第18話潔癖男子の遠出

次の日、俺は朝一番で水野に謝ることにした。


 野球部の朝練に出ていた水野は、俺が謝罪したことに面食らった様子だったが、「……こっちも、言い過ぎた」ときまりが悪そうに言った。


 お互いにまだ腹は立っている。が、それと同時に負い目もあったので、今回の件は互いに譲歩するという感じだった。


 顔を合わせづらいのは、紫倉さんに対しても同じだった。昨日つれなく帰ってしまったから自業自得だ。だが、いざ会うと、紫倉さんは俺の態度に対しては何も怒っていないようだった。


 それどころか、「用事は大丈夫でしたか? 間に合いましたか?」と気遣われて、俺は罪悪感で首を絞められる思いだった。

 だから、その様子をニヤニヤと傍観していた羽柴に電解水をぶちまけ除菌してやったのは、仕方のないことだと思う。


「……その後、志摩はどうだ? まだ何か絡んでくるのか」


 クッキーの一件からしばらく経った放課後、傘をさしながら俺は紫倉さんに尋ねる。雨でぬかるんだ道を通り温室へ向かいながら、紫倉さんは首を横に振った。


「いえ……。それが、あれからサッパリなんです。拍子抜けするくらい……」


「そうか……」


 おそらく、羽柴が裏で何か手を回したのだろう。


 俺は瞬時に察したが、紫倉さんはそんなこと夢にも思っていないらしく


「不思議ですね。私の気持ち、分かってくれたんでしょうか」


 とマシュマロのように柔らかく微笑んでいた。


 ……うん、紫倉さんには、いらないことは言わないでおこう。


 それに、確かに紫倉さんが強く言い返したのも、絡まれなくなった理由の一つだろうしな。志摩たちのような奴らは、言い返せない人間をいたぶるのが楽しいのだろうし。


 それにしても……。


 俺は唸り声のような音を響かせる空をあおいだ。ここのところ、ずっとぐずついた天気だったが、とうとう梅雨入りしてしまったらしい。風が少なく、風呂場のようにベタベタした空気が肌に絡んで鬱陶しかった。


 しかし、その鬱屈な気分を吹き飛ばす出来事が起こった。


「そーちゃん、紫倉ちゃん、見て見て! 百日草の芽が出てる!」


 一足先に温室へ来ていた羽柴が、床一面に置かれた黒いポットを指さして興奮気味に言った。


 しゃがんで覗きこんで見ると、ふかふかの土のベッドから、目に鮮やかな緑がまばらに顔を出していた。しゃんと背筋を伸ばす芽もあれば、赤子のように丸まっている芽もある。


 俺は初めて見る光景に、少し胸が震えた。


 ラテックスを外した手で、ちょんと葉をつついてみる。細い茎は揺れたものの、しっかり土に根を張っていた。


「……本当に、種から、芽が出るんだな……」


 まるで出産に立ち会ったかのような神秘的な気分に浸りながら、俺は呟いた。


 芽から目を離せないでいる俺の隣に座りこみ、紫倉さんは優しいタッチで葉を撫でた。


「はい。シナガセさんのお陰ですよ」


「……!」


「努力の証。着々と、大きくなっていきますね」


「……そうか……」


 俺が、苦戦しながらも植えた種は、俺のやった水を吸い、芽を出した。――――……そうか。そうか、百日草はちゃんと、俺は前に進めていると、教えてくれるのか。


「ねー。もう少し大きくなったら、花壇に植えかえないとダメなんじゃない?」


 屋根に当たってバチバチうるさい雨音に負けないよう、声のボリュームを上げて羽柴が言う。紫倉さんは「そうですね」と答えてから、室内の隅に積まれた腐葉土へ目をやった。


「ただ……この時期に花壇へ植えるとなると、マルチングしてあげないといけないかもしれません」


「マルチング?」


  聞きなれない単語に、俺と羽柴はオウムのように繰り返す。紫倉さんはビニールに詰まった腐葉土を指さした。


「今は梅雨ですから、雨のせいで、泥が跳ねて茎葉に付着してしまうことがあるんです。すると……その、シナガセさんには少し言いにくいんですが……」


「何だ? 言ってくれ」


「土中の細菌が原因となって、病害虫が発生しやすくなるんです」


 紫倉さんは言いにくそうにしていたが、一息で言った方が楽になると言わんばかりに思い切って説明した。


 ――――……細菌、病害虫。


 その二つの単語を耳にしただけで、俺の血の気が引いていく。俺の顔色が青ざめていくことに気付いた紫倉さんは、慌てて続きを話した。


「そ、そうならないために必要なのがマルチングでして! 腐葉土なんかを敷いて、泥が跳ねないようにすることを、マルチングっていうんです……!」


「そ、そうか……。その、マルチングってやつをすれば、大丈夫なんだな……!?」


「は、はい……! 大丈夫です!」


 縋るように確認を取った俺へ、紫倉さんは何度も相槌を打った。


「ただ……温室にある分だけの腐葉土では、花壇全てに敷きつめるには足りないかもしれません」


 俺は層のように積まれた腐葉土を見て考えこむ。


 確かに、温室内に積まれた腐葉土だけでは、あの花壇全てに行き渡らないな。ならばどうするかって……。


「ですので、ホームセンターで購入しようかと思っています。お金は学校が出してくれるので」


「それがいいね」


 羽柴はポンと手を打って言った。


「でも、一人で持ち帰るのは大変でしょ。買い物手伝うよ」


「よろしいんですか?」


 喜びからか、紫倉さんの表情が華やぐ。対して俺は、ナチュラルに「手伝う」とのたまうことが出来る羽柴に嫉妬しそうだった。だが、それも一瞬のことだ。羽柴は最後に爆弾を投下することを忘れなかった。


