第31話潔癖男子の克服
目が覚めたら、砂漠で何日間も放置されていたように喉が渇いていた。節々が殴りつけられたように痛い。俺は疼痛に顔をしかめ、小さく呻きながら身を起こそうとした。
「……あ?」
身体が鉛のように重くて動かない。身体に石でも載っているのかと思うくらいだ。これじゃ水も飲みに行けないな……。
そもそも何で俺は目が覚めたのか――……。
熱っぽく回らない頭で考えていると、さっきから何度もチャイムが鳴っていることに気付いた。
身体が動かないから無視だ無視。ん……?
俺はかすんだ目を二回ほどまたたいた。ぐらぐら揺れる視界に映るのは、いつも目覚めて真っ先に飛びこんでくる白い天井ではなく、濡れたフローリングだった。
「……ははっ」
数年ほど喉を使用していなかったかのような笑い声が漏れ出た。……ありえない、俺は今……廊下のフローリングに頬をくっつけて寝ているのか……?
「ははは……」
腹の底から笑いがこみ上げて止まらない。俺は何とか寝返りを打って仰向けになり、天井を見つめた。だんだん感覚が戻ってくる。泥だらけで未だに湿った服を着たままの俺は、笑うしかなかった。
「……あのまま帰って、力尽きて玄関先で寝ていたのか……」
泥のついた手のひらを凝視し、また笑う。フローリングに縫いつけられたように動かない身体は、起き上がることを拒んだ。
「……まだ諦めないのか」
俺が笑っている間もずっと、インターホンは鳴り続ける。止まったかと思えば、今度は控えめにノックされた。
この弱い叩き方……訪問者は女性だろうか。こんな時間に、何かの勧誘か? いや、そもそも今って何時なんだ?
そんなことを考えているうちに、ガチャッと扉の開く音がして、初めて俺は焦った。しまった……! 俺は鍵までかけ忘れていたのか……?
真っ暗な廊下に、ドアを開けられたことで一筋の光が入る。ということは、今は朝か……もしくは昼ってことか……。逆光で見えづらい訪問者を俺は目をすがめて眺めた。
髪が長い――――やっぱり女性か……?
「シナガセさん!!」
琴きんを弾いたような悲鳴が聞こえたかと思うと、乱暴に扉が閉まった。訪問者が靴を脱ぎ捨て、こちらへと駆け寄ってくる。
嘘だろ……? この声は……。
「シナガセさん! 大丈夫ですか? シナガセさん!」
フローリングに膝をついて俺の顔を覗きこんだのは、今にも泣き出しそうな顔をした紫倉さんだった。
「……なん、で……」
ここに? そう言いたかったのに、喉が焼けついたみたいに痛んで語尾がかすれた。俺がたまらず咳きこむと、紫倉さんはさらに顔を歪めた。
「お、お水持ってきます!」
「いや……平気だ。それより、紫倉さん……どうしてここに……?」
不思議に思って尋ねると、紫倉さんはスカートの裾を握りしめて目を潤ませた。
「やっぱり……」
「ん?」
「やっぱりシナガセさんが……花壇の百日草を守って下さったんですね……」
目をくしゃりと細め、紫倉さんが弱弱しく微笑んだ。
ああ……。花壇の様子を見たんだな……。
俺は紫倉さんの一言で大体のことを把握した。大方学校で羽柴と遭遇して、何か吹きこまれてここへ来たんだろう……。紫倉さんの様子からして花壇は大丈夫だったんだろうが……しかし……。
「やっぱりって……?」
何で紫倉さんは花壇を守ったのが俺だと分かったんだろうか。
「と、とりあえず部屋に行きましょう。着替えもしないと……立てますか? お熱は?」
まだ気が動転しているのだろう。おろおろした様子の紫倉さんは、熱をはかろうと俺の額へ手を伸ばしてきた。俺は小さく頭を振り、それを避ける。宙ぶらりんな状態で紫倉さんの手が固まった。
「あ……っ。すみません、私……っ」
「汚いから触らないでくれ……」
「……っ」
