第20話潔癖男子の格闘

プラットホームには、学生や塾に向かう子供がわんさか並んでいた。


 気後れしてしまう俺を、比較的人の少ない先頭の方へ紫倉さんは導いていく。その際に嫌でも気付いてしまうのは、紫倉さんを見る野郎どもの視線だった。


「まじタイプなんだけど」


「可愛すぎねぇ? 横のヤツ誰だよ……あれが彼氏?」


 横を通り過ぎるたびに、恨みがましそうな台詞を吐かれる。おい、お前ら、いやらしい目で紫倉さんを見るなよ。殺菌するぞ。


「シナガセさん、どうかしましたか?」


 俺が呪いでもかけそうな目で野郎どもを睨んでいると、紫倉さんが振り返って訊いてきた。


 彼女には男どもの声は聞こえていないのか――それとも、まさか自分が褒められているとは夢にも思っていないのか……。まあ、鈍感なところも可愛いのだが。


 きょとんと目を丸める紫倉さん。その手を握って、男たちの視線から遠ざけるように歩いていけたらいいのにと、俺は自分に対して嘆息した。


 五分もしない間にアナウンスが鳴り、電車の到着を知らせた。


 ホームの端から先頭車両が見えてきて、俺の身体は一気に強張りだす。目の前で止まった時には、まるで車内から大蛇が下りてくるとでも言わんばかりに身構えてしまった。


 ブシュッと空気の抜けるような音を立てて、扉が開く。中から出てきたのは当然大蛇ではなかったが、内側から流れ出てきた人々の群れは、俺にとって大蛇よりも倒すのが困難な天敵に思えた。


 鉄の蛇の胃袋から吐き出される人々。熱気や汗の匂いも相まって気分が悪くなりながら、俺と紫倉さんは人にぶつからないよう端に避けて、波が途切れるのを待った。


 ……ここからが本当の勝負だ。気を強く持てよ、俺。知り合いが溢れた学校とは違い、駅でぶっ倒れでもしたら、とんでもなく厄介なことになるんだからな。


 ぐっと顎を引いて気を引き締める。一回息を止めてから、俺は電車に乗りこんだ。


「紫倉さんは座ってくれ」


 ぽつぽつと開いた座席の方を見て、俺は言った。


「シナガセさんはどうされるんですか?」


「俺は……立ってる」


 前に座っていた人の体温が移った座席は、どうにも苦手なのだ。まだそこに座るくらいの度胸は持てない。


「なら、私も立ってます」


 紫倉さんは当然のように言った。


「いや、でも、疲れないか?」


「ヘーキです。乗るのは二駅だけですし、それに、もう席も埋まってしまいましたから。ね?」


 紫倉さんが苦笑いまじりに視線を向けた先では、電光石火、尻の大きな中年女性たちが我先にと席を占拠していた。


 そこまでして、座りたいものなのか……? 恐るべし、電車。奥が深いぞ、電車……。


「な、なら、つり革を……いや、ドア側の手すりに掴まるか――――……?」


 俺はそのどちらも掴めないので、足の裏に力を入れて揺れに堪えるつもりだが、羽根のように軽そうな紫倉さんは何かに掴まっていないと電車が揺れるたびによろけてしまうだろう。


 そう思って提案すると、優しくされることに慣れてない紫倉さんは、幸せを噛みしめるように下唇を噛んだ。


「ありがとうございます。シナガセさんは、ホントにお優しいです。自分のことで手いっぱいなはずですのに、私のことを気遣って下さるなんて」


「そんな……俺は……」


 何だ。何だか俺と紫倉さんの間に、チョコレートを溶かしたような甘ったるい雰囲気が流れていないか。ちょっと、いい感じなんじゃないだろうか。


「じゃ、じゃあ、あの……」


 紫倉さんは指をもじもじと組んで逡巡したあと、躊躇いがちに訊いてきた。


「よろけないように、シナガセさんの袖を掴んでても、いいでしょうか……?」


「え?」


「ちょ、直接腕には触れませんので――――……あ、でも、だ、ダメなら、いいんです! し、失礼しました……っ」


 紫倉さんは紅潮した顔を俯かせ、発言を後悔したように眉を下げた。俺は慌てて返す。


「だ、駄目じゃない!」


 声が大きかったせいか、座席に座っていた小学生たちがこちらを見つめてくる。俺は紫倉さんがあらぬ誤解をしないよう、必死で弁解に努めた。


「ちょっと、驚いただけだ……。その、俺なんかの袖でよければ……握っててくれ……」


「……っいい、ですか……?」


「も、もちろんだ!」


「じゃあ……」


 紫倉さんの華奢な指が、俺の袖へと伸びる。弱弱しい力でキュッと握られた袖に、俺の胸は少しならず高鳴った。


 それ以上に、紫倉さんが、俺との接し方の距離を合わせてくれていることに喜びを覚えた。


 しかし、桃色の空気は長くは続かなかった。発車の時間が迫ると、サラリーマンや大量の学生が乗りこんできたのだ。俺と紫倉さんはすぐに奥のドア側へと押しやられる。加齢臭と汗の匂いが、容赦なく鼻をついた。


 く……っ。油断していた……! そうだ、ここは俺にとって戦場だった……!