「買い物手伝うよ。そーちゃんがね」と。


「…………おい羽柴」


 五月の清風のごとき爽やかさで言った羽柴の首根っこを摘まみ、俺は紫倉さんに聞こえないよう声をひそめて言った。


「何こちらに丸投げしてるんだ。お前は来ないのか?」


「えー? だって、これって二人きりでデートするチャンスじゃん。頑張っておいでよ」


「デッ……」


 デートだと? 頑張れって何をだ。二人っきりでホームセンターなんて……!


 心中でかなりうろたえる俺を無視して、羽柴は紫倉さんに


「オレ、ホームセンターの匂いダメなんだ。だからついてけない。ごめんね」


 と、笑顔で嘘をついている。


 紫倉さんも紫倉さんで、「そうでしたか」と見えすいた訳の分からん嘘を鵜呑みにしていた。


 純粋すぎるぞ紫倉さん……!


「ごめんねー。でも、そーちゃんがついていってくれるから、荷物の心配はしなくていいよ。オレは紫倉ちゃんの代わりに花の水やりしとくから、二人で行ってきて」


「え……っ。シナガセさんと……?」


 紫倉さんは上目遣いで俺を見上げて言った。俺と目が合うと、なぜか紫倉さんの頬がほんのり色づいた気がした。


「あの、でも、近くのホームセンターまでは、電車に乗らなくてはいけないんです……。だからその、もし、もしおイヤでしたら、私、一人で行ってきますよ……?」


「電車か……」


 電車に乗るのは、潔癖症の俺にとってかなりハードルが高い。つり革も掴めなければ、背もたれに背中を預けることも出来ないし、人と肩がぶつかるのも遠慮したいところだからだ。


 紫倉さんはそれを分かってくれているんだろう。俺と出会ってから、紫倉さんは積極的に潔癖症について知ろうとしてくれているから。


「いやいや。だから紫倉ちゃん、一人じゃ荷物重すぎて帰ってこれないでしょ」


 羽柴が突っこんだ。


 紫倉さんは袖をまくり、華奢だが柔らかそうな二の腕をさらしてみせる。


「ダイジョーブ、です。私、これでも結構筋肉あります!」


「……せめて力こぶが出来てから言おうねー」


 山のような力こぶは出来ないにしても、紫倉さんの二の腕は、力をこめてもペタンコで、およそ筋肉という言葉からはほど遠かった。


 紫倉さんは飼い主に叱られた犬のようにうなだれる。その姿も可愛らしいし、潔癖症の俺を否定せず気遣ってくれるのは、とても嬉しいし安心する。


 けれど、受け入れてもらってばかりでは、ダメだと思うようになった。受け入れてもらっているだけでは、誰かを傷つけるし、紫倉さんを守れない。


 だから俺自身がもっと、変わりたいと思って努力しないと。紫倉さんに近付きたいという邪な考えだけではなくて、彼女に釣りあうようなふさわしい人間になるんだ。


「紫倉さんさえよければ、ついていきたい」


「え……」


 満月のような瞳を見開く紫倉さんへ、「迷惑じゃなければ」と付け加える。俺にしては、かなり勇気のいる行動だった。全校生徒の前で自作のラップを披露するくらいには。


「メーワクなんて……っ」


 紫倉さんは、ラテックス手袋に包まれた俺の手を両手でギュッと握り、破顔した。


「メーワクなんて、ありえないです! 嬉しいです!」


「そ、そうか……」


「はい!」


 胸の中が優しくくすぐられているような……もしくは暖かいスープを飲んだあとのような心地がして、俺は耳を赤らめた。その様子を微笑ましそうに見ていた羽柴が写メを撮ろうとしてきたので、あいつのスマホはあとで漂白剤に浸すことに決めた。


 それにしても……。


 ラテックス越しの彼女の手は、温かい。けれど彼女の手が吸いつくようにしなやかなのか、とか、土いじりで意外とカサついているのかとか、汗ばんでいるのかとかは……何一つ伝わってこなくて。


 薄いゴムに隔たれた彼女の感触を、いつか知ることが出来るだろうか……。


 彼女は優しいから手を伸ばしてくれる。触れてくれる。きっと、何度も、何度も。


 相手から手を伸ばされ与えられているのに、今の俺では応えられない。けど、出来るだけ近いうちに、彼女の優しさに報えるようになりたいと、強く思った。


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