紫倉さんはひどく傷ついたような顔をした。涙の膜が張った瞳が、ゆらゆらと揺れてビードロのように見える。虐げられた小動物のような表情を見て、俺の中で罪悪感が溢れだした。
ああ、そうじゃなくて……。
「俺が汚いから、紫倉さんを汚してしまう。だから触らないでくれ」
「……え? き、汚くなんてないです……!!」
言い直した俺へ、紫倉さんは前かがみになって言った。
「シナガセさんは汚くなんてないです……!」
「はは……」
そんなはずはない。俺の今の有り様といったら、短く切った爪の中にまで土が入りこんでいるし、切れた頬はそのままで血がこびりついて固まっている。笑う度に頬が引き攣れたような感覚がするから間違いない。
砂の混じった髪は生乾きだし、半分濡れたままの服は泥と汗で汚れている状態。そんな俺が、汚くないはずがない。さっきからツンと汗の匂いまでするくらいだ。
驚くべきは、そんな状態でも平然としていられる俺自身の変化か……。
「シナガセさん……?」
「紫倉さん」
不安そうな様子の紫倉さんを見上げて、俺は言った。
「これからはもう、軍手をはめたり、気を遣わなくていい。少し、ふっきれた気がするんだ」
「え……?」
驚いた様子の紫倉さんが愛しい。なぜだろう。孫に囲まれて逝く老人のように穏やかな気持ちだった。
「心境の変化とでもいうかな」
「……変化、ですか……?」
「何だかどうでもよくなった」
「ははっ」と柄にもなく快活に笑う俺を見て、紫倉さんは目を白黒させた。熱でおかしくなったと思われているかもしれないな。
「――――治ったかもしれない。潔癖症」
せり上がってくる笑いがおさまってから、俺は口火を切った。
かすむ視界の中で、紫倉さんが小さな口をぽかんと見開く様子が確認出来る。俺はまた少しだけ笑った。
「家に帰った後って、普段なら玄関先で服を脱いで、除菌して、真っ先に風呂に入るんだ。でも、今日はそうしなかった。泥だらけのびしょ濡れだったけど、とにかく疲れてて、熱も上がってきて意識が朦朧として……家についた途端、糸が切れたように眠ってしまったみたいで、この有様だ」
紫倉さんは首をめぐらせて周りを見回し、物が散乱した状況を確認しながら頷いた。
「さっき起きて愕然とした。汗臭いんだか泥の匂いか……とにかく自分が臭くて。でも、風呂場まで這っていく力も出ないし、熱はひどくて、風呂を上がってから汚れた廊下を掃除する気力もないだろうし……けど」
俺は汚れた手の甲を唇に当て、漏れだす笑いを堪えた。
「けど……俺、生きてるな。存外平気に生きてる」
「シナガセさん……」
「それがすごく不思議で……同時に、当然かって思うと、おかしくなってきた」
「シナガセさん……」
「そうだ。それくらいで死ぬはずがないんだ」
「……シナガセさ……」
「俺が今熱で伏せっているのは、泥や汚れに侵されたからじゃない。あの花壇を台風から守ったっていう証拠だって、思えるようになったんだ」
「…………っ」
紫倉さんは壊れたおもちゃのように首を何度も縦に振った。乱れた前髪から覗く瞳が優しく細められていて、俺はとても温かい気持ちになった。
「君と羽柴が、ゆっくり……歩くようなペースで見守ってくれた。だから……自信を持てたし、変わろうと思えた。あの台風の中、外へ出て行く勇気も持てた」
また一つ、紫倉さんが大きく首を縦に振った。とうとう彼女の瞳から零れ出た真珠のような涙が、ぱたりとフローリングを打った。
「シナガセさんの、頑張った勲章です……っ」
泣きながら微笑む紫倉さんがこれ以上なく愛しくて、俺も顔の筋肉を最大限に動かして優しく微笑み返す。それを見た紫倉さんは、なぜかもっと泣きだした。
今日は口元に小さな手を当て、しゃくり上げながら子供っぽく泣いている。なのに充血した瞳は幸せそうに細められていたから、俺も幸せで涙腺が緩みそうになった。
