第21話潔癖男子の家族
俺と紫倉さんは、人の波が落ちついてから駅の階段を上がった。階段を上った先に広がる駅の景色。それに、俺は既視感を覚えた。
手前の柱に設置された清算機、人々が手をつないでいる様子が描かれた壁の絵。出口の傍に作られたツバメの巣――――……。
「……ここは……」
「桜川駅ですよ」
紫倉さんが言った。
俺はああ、と納得する。電車に乗ることで精いっぱいで、目的地の駅の名前まで頭に入ってこなかったし、紫倉さんに訊く余裕もなかったが……ここは……。
改札を出て、ここ最近では珍しく晴れた外をぐるりと見渡す。小さな映画館が入った商業施設。そしてその付近に密集した個人医院と調剤薬局。横断歩道を渡った向こうにはガラス張りの美容室と、コマーシャルでよく見かける名の塾が乱立している。
ああ、間違いなく此処は……俺の地元だ。そういえば、駅の近くにホームセンターがあったな……。
俺はちらりと腕時計へ視線を落とす。四時を回っていた。
……多分、出くわすことはないと思うが……。
そう油断して、紫倉さんと横断歩道の前で信号待ちをしていたのが悪かった。『あの人』は俺の予想の斜め上をいくに決まっているのに。
「湊多? 湊多じゃなーい!」
交差点の向かいから、小さな子供よろしくぶんぶんと、『あの人』――もとい姉さんが手を振っていた。
綺麗にカールされた髪は一つにまとめられ、淡いピンクの制服に紺のカーディガンを羽織った姉さんは、満面の笑みを浮かべている。
信号が青に変わると、俺と姉弟とは思えないくらい長い足でこちらへ駆けだしてきた。
「……シナガセさん、お知り合いですか?」
だんだん近寄ってくる姉さんを、紫倉さんはぽかんと見つめる。
まあ、そうだろうな。遊び慣れた雰囲気漂う年の離れた姉さんと、俺との接点が見当たらないのだろう。
「ああ、あの人は――……」
「湊多ぁぁ」
俺の目の前までやってきた姉さんは、艶っぽい唇で、甘えるように名を呼んだ。そして両手を広げて抱きつこうとしてきたので、俺は胸の前で腕を組み、バリアを作った。
「姉さんそれ以上はやめて下さい!」
「え? あん……ごめんね湊多ぁ」
姉さんはたたらを踏みながら俺に抱きつこうとするのを止めた。
「……姉さん、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞よぉ! いやーん、何でこんな所にいるのー? もしかして父さんたちに会いに来てくれた?」
「いえ……」
「ていうか、アンタ今、駅から出てきたわよねぇ。え、え、電車乗れたの? ん?」
「シナガセさん、シナガセさんのお姉さんですか?」
一歩後ろで事の成り行きを見守っていた紫倉さんが、控えめに尋ねてくる。姉さんはばっちりとメイクされた目を光らせた。
「んんー?」
マッチ棒を載せられそうなまつ毛を瞬き、姉さんは紫倉さんへと顔を近付ける。あまりの近さにのけ反る紫倉さんの頬を、逃げられないよう両手で挟みこみ、姉さんはうっとりと囁いた。
「やだ湊多、なあに、この可愛い女の子ー。肌白―い、細いのにプニプニーゆで卵みたいー。同級生? もしかして彼女? やっだ湊多も人並みに恋出来るようになったのねー? あら? ていうことは、アンタ、潔癖症は克服出来たの?」
「……少しは人の話を聞いて下さい姉さん! あと、紫倉さんから離れて下さい!」
姉さんの勢いに圧倒されたのか、紫倉さんは「あ」とか「う」と、泡を食ってばかりだ。
無理もない。見ず知らずの女にマシンガンのように話しかけられた挙げ句、俺の恋人扱いされては、困惑もするだろう。
「……彼女は、同じ学校に通う友人の紫倉砂子さんです。俺の恋人ではありません。紫倉さん、こっちは俺の姉の美波みなみだ」
「は、初めまして、です……っ」
俺が紹介すると、紫倉さんは姉さんに向かって勢いよく頭を下げた。
「いつもシナガセさんには、お世話になってます……っ」
「ええー?」
姉さんはルージュの引かれた唇を尖らせた。
「彼女じゃないの? 残念ねぇ……」
「……それから俺は、姉さんや父さんたちに会いに来たわけではありません。潔癖症が治ったわけでもないです。今日はたまたま、紫倉さんとこの街に用があったので、この駅で下りただけですよ」
「なあによぉ。湊多ってば、冷たいんだから」
姉さんは色っぽい顔に似合わず、子供のように頬を膨らませた。
