういいや。……話を戻すとさ、そーちゃんさぁ、お前に恋愛は厳しいと思うよ。何たってそーちゃんは……」
「きゃああっ!」
短い悲鳴が廊下から響いて、羽柴はくじかれたように口をつぐんだ。
俺が目をまたたく間にも、廊下からは「何してんのよドロ子ー!」と不満げな女の声が聞こえてくる。
「ドロ子……?」
首を傾げる俺をよそに、野次馬根性をむき出しにした羽柴は、
「ありゃー、何か面白いことでもあったかな?」
と語尾を弾ませて廊下の方へ向かう。
羽柴め……女が絡むとすぐ反応するのは小学校の高学年で卒業しておけ。
俺は内心でそう毒突いた。
羽柴はクラスメートに混じり、ガラス窓から廊下へ顔を出す。俺は羽柴を引き戻すべく、渋々、人口が密集したそちらへ向かった。
「待て羽柴。女同士のつまらん諍いなら放っておけ」
何週間も放置された靴下をつまみあげるように羽柴の襟を引っ張り、俺は言った。
「それより俺の話を聞け。何のために鳥頭のお前へ恋愛話を持ちかけたと思っている。女を籠絡することにかけてだけ才能を発揮するお前に、一役買ってもらうためだぞ!」
「何その上から目線! お願いする態度じゃないよねソレ!? しかもオレのこと思いっきりけなしてるし!」
振り返った羽柴は不満げな声をあげた。
が、「まあ、そーちゃんも見てみなよ」と、廊下を指さし、俺にそちらが見えるよう場所をゆずってきた。
悔しいことに、身長が百七十五センチの俺より羽柴の方が八センチも高いため、奴は俺の後ろからでも悠々と廊下の様子をのぞけるのだ。
「くだらん。一体何だって言うんだ……」
そう俺が吐き捨てるのと、廊下で騒いでいる集団の一人が「ドロ子、早く片付けてよ!」と怒鳴るのが重なった。
……穏やかじゃないな。
俺はぎゅっと眉根を寄せる。視線の先では、屈めば下着の見えそうなスカートをはいた女生徒が五人、廊下に膝をついた黒髪の女生徒を見下ろしていた。
全員が揃いもそろって天をつくようなつけ睫毛や、最早武装しているとしか言いようのないネイルを装着しているのにも視線が行くが――――……俺の視線は、地べたに座り込んでいる女生徒の方へ向いた。
俯いているため顔はうかがえないが、白いカッターシャツの腕の部分が、土をかぶって汚れている。彼女が両手をついている床の先には植木鉢が転がり、水分を含んだ黒っぽい土がぶちまけられていた。
ざっと一見したところ、女生徒は水を吸った鉢植えを運んでいる途中で転んでしまったようだ。めくれあがったスカートから覗く小さな膝が赤くなっていることから察するに間違いないだろう。
彼女にとっては運が悪いことに、そこへけばけばしい女の集団が通りかかり、はからずも土で通せんぼする形になった現状を責められている、というところか……。
俺が状況を把握している間に、集団のうちのリーダーと見られる豊満な女が前に進みでた。蛍光ペンでカラフルに落書きされた上履きには『志摩』と書かれている。
「ねえドロ子―? こんなに汚いと通れないんですけどー?」
口紅……いやリップグロス、だろうか。グロスがたっぷりと塗りつけられた唇で発した志摩の言葉に合わせて、取り巻きの女たちがけらけら笑う。
頭上から嘲笑を浴びせられた女生徒は、ここから消えてしまいたいとばかりに肩を縮こまらせた。ただでさえ小柄だというのに、さらに小さくなっている。
そんな光景は正直、見ていて気持ちのいいものではない。
そう思う俺の背後で、同じくなり行きを見ていたクラスメート(名前は忘れた)の男子が
「おい羽柴、女の問題ならお前の得意分野だろ。何とかしろよー」
と羽柴のわき腹を小突いた。
「えー」
羽柴はおどけるように肩をすくめた。
「野郎が関わってるならともかく、『女同士』の問題は無理。蝶と花、どっちの味方すればいいのか、わっかんないもん」
他のクラスメートが会話に混ざって、「羽柴マジうぜー」などとカエルの合唱よろしく笑う。所詮は他人事のようだ。面倒事には首を突っ込みたくないのかもしれない。
それは何も、男共だけではなかった。友人同士机をくっつけて弁当をつつく女たちも、教室の隅で集まっている大人しそうなグループの女たちもそうだ。
「かわいそう……」と零しはするものの、誰一人助け舟を出す気はないようだった。
ただでさえ切れ長な俺の眦がさらに鋭くなってきたところで、羽柴が背後から耳打ちしてきた。
「そういえば、そーちゃんはああいう……泥だらけっていうか土まみれの子、天敵だよね。大丈夫? 失神しない?」
羽柴よ、お前が廊下の光景を見るように誘っておいて、今更何を言うのか。
俺は大仰な溜息をついて、冷たく言い放つ。
「大丈夫なはずがないだろう。お前が俺の耳に口を寄せただけで失神しそうだ。唾を飛ばしたら滅菌するぞ」
「えっ? オレ!?」
「ひどい!」と大げさに泣き真似をする羽柴を無視して、俺は再び廊下の一団をじっと観察する。
羽柴は『蝶と花』と形容したが……。
あのけばけばしい集団がさしずめ蝶なら、まき散らす鱗粉はこちらまで漂ってくる、バニラのように甘ったるい香水の香りか。
触覚は排泄物よりも汚い垢がたっぷりと詰まっていそうなネイルか。羽は女どもの腰に巻かれた、動くたびにひるがえる袖口に穴の空いたカーディガンか?
「そーちゃん、中々辛辣だよね」
「心を読むな羽柴。駆除されたいのか」
「顔に出てるんだよ……っていうか、駆除って! オレってそーちゃんから見て害虫なの!?」
俺は羽柴の嘆きを無視した。志摩たちが蝶なら、誰にも助けてもらえない哀れな土だらけの花の方は……と、俯いたままの女生徒へ、検分するような視線を送る。
すると、萎縮していた女生徒が、初めて声を発した。
「あ、あの……っごめんなさい、です」
勝手に暗い声を想像していた俺は女の、カナリアのような声に面食らった。舌足らずなのか、語尾が少しかすれて頼りない発音は庇護欲をかき立てられる。
「うわー。かわいー声」
後ろですかさず反応する羽柴を横目で睨みつけてから、俺は人がますます増えた廊下に視線を戻す。と、ようやっと『ドロ子』と呼ばれた女生徒が顔を上げ――――……
「あ」
その顔を確認した瞬間、俺の瞳は大きく開いた。
今なら、彼女を花と形容した羽柴を褒めてやってもいい。
長いまつ毛に縁どられた黒目がちの大きな瞳、薄桃の花弁を散らしたような頬と唇。
顔をあげた女生徒の容姿は、まさしく『花の顔』だった。
色白な肌は一見白百合のような印象を与えるが、彼女がまとう柔らかな雰囲気は凛とした百合というよりも、親しみやすく可憐な鈴蘭の方がしっくりくる。
だが、それはまあ、散々見惚れといてなんだが――――まあ、置いておく。
それよりも俺の心臓がスタッカートのごとく跳ねているのは彼女が
「……昨日の彼女だ……」
そう、昨日の放課後に見かけた、泥だらけの彼女だったからだ。
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