第10話潔癖男子の挑戦
花を植える予定の花壇を紹介し終えた紫倉さんは、今度は俺と羽柴を、記念館の隣にひっそりと佇む温室へ連れてきた。
一昨年に廃部になった園芸部が使っていた場所らしく、三坪あまりの小さな温室は紫倉さんの手によって綺麗に手入れされていた。
床には長方形の平たいカゴ(育苗箱というらしい)や、双葉が顔を出した黒いビニールの小鉢(種苗育成用のポットというらしい)が行儀よく整列している。
ビニールにびっしり詰まった腐葉土や空の植木鉢は隅に重ねて置かれ、奥の方にはシャベルなどの用具を入れた木箱と、教室から拝借したと思われる机があった。
ところで何故、俺が此処へ連れてこられたかというと、だ。
紫倉さんの言う百日草は、温室で種を蒔くらしい。芽が出てから花壇に移し替えるのだそうだ。何でも、「花壇に直接蒔くと雨で種が流れる可能性があるから、目の届く場所で管理するため」なんだそうだが……。
「む、無理だ……っ」
俺は蒼白な顔で、悲鳴まじりに叫んだ。
「ゆ、指を土に触れさせるなんて、出来るわけがない……っ」
今の俺は、羽柴によってラテックスも軍手も取り上げられ、完全に丸腰の状態なのだが――――何とその素手でポットに種を蒔き、さらには土をかぶせ、軽く押さえなければならないという状況に追いこまれていた。
「ふ、ふざけるな羽柴! 自分だけ軍手で土に触る気かっ」
俺は軍手という名のガントレットに守られた羽柴の手を指さし、激しく非難した。
「オレが軍手なのは土を触るからじゃなくて、そーちゃんがオレに触れても叫ばないようにするためだぜ? そもそも、ラテックスに守られた手で土に触るんじゃ、潔癖症のリハビリになんないでしょー」
そう言った羽柴は俺の肩に手を置き、余裕綽々な様子で注意する。
奥の机で、たくましいことに素手で種蒔き用の用土を準備していた紫倉さんは、「まあまあハシバさん」と、やんわり口を挟んだ。
「潔癖症の方は土が苦手ですのに、今まで触れなかった土にいきなり触るなんて、ハードルが高すぎますよ……」
紫倉さんは見守るような視線を俺へ向ける。
「シナガセさんのペースで、焦らずゆっくりやっていきましょう。今日は軍手をはめて下さって、ダイジョーブ、ですよ。百日草は種も比較的大きいですし、軍手をした手でも摘まめると思います」
紫倉さんはそう言ったあと、羽柴に俺へ軍手を返すよう頼んでくれた。
しかし羽柴の奴は、使命感に燃えたような声で「甘い!」と一喝した。
「紫倉ちゃん、甘い、甘いよ。それにちょっと誤解してる。潔癖症の人が土を苦手だとは、一概には言えないぜ?」
「え?」
「潔癖症の人にも色々あって、『これは平気だけどこれは無理』っていうのがあるってこと」
「と、言いますと……?」
羽柴の大ざっぱな説明では到底理解出来なかったらしく、紫倉さんは柳眉をひそめ、さらなる説明を求めて俺を見た。
俺はコホンと一つ咳払いをし、明後日を向く。
羽柴の奴め。まさかまた、紫倉さんに恥ずかしい一面を知られてしまうことになろうとは……。
まあ、潔癖症がどういったものか先に知っておいてもらうのは、これから一緒に活動していく上で重要なことかもしれない。説明を聞いてなお、紫倉さんが俺と友だちでいてくれる保証はないが。
そう思うと、語る前から憂鬱になった。
「……例えば俺は、虫も土も、ドアノブも素手では触れない。人にだって、風呂上がりから何にも触れていないような清潔な状態の人にしか触れられない」
「だけど、他の潔癖症の人もそうかと言われれば、そうじゃないんだよね」
続きの言葉を羽柴が引き継いだ。
「潔癖症でも土に触れる人もいるし、異性とキスしたりとか、エッチなことをするのは平気な人もいる。はたまた、病気が移ることを極端に恐れる人もいるみたい」
「ああ」
俺は相槌を打つと、顎に手を当て、ちょっと迷いながら言葉を紡ぐ。
「俺の場合は違うが……風呂の汚れを恐れて、風呂に入れなかったり掃除が出来なかったりして逆に不衛生になってしまう者や、『一日に行う手洗いの数は十五回』という風に、行動を儀式化する者もいる」
「……そうなんですか……」
話を聞いた紫倉さんは特に嫌悪感を抱いた様子もなく、しみじみと呟いた。