「でも、ねえ、立ち寄るくらいならいいでしょ。父さんの眼科、ここから歩いて五分だし、今ちょうど休憩時間だから、ちょっとは顔見せてあげてよ」
確かに、父さんが開業している眼科の看板は、横断歩道からでもよく見えるくらい近い。眼科が入っている雑居ビルだって、信号を二つ渡ればすぐそこだ。
だが……。
「いえ、俺は……」
遠慮した。出来れば今、父さんには会いたくないと思った。いや、父さんが俺に会いたくないはずだ。そしてそれ以上に、母さんが……。
「そうつれないこと言わないでよ湊多。本当はね、父さんも母さんも、湊多に家に帰ってきてほしいのよ?」
姉さんは利かん気が強い子供を宥めるように食い下がった。が、俺は間髪いれずに否定した。
「そんなはずない」
「本当よぉ! あん、もう……黙っとくように言われてたけど、本当は、毎月送ってるあの仕送りだって、母さんが用意してるのよ?」
「え……」
俺は耳を疑った。
どういうことだ。生活用品が詰まった姉さんからの仕送りが、本当は母さんから宛てられた物だっていうのか……? そんなはずは……。
「アンタを追い出した手前、決まりが悪いからって、アタシの名前で出すように言われてたの」
「……そんなはずはありません。だって、あの人は俺を――――」
「美波!」
いつの間にか再び青に変わった信号の向こうから、絶妙なタイミングで、耳に馴染んだ声が姉さんの名を呼んだ。
首を傾げる紫倉さんの隣で、俺の心臓はドクリと嫌な音を立てる。思わず背筋が伸びるような、厳格な声色には大いに聞き覚えがあった。
「母、さん……」
声の主である俺の母は、肩を怒らせ大股でこちらへ向かって歩いてくる。姉さんの影になって俺の姿が見えていないのか、その視線は姉さんだけを見据えていた。
「美波、こんなところで何油売ってるの! もうすぐ午後の診察が始まるっていうのに、銀行に売り上げ入金しに行ったっきり戻らないで……ちょっと、聞いてるの?」
姉さんの細い肩を掴んで、振り向かせた母さん。姉さんの肩越しに見えた俺に、母さんはあからさまに表情を変えた。
「湊、多……? どうしてここに……」
驚いた様子の母さんと目を合わせていられず、俺は咄嗟に視線をそらす。
「母さん聞いて! 湊多、電車に乗れたんですって」
「ええ?」
姉さんの言葉を聞いた母さんは、しわの刻まれた目元に驚きを浮かべた。
「すごいでしょ? ねえ、褒めてやってよ――――」
「……姉さん」
「湊多ってばチョットずつ、潔癖症を克服していっているのよ!」
「姉さん、やめて下さい」
俺の有無を言わせぬ声に反応して、隣で紫倉さんが肩を跳ねさせる気配がした。姉さんは不満そうに口をつぐむ。俺は能面のような顔で、母さんに頭を下げた。
「見たくもない面を見せてしまって、すみませんでした」
思っていたより、喉から出た俺の声は無機質だった。顔を上げて母さんを見ると、母さんはカッと赤くなり、恥じいったような顔をしていた。
「わ、私は別に、そんなこと思ってないわよ」
「……そうですか。俺は用事があるので、これで失礼します。行こう、紫倉さん」
「え……? い、いいんですかシナガセさん……!」
信号が変わらない内にと、俺は歩きだす。紫倉さんは俺と母さんたちを交互に見つめたあと、深く腰を折って一礼した。
「あ……し、失礼します……っ」
俺は足早に去っていく。その後ろを雛鳥のようにちょこちょこと小走りで追いかけてくる紫倉さんには俺の歩く速度は速すぎると気付いていたが、一刻も早くこの場を去りたかったので、速度を緩めることはしなかった。
そんな身勝手な俺の背中へ、姉さんが声を投げかける。
「……っねえ湊多! 逃げないで。母さんのこと、許してやってよ」
許す? 許すって何だ。そもそも俺は……。
「……許すなんて」
横断歩道を渡りきってから、俺は足を止めた。
「何を許せって言うんです? そもそも俺は、母さんを恨んだりなんて、本当にしていないんです。家を出たのは……」
こんな自分が情けなくて、みじめだったからだ……。両親からも疎まれてしまうほどの自分が不甲斐なかったから……。
「……また連絡します」
本音を喉の奥に押しこめて、俺はそう言った。
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