第19話潔癖男子の奮闘

善は急げと、次の日の放課後、うすら笑いを浮かべた羽柴によって学校から叩き出された。

 それから十分。俺は学校から借りてきた折り畳みの台車を持ち、にぎやかな駅前を歩きながら会話に窮していた。


 思えば、紫倉さんと長時間二人きりになるのは初めてだ。今まではいつだって間に羽柴がいて、俺と紫倉さんが円滑に会話出来るよう話題を振ってくれていたから、自分から話題をひねりだそうとしても、もたないのだ。


 紫倉さんは退屈、してないだろうか。もしくは俺と二人で、気まずいと思っていないだろうか。


 コンビニの前を通り過ぎながら、隣を歩く紫倉さんを盗み見る。こう見ると、紫倉さんは小柄なんだろうか。旋毛が見えた。それから、つややかな黒髪に天使の輪が出来ているのも。いい匂いもする。姉さんがよく身にまとっていた妖艶な香りではなくて、シャンプーの落ちつく香りだ。


 普段なら気にならないのに、今はそれを意識してしまって、駅へと続く階段で蹴躓きそうになってしまった。


 しかし、駅の中に入ると俺には一切の余裕がなくなった。この時間は学校帰りの小学生や主婦が多いらしい。縦横無尽に歩き回る人たちにぶつかりそうになるのを避けるのでいっぱいいっぱいになった。


「切符を買ってきますね。シナガセさんは、ココで待っていて下さい」


 紫倉さんは大きな柱の前で、鞄から財布を取りだして言った。が、俺はそれを制した。


「いや……俺が自分で買う。……いくらだ?」


 まるで死地へ赴くと言わんばかりの声色だったと思う。紫倉さんは「でも……」と言ってくれたが、ここで頑張らねば、ついてきた意味がないんだ。


 俺は券売機に小銭を入れてから、手袋をゆっくりと外した。深呼吸する。後ろに並んでいる中年女性が不審そうな顔をしている気がしたが、俺は無視を貫いた。


 はらはらした表情で紫倉さんが見守る中、俺は息を止めると、短く切った爪の先で意を決して画面を突いた。押したんじゃない。本当に身体のツボを突くような感じだった。


 だが……。


「どうして切符が出てこないんだ」


「にーちゃん、ちゃんと押さなきゃ反応しないよ! 後がつかえてんだから早くね!」


 俺の疑問に答えたのは、後ろで苛々しながら並んでいるおばさんだった。……なるほど。指の腹で押さないと反応しないのか。厄介な奴だな、券売機め。


 指の腹……。


 誰かが汚れた手で触ったかもしれない画面に、指で触れるのか。もし俺より前に切符を買った人がトイレの後そのまま手を洗わず券売機を使っていたとしたら? おい、というかこの画面、指紋で若干曇ってないか。どんだけ汚れた手で触られてるんだ、券売機よ。


 頭の中でぐるぐると思案していると、後ろに並んでいたおばさんは焦れたように


「兄ちゃん、さっさと押しな!」


 と俺の背中をぶっ叩いた。


「あ……っ」


 背中を押されたせいでたたらを踏んだ俺の指は、グキッと不愉快な音を立てて画面に当たる。突き指したような痛みに声なき呻きを上げていると、ちょうど券売機から切符が出てきた。


 痛みに身悶えながらも、俺は切符を抜き取る。幸いなことに、痛みが強すぎて券売機が汚いという考えは都合よく忘れることが出来た。


「シナガセさん、指は大丈夫ですか?」


 改札を通り抜けながら、紫倉さんが訊いた。「ああ……」と力なく答える俺に向かって、紫倉さんはムズムズした様子を見せる。


 俺が訝しく思って彼女と目を合わせると、紫倉さんは弾けるような笑顔で言った。


「シナガセさん……っ。やりましたね!」


 我が子の初めてのおつかいが成功した母親のように、紫倉さんは感無量な様子だった。


「切符、買えたじゃないですか。すごい進歩だと思います!」


 まるで自分のことのように喜ぶ彼女を見ていると、俺もじわじわと嬉しくなってくる。


 紫倉さんは改札を抜け、エスカレーターに乗りこみながら、「ふふ」と小さく笑った。彼女はすぐ後ろに立つ俺へ振り返る。絹のような髪が、踊るように揺れた。


「今日はいい日です。……シナガセさんと買い出しにこれるなんて、嬉しい」


 心の底からそう思っているような物言いに、俺の心臓はドキリと高鳴る。その内本当に、ときめきが原因で不整脈になりそうだな、とこっそり思った。


 ダメだ、あまり期待するなよ俺……。紫倉さんは優しいから俺が舞い上がってしまうような言葉を告げてくれるんだ。期待しすぎると、後が辛いぞ……。


「……嬉しい、なんて……」


 俺は苦笑を禁じ得なかった。


「俺と一緒で、面倒くさくはないのか?」


「……シナガセさんこそ、私と一緒にいて迷惑じゃありませんか?」


「ありえない!」


 俺は勢いよく否定した。声が力み過ぎてしまったせいか、エスカレーターを下りていく人がすれ違いざまに不審そうな目を向けてきた。


「むしろ、紫倉さんには感謝してもし足りないくらいだ。紫倉さんといる時間は、居心地がいいし……」


「じゃあ、私だってそうです」


 よどみのない声で紫倉さんが言った。


 じゃあ、そうですって……。そう言ったって、俺は紫倉さんが好きだし、彼女といる時間に救われてばかりだけど、彼女は違うだろうに。


「もしかして、シナガゼさんが不意に見せる申し訳なさそうな顔は、私が迷惑がっていないかと気に病んでいたんですか?」


 蒸し暑いホームに出ながら、紫倉さんが尋ねた。


「私が好きでやっていることですから、申し訳なさそうな顔、しないで下さい。前に、言ったはずです。放課後にシナガセさんたちと活動が出来ることが、嬉しいって。それに……シナガセさんは、シナガセさんが思う以上に、私を幸せにしてくれているんですよ」


「……幸せ?」


「はい。キレイだって言ってくれました。あの言葉が、私にとっても自信をくれたんです」


 紫倉さんが「ドロ子」呼ばわりしていた志摩へ言い返していたことを思い出す。


 そうだ、俺の一言で、彼女は志摩に言い返す勇気を持ってくれた。だけど、俺みたいに口先だけの奴より、羽柴のように態度で示してくれる方がいいはずなのに。


 それでも、紫倉さんは……幸せと言ってくれるのか。


 そんな紫倉さんにだからこそ、俺が彼女に救われた分、紫倉さんを幸せにしたいと思った。今が幸せだと言ってくれるなら、もっと幸せになってほしいと思うんだ。


「……努力する」


「え?」


 出し抜けに呟いた俺へ、紫倉さんは目をぱちくりさせる。その仕草さえ可愛く見えて、俺は微笑んだ。


「今以上に努力して、絶対に潔癖症を克服する。もっと、自信を持って『紫倉さんは綺麗だ』って、志摩たちに言えるように」


「…………っ」


「だからもうちょっと、期待はせずに待っててくれ」


 そう言って、俺は紫倉さんを追い越し、エスカレーターを駆け上った。遅れてついてくる紫倉さんがどんな顔をしているかなんて見る余裕は、俺にはなかった。


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