第30話潔癖男子の不在
小学一年生の妹を寝かしつけてから、花壇の様子を見に行こうと何度も思ったんだ。でも、「涼おにーちゃん」と甘えた寝言を漏らしてオレの袖を掴む妹ちゃんを引きはがすのは、ちょっと気が引けて。
だって妹ちゃんが風邪引いてるのに、親父も母さんも仕事でいないんだよ? 鍵をかけて行くにしても、夜中に一人家に残しておくのはやっぱり不安だし。
結局朝一番に花壇を見に行けばいいかと、自分を納得させてしまった。
「羽柴じゃん! 帰宅部のくせに何で学校にいるのー?」
休日の学校に私服姿で出没すると、やっぱり目立つのかな。校門をくぐってすぐに、バドミントン部の女の子が声をかけてきた。
オレはいつも通りのへらへらした笑みを浮かべながら、急いでいるので足だけは止めずに答える。
「ちょっと用事でねー。そっちは部活? 頑張ってね!」
まだ話したそうな視線が後ろから追ってくるけど、気付かない振りをして脇道にそれる。女の子は好きだけど、今は構ってあげてる暇ないし。
深夜の豪雨が嘘のように今はからりと晴れていて、アスファルトに付着した雨粒はダイヤモンドみたいにキラキラ光っている。
でも、花壇へ続く細道は、昨晩の爪痕でぬかるんでいた。
お気に入りの靴が汚れないよう、オレは等間隔に敷かれた石の上を歩く。足元にばかり気を取られていたせいで、花壇の前に人が立っていることに、ギリギリまで気付かなかった。
「……紫倉ちゃん?」
「え……あ、ハシバさん! おはようございます!」
レースのワンピースの上からクリーム色のカーディガンを羽織った紫倉ちゃんが、呆然とした様子で花壇の前に立っていた。カーディガンには襟元にビジューが付いていて、フェミニンな雰囲気がかもし出されている。
うん。期待を裏切らない私服姿だね、紫倉ちゃん。可愛い。あとで写メってそーちゃんに自慢しよ。
そう心に決めながら、オレは紫倉ちゃんに向かって自然に笑いかける。
「おはよ、紫倉ちゃん。来てたんだ。昨日は大丈夫だった?」
「あ、はい、私は大丈夫でした。花壇のことが気になって、あまり眠れませんでしたが……」
そう呟く紫倉ちゃんの目元は、いつもより腫れぼったくて二重も小さかった。
「そっか。オレも花壇のことが気になって来てみたんだ。紫倉ちゃんもそうだったんだねー」
「はい」
「それで花壇の様子は、と。……ん……?」
何で今の今まで気付かなかったんだろ。紫倉ちゃんの私服姿が可愛くて視野が狭くなってたのかな。
花壇には一面に、テントのように青いビニールシートが張られていた。昨日の大雨の名残でところどころに水だまりが出来、シートが落ちくぼんでいる。明らかに雨避けだ。
そっとシートの端を摘まんで一部だけめくってみる。水気を含んだ土は黒っぽくなっていたが、赤子のような芽は無事な様子で、凛と上を向いていた。
小さい子供が誇らしげに胸をそらしているように見えて、思わずオレの表情も緩む。
無事だったんだ。よかった。
「わー……てっきりひどい状態になってると思ってたけど、誰かが花壇を守ってくれたみたいだね。誰だろ……先生たちかな?」
オレはほくほくしながら紫倉ちゃんを見下ろす。紫倉ちゃんもてっきり喜んでいるかと思えば、彼女は何かを見極めようとしているような表情を浮かべていた。
「紫倉ちゃ……?」
「シナガセさんだと思います」
オレの声にかぶさるように、紫倉ちゃんがよどみなく答えた。花弁のように小さく可憐な唇は、確信しているように言葉を紡ぎだしたので、オレは目を見開いた。
「花壇を守ってくださったのは、シナガセさんだと思います」
「そーちゃんが?」
真顔で囁く紫倉ちゃんへ、オレは信じられないものを見るような目を向けた。
普段のオレなら笑い飛ばしちゃうところだけど、紫倉ちゃんのまとう雰囲気が本気を孕んでいたので、それははばかられた。