「これからは……これからは口先だけじゃなくて、態度でも君が綺麗だって示せるようになる。そうだな……羽柴みたいに……とまでは言えないが、紫倉さんと上手く接することが出来ると思うから安心してくれ」
「いいえ……っ。いいえ……」
紫倉さんは首を横に振り、真摯に俺を見つめた。
「ハシバさんは、確かにお優しい方です……けれどそれ以上に……」
紫倉さんは鼻の頭を赤く染めながら、不器用に微笑んだ。
「それ以上にシナガセさんは、私にとってヒーローみたいな存在です……」
「え……?」
目を見張る俺へ、紫倉さんは小さく落とすように囁いた。
「ドロ子と呼ばれてきた私にとって……シナガセさんは初めて味方になってくれた人でした。優しくしてくれた人でした。……そばにいてくれて……私に自信をくれて、居場所をくれて……私を変えてくれた人、でした……」
「俺が……?」
にわかには信じがたかった。俺が紫倉さんの心をこれほど動かせていたなんて。でも純真無垢な彼女の口から出た言葉に嘘や偽りがあるとは思えなくて。
「シナガセさんといる時はいつも、心強くて幸せな気持ちでしたよ……っ」
紫倉さんの言葉は、俺の心を潤し、暖かく満たしてくれた。
「そうか……」
俺は噛みしめるように一つ頷き、顔をほころばせた。
「じゃあ……ますます紫倉さんとの絆、守れてよかった……」
「……っ」
「潔癖症が治ってよかった。やっと、君の涙を拭える……」
ずっと羨ましかった。大好きな紫倉さんに平然と触れることの出来る羽柴たちが。ずっと恨めしかった。気持ちとは裏腹に紫倉さんへ触れる勇気を持てない自分自身が。でも、もう平気だ。彼女に触れることが出来る。
泣いている紫倉さんの滑らかな頬へと手を伸ばす。しかし寸でのところで
「ああ、でも今のこの手じゃ……」
と、俺は手を引っこめようとした。が……
「平気です!」
切羽詰まったような声で紫倉さんが叫んだ。紫倉さんの瞳からまた白玉のような涙が溢れては、細い顎へと流れていく。薄い肩が震えていた。
「平気……だから触れてください」
「え……?」
「私も……シナガセさんに…………触れたい」
零れ落ちそうなくらい目を見開く俺へ、紫倉さんは透き通った視線を送ってきた。その瞳には今まで垣間見たことのない熱情が灯っているような気がした。
胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えながら、俺は恐る恐る紫倉さんへと手を伸ばした。
かすかに震える人差し指で、紫倉さんの涙にそっと触れる。全身の神経が人差し指に集中し、指で息をしているような感じがした。
紫倉さんが長いまつ毛をそっと伏せて目を閉じる。指先が赤くなった目尻に触れた瞬間、甘い電気が走ったような心地がした。
俺の指が離れていく気配を察したのか、紫倉さんが緩やかに目を開ける。その瞳が蕩けそうなくらい柔らかなのを見て、もう何度目かの幸せな疼きを感じた。
紫倉さんの花弁のような唇から小粒の歯が覗いて、言葉を形作る。涙声でも、子守唄のように優しい響きをしていた。
「出会った時からずっと……私を庇ってくれた広い背中に触れたいって。手袋越しじゃない手に触りたいって……ホントにずっと思ってました……。だから私も……」
紫倉さんは一度唇を引き結んでから、懇願するように言った。
「私も……触れても、いいですか……? シナガセさんに……」
『触れられるって、愛されているみたいで安心するのよ』と、何時だったか姉さんが言っていた気がする。『嫌いな人間には、誰だって触れたくないし、触れられたくないでしょ』と。
「…………」