「潔癖症といっても、皆さんそれぞれ嫌悪感や不快感を抱く対象は違うんですね……」
「そうそう。多分、自分の中にルールがあるんだよね」
紫倉さんの言葉がしっくりきたのか、羽柴が同意する。
「ルール、ですか?」
紫倉さんはきょとんとし、赤子のような目で俺を見上げてきた。
俺はどう説明したものかと、腕を組んで唸る。
「こだわり、とでも言うべきか……顕著な例で言うと、俺は他人の握ったおにぎりは口に出来ないが、寿司屋の大将が握るような寿司は、気合いを入れれば食べられる」
「えっ。どうしてですか?」
紫倉さんは人形のようなまつ毛に縁取られた目を不思議そうに瞬いた。
まあ、その反応が妥当だろうな。
「厨房の見えないファミレスとは違い、回らない寿司屋では作業の様子が見えるし……その道のプロが握ったものだと思えば割り切れるんだ」
俺の理屈に対し、紫倉さんは当惑したようにポットを固く握りしめた。
「……で、ですが、同じように人が握ったものですよね?」
「それがそーちゃんの自分ルールだよ。その道を極めた専門家に対しては、信頼出来るんだって。オレらにはよく分かんない理屈だし突っ込みどころも満載だけど、そーちゃんの中では筋が通っているらしい」
「そう、なんですか……」
「理解に苦しむだろう」
俺は自虐的に笑ってみせた。
「俺自身、おかしいと思っているから、引いてくれても構わない」
紫倉さんは不意を突かれたような表情を浮かべていたが、俺の心の機微を敏感に感じとったらしい。
紫倉さんは控えめな彼女らしくもなく俺との距離をずいと詰めると、珍しく息巻いた。
「そ、そんなことで引いたりしません。こだわりがあるのは、潔癖症の方に限ったことじゃないですから。わ、私だって、こだわり、ありますし」
視界の端で、羽柴が珍しい物を見つけたような顔をした。整った眉を器用に片方だけ吊り上げ、紫倉さんの発言の続きを待っている。
紫倉さんはというと、紺色のベストに覆われた薄い肩を怒らせ
「例えば私、ケチャップは苦手なので食べませんけど、一番好きな食べ物はオムライスなんですっ」
と、俺へ向かって高らかに言い放った。
「……は?」
唖然とする俺の後ろで、羽柴が勢いよく吹きだした。
色素の薄い双眸に涙を浮かべて失笑する羽柴を盗み見た紫倉さんは、顔を朱に染めて今にも爆発してしまいそうな様子だったが、
「何が言いたいかというとですねっ」
と声を張りあげた。
「今言った私のこだわり、『理解できない』ってよく馬鹿にされるんですけど、でも私にとってはこれが普通なんです。こだわりなんです」
「だから……」と、紫倉さんはしどろもどろになりながら、小さな声で言った。
「シナガセさんの『こだわり』の理屈を理解出来なくても、こだわりを持つ理由は、分かる気がします。なので、私にとって理解出来なくても、それがシナガセさんのこだわりだと言うのなら、引いたりはしません」
紫倉さんは言い終えると俯いた。恥ずかしいのか、形の良い耳が桜色に染まっている。
俺はというと、そんな風に言ってもらったのが初めてだったので、どんな顔をすればいいのか分からず瞠目するばかりだった。
今まで俺に興味本位で近寄ってくる奴らはいたが、腐れ縁の羽柴以外は皆、潔癖症のこだわりを聞くと周りから消えていったというのに……。
だから羽柴が再び吹きだして腹を抱え、
「潔癖症のこだわりと、好き嫌いのこだわりについてを、同列に考えるとか……っ!」
と紫倉さんの注意を引いたので、少しほっとした。
潔癖症がどれほど厄介なものか深く知っていないからこそ紡げた言葉だったとしても、紫倉さんの言葉に間違いなく浮かれてしまった俺は、下唇を噛みしめないと、平静を装えそうになかったから。
俺は紫倉さんが羽柴に気をとられている間に、唇を噛みながら足元を見つめて、ただただ平常の顔に戻るまでやり過ごすしかなかった。
まあ、羽柴の何もかもお見通しだと言わんばかりの視線が旋毛に刺さって、少しばかり癪だったが……
『紫倉さんの人柄を見くびっちゃ、損かもよって話』
と言った羽柴の発言には納得せざるを得なかったから、今なら奴を手放しで褒めてやってもいいと思った。
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