でも……まさかでしょ。潔癖症のそーちゃんにはこんな真似出来ないよ。ラテックスをはめていたとしても、昨日の台風だったら、転んだりして泥だらけになるのは避けられないはずだし。最近のそーちゃんは前より不潔恐怖を克服しつつあるけど、泥だらけに耐えられるとは思えない。
「まさかぁ。そーちゃんは一番に放り出すタイプだと思うけど」
「ですが……」
「何か根拠があるんだね?」
小首を傾げて優しく問うと、紫倉ちゃんは下を向いた長いまつ毛をかすかに震わせた。
「だって……」
「うん?」
「……だっていつも……私が辛い時、不安な時とか……助けてほしいって思う時、一番に手を伸ばしてくれるのは、シナガセさんです……!」
そう訴えた紫倉ちゃんの瞳は、一片の曇りもなく、心からそーちゃんがやってくれたと信じているようだった。彼女の意思の込め具合といったら、こっちの心にまでダイレクトに響き渡るぐらい。
「私、昨日は、ずっと花壇のことが気になって気が気じゃありませんでした。でも……同時にどこかで、シナガセさんが、いつもみたいに守ってくれるんじゃないかって思えたから一晩ガマン出来たんです……だから……」
紫倉ちゃんはまた、花壇へと視線を戻す。
「だからきっと、シナガセさんがやってくれたと思うんです」
「紫倉ちゃんって、さあ……」
「はい?」
「んー……やっぱ何でもない、気にしないで」
オレは喉元まで出かかった言葉を押しこめて、訂正するように手を振った。
危ない危ない。「紫倉ちゃん、もしかしなくてもそーちゃんのこと好きだよね」なんて、さすがに言っちゃまずいよなあ……。
オレはチャックの緩い口を片手でおさえ、視線をそらす。紫倉ちゃんがそんなオレを不思議そうに見上げてきたので、オレは彼女の頭をポンポンと撫でた。
他の女の子たちならオレが「何でもない」なんて言えば詮索してくるのに、紫倉ちゃんは違う。ホント可愛いな、この子。そーちゃんがハマるのも頷けるよ。
「ねえ紫倉ちゃん。そーちゃんの住所教えてあげよっか」
「ほえ? シナガセさんの住所、ですか?」
「うん。だって、あのね」
オレは花壇の片隅にくたびれた様子で引っかかった透明のカッパを指さした。
「もしそーちゃんがこの花壇を守ってくれたんだとしたら、あのお馬鹿さんはカッパを着ずに家まで帰ったってことなんだよね」
「……っ!!」
紫倉ちゃんの元々大きい瞳が皿のように見開かれたかと思えば、彼女は一気に血の気を失った。途端に迷子の子供のようにうろたえだす。
「だから、紫倉ちゃんさえよければ、そーちゃんの様子、見て来てくれない? オレは花壇のビニールシート剥がしたら、妹ちゃんの看病に戻らないといけないからさ」
「え、あ……はい! でも、私が行って、ご迷惑じゃないでしょうか……?」
「オレが行った方がそーちゃんは迷惑がるよ」
オレは喉で笑いを転がし、ちょっと意地悪そうに口の端を上げる。
「それにもし紫倉ちゃんが行ってくれなかったら、そーちゃんがどんな様子か確認出来ないよ? オレ、起きてすぐそーちゃんのケータイに連絡したけど、返事こなかったし」
紫倉ちゃんの顔色がますます青くなっていくので、オレは思わず笑ってしまった。
言葉をなくす紫倉ちゃんへ、そーちゃんの住所と簡単な地図を書いたメモを渡す。それから頼りない背中をポンと押してやり、後ろ髪を引かれるように振り返った紫倉ちゃんへ手を振った。
一人になった花壇の前で、オレは気合いを入れるように腕をまくり、ビニールシートを剥がす作業にとりかかった。
さて、御膳立てはしたんだから、上手くいってよ? 明日二人がどんな顔して登校してくるのか、楽しみだな……。
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