俺は痛む身体に鞭を打って、腕で身体を支えながら起き上がった。「あ……っ」と声を漏らした紫倉さんが介助しようとしてくれたが、その手が俺へ触れる前に身を起こし、自分から手を差しだす。
紫倉さんは俺の大きな手のひらと顔を交互に見つめてから、熟れた果実のように頬を染めた。
緊張したように下唇を噛んでから、そっと自分の手を俺へと重ねてくる。指の腹がくっつきあった瞬間、この世の幸福がどっと身体に流れこんだ気がした。
そのまま、祈りを捧げるように指を絡ませる。一度ぎゅっと力を込めると、紫倉さんがくすぐったそうに微笑んだ。
「ほっそりしている割に、柔らかいんだな……紫倉さんの手って……」
吸いつくようにしっとりとしていて、きめが細かい。ずっと焦がれていた感触が、ここにあることが不思議で、同時に幸福で仕方なかった。
「シナガセさんは……思っていたより骨ばっていて、男らしい手ですね」
紫倉さんは涙で赤くなった目元を和らげ、はにかみながら言った。
「…………あったかいな」
何年振りだろう。直接人の手に触れるのは。子供の時だって、母さんや姉さんに手を引かれた記憶はそうない。
人と触れ合うっていうのは……こんなに安心して、満たされるものなのか。
「それとも紫倉さんとだから……満たされるのか……?」
「…………え?」
「君が好きだ」
まるで「おはよう」と挨拶するように、自然と気持ちが口から滑りでた。
紫倉さんが瞳を大きく揺らすのを見て、とうとう言ってしまったという気持ちが湧いたが、照れや後悔はなかった。心の中は凪いだままだ。
「君の陽だまりのような優しさが、俺を支えて癒してくれた。潔癖症を治すきっかけをくれた。君は俺の……俺の嫌いな部分まで優しく掬いあげてくれたんだ。母親って……慈愛に満ちた母親ってこういうものなんだろうなって……焦がれもした」
紫倉さんの頬に触れる。陶磁器のようにきめ細かいのに、確かに熱を孕んでいた。
「好きだ。本当に……紫倉さんにとってはこんな気持ち、迷惑かもしれないが……」
「好き」
静謐な空間へ水が一滴落ちるように、紫倉さんが言った。
今度は俺が瞠目する番だった。しかし言葉の意味を理解する前に、紫倉さんの顔が俺の眼前へ迫ったかと思うと、柔らかい衝撃とともに背中へ彼女の腕が回った。
「……しく……」
突然抱きしめられて、歓喜とも動揺とも見分けのつかない思いがこみ上げる。同時になぜか大声で泣きだしたくなった。
恋情? 慕情? 何だろうな、何でもいい。狂おしいくらいの気持ちがこみ上げて溺れそうだ。漏らしかけた嗚咽を殺すために息を吸うと、優しい石鹸の香りがふわりと漂って、俺はとうとう彼女の肩に顔を埋めて泣いた。
「好き……全部好きです。大好きです……っ」
「紫倉さ……」
「伝わってください」
俺のシャツを握りしめる力を強めながら、紫倉さんは懇願するように言った。
「シナガセさんが好きです……っ。貴方が……っ貴方が私を変えてくれました……」
俺は顔を上げ、紫倉さんと見つめあった。彼女の長いまつ毛に引っかかった珠のような涙を、こんなに至近距離で見る日がくるなんて、夢にも思わなかった。
「必要とされるのが嬉しいって……好かれるのが嬉しいって……シナガセさんが今、教えてくれました……」
「……それは……」
紫倉さんの狭い額と額をコツンと突き合わせ、俺は微笑んだ。
「俺も同じだ」
「シナガセさ……」
「ありがとう、俺の……俺の弱い部分も、否定せずに受け入れて見守ってくれて」
誰かを愛しいという気持ちを教えてくれたこと、本当に感謝してるんだ。だけどその全てを伝える術を持たない俺は、彼女の細い体を壊れないように、でも力いっぱい抱き返した。
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