 こもった熱気が、乗客の服越しに伝わってくる。俺のカッターシャツの背に、脂ぎった中年の背中が当たった。汗だろうか、しめった感触が背中に伝わってきて、俺は足から頭の先まで震えた。


「う……っ」


 食いしばった歯の根から声が零れる。


 不快感が身体に纏わりついて離れず、もしも人間の皮膚が着脱可能なら、いますぐ皮をマントのように脱ぎ捨てたい気分だった。


 そんな俺の様子に、紫倉さんはすぐさま気付いた。


「シナガセさん、平気ですか? 場所、変わりましょうか?」


 ドアを背に立っている紫倉さんが申し出た。


「な、何でしたら、私、シナガセさんが潰されないように手でバリケードを作りますが……!」


 勇んで言う紫倉さんは、またカッターシャツの袖をまくり、ひ弱そうな二の腕を晒して見せる。それを見ていると、俺は少し脱力してしまった。


「……いや、大丈夫だ。紫倉さん、腕をしまってくれ」


 その真珠のように白い肌を、なぶるような目線で見ている男たちがいることに気付いてくれ、紫倉さん。


 警戒心のない彼女は「お役に立てず、申し訳ないです……」と肩を落とす。だが、もちろんそんなことはなかった。


 だって、俺は今……。


「……君は、不思議だ……」


 俺は零すように言った。


「え?」


「君といると、苦手なことや嫌なことを、一瞬忘れていられる……。すごく、落ちつく」


 何気なく言った台詞に、紫倉さんは熟れた果実のように真っ赤になった。


 が、その時の俺は彼女が暑いのだろうと、とんちんかんなことを考えていた。まさか自分の発言が、告白まがいなニュアンスを持っていたとは夢にも思わなかったからだ。


 たった二駅。それでも俺にとっては、半日くらいすし詰めの鉄の箱に押しこめられているような心地になる。


「あ、この先、カーブなんです。シナガセさん、気をつけて下さいね」


 車窓から景色を眺め、紫倉さんが教えてくれた。


 俺は足の裏に入れる力を強める。さらに、他の客がこっちへ凭れてこないよう紫倉さんの方に身を寄せると、紫倉さんはなぜか緊張した様子で固くなった。小さな手で、スカートの裾をキュッと握りしめている。形のよい耳が桜色に染まっており、俺と目が合うと、ふにゃ、とはにかんだ。


 ……紫倉さんでも、電車に乗るのは緊張するのだろうか?


「意外だな……」


 そう零した後、俺の余裕はもうなくなった。いや、余裕なんぞ初めから欠片もなかったのだが。


「うおっと。お、兄ちゃんごめんな」


 電車が揺れるたびに、背中に見知らぬ誰かの肩が当たる。その都度、俺はビックリ箱のように飛び上がった。手のひらからにじみ出る冷や汗の量も半端じゃない。額からも噴き出してきて、前髪がぺたりと貼りついた。


 はっきり言って、気分は最悪だ。出来れば電車には金輪際乗りたくない。鉄の箱にはどこにも逃げ場がなく、俺は圧迫感にじわじわと絞めあげられていくような感覚がした。


 気分が悪い。吐きそうというわけではないが、気持ちが悪い。髪を掻きむしって叫び出したい。


「シナガセさん、着きましたよ」


 俯いて無口になった俺へ、紫倉さんが鈴の音で声をかけてくれた。


 電車は緩やかに減速し、ホームへ入っていく。


「ああ……」


 電車は最悪だ。悪夢として見そうだ。


 だが……その試練から解放された瞬間、息を吹き返したような気分になった。何日かぶりに酸素を得たような……暗く長いトンネルから脱出したような気持ちだ。

 そして……少しばかり、自信にもなった。


 俺は、電車に乗れたのだと。


 勇気を出して良かった。チャレンジしてみれば、困難だと思っていたことも意外に出来るものなんだな……。踏み出せてよかった。……やった。


 俺は紫倉さんに気付かれないように小さく拳を握った。少しだけ、ほんの少しだけ、それこそスプーン一杯くらいだけだが、自分を誇らしく思った。


「シナガセさん……やりましたね……っ」


 電車を降りてプラットホームに片足を付けた途端、紫倉さんが泣きそうな顔で微笑んでくれた。それが嬉しくて、俺は紫倉さんを抱きしめたいような衝動に駆られた。


 俺にとってその衝動は、驚くべきことだった。この俺が、こんなに人に密着したいと思うなんて。

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