第32話潔癖男子の幸福
ゆりかごに揺られているような幸福な時間が、どれくらい続いただろうか。何分、いやもしくは何十分? 十年分くらいの幸せが雨のように俺へ降り注いだんじゃないだろうかって思うぐらいに満たされていた。
だが、その綿菓子のようにふわふわと甘い空気を割ったのは、紫倉さんの身じろぎだった。
抱きしめる力を緩めると、イチゴのように真っ赤になった紫倉さんが上目遣いで言った。
「し、シナガセさん……! 大変です! お薬を飲まなくちゃです!」
「は……? あ、ああ……」
そういえば身体が鎧でもまとっているように重たいことを忘れてたな。紫倉さんとの抱擁が麻酔のような効果を発していたんだろうか。
そう思うと気恥ずかしくなって、急に頬が熱を持った。すると俺の熱が上がったと勘違いしたのか
「シナガセさん……早く飲まないと!」
と慌てふためきながら、紫倉さんが俺の頬へ手を添えた。
「ほえ……でも……まずは何かお腹に入れないとですね……。帰ってから食事、されましたか?」
「いや……」
「じゃあ、お粥とか……」
「……紫倉さんが作ってくれたのが食べたい!」
言ったあとで、俺は秘密を漏らしてしまった子供のような表情を浮かべ、口元を覆った。
……この馬鹿がっ。口を滑らせるのも大概にしろっ!
失態に身悶えした俺は、頭を掻きむしりたいような衝動に襲われる。「うあああ」と呻きたい気持ちを抑えて紫倉さんを見ると、俺以上に頬を染めていた。感激しているようにも見える。
「食べて……くれるんですか? 私が作った物でも……?」
「……ああ……」
「す、すぐ作りますね! あ、材料……っ冷蔵庫の中身、お借りしてもいいですか?」
勇んで言う紫倉さんへ向かって、俺は頷いた。そのまま肩を貸してもらい、気合いで着替えベッドに横になって待っていると、久しぶりに遠くで料理中の音を耳にした。
トントンと包丁で具を刻む音も、コトコトと鍋が煮える音も、こんなに優しい音色をしていただろうか。俺は手の甲で目元を覆い、すん、と鼻を鳴らした。
しばらくすると、食欲を誘う匂いが室内に漂ってきた。そして間を置かずに、湯気の立った小鍋を盆に載せた紫倉さんが現れる。
「キレイに整理されていたので、すぐ見つけられましたよ」
そう言いながらベッドサイドの小机へお粥を置き、レンゲを俺へと差し出してくれる紫倉さん。
これまでの俺ならベッドで物を食べるなんて考えただけで卒倒しそうだったが、何だか憑きものでも落ちたように大丈夫だった。
……人間変われば一晩で変わるな。
現金な自分に半ば呆れながらレンゲを受けとろうとすると、どうやら俺は本気で熱が上がっていたらしい。手に全く力が入らず、かけ布団の上にポトリとレンゲを落としてしまった。
「……シナガセさんさえ良かったら、私が食べさせ……」
それ以上先を自分で言うのは恥ずかしかったらしい。両手で口元を覆った紫倉さんは、視線をそらした。
「あれ……?」
目を泳がせていた紫倉さんは、窓辺に置かれた植木鉢へ視線を止めた。
「あれは……百日草の植木鉢、ですか? シナガセさん、お姉さんにお裾分けしたはずじゃ……」
「ああ、あれは」
俺は悪戯が見つかった時のように苦笑した。
「すまない。あれは嘘だ。本当は自分で、花が咲くまで育てて、母さんたちに送ろうと思ってた」
物を部屋へ持ちこむのにはすごく勇気がいった。それこそ持ち帰った日は侵略されてしまったような気になってなかなか寝つけなかったくらいだ。
でもそれでも努力しようと思ったのは……。
「絆だって、聞いたから」
俺はぽつりと零した。
「百日草の花言葉が『絆』だって聞いたから……だから、もしかしたら、紫倉さんたちとの絆を深めるだけじゃなくて……家族との失った絆も取り戻せるんじゃないかって……百日草が繋いでくれるんじゃないかって……思ったんだ」
「そうでしたか。――――だったら」
紫倉さんはふんわりと微笑んだ。
「頑張って、取り戻しましょう。きっと、きっと大丈夫です」
「……紫倉さんの言葉は魔法だな。本当に大丈夫な気がしてくる」
「ほえ? ホントですか? なら、そんな魔法をかけました」
悪戯っぽく笑った紫倉さんは、湯気の立つお粥に載った梅をちょっとずつほぐし始めた。鮮やかなピンク色に目を奪われている内に、口元へレンゲが運ばれる。
「……あーん、ですね」
はにかみながら言った紫倉さんを抱きしめなかった俺は、地球上の誰より理性的だと思う。動揺を隠してお粥を口に入れると、話していたせいでほどよい温かさになっていた。
とろりとした梅肉の酸味と、控えめに味のつけられたお粥が優しく溶け合って喉を滑ってゆく。久しぶりに家庭の味を口にした俺は、また柄にもなくほろりとした。
「美味い」
「! 良かったです……!」
少し緊張していたのだろう。強張っていた肩の力を抜いて、紫倉さんはへにゃりと笑った。
「嬉しいです。シナガセさんに食べてもらえるなんて……」
そういえば、前は紫倉さんの作った物が食べられなくてもどかしかったんだ。でも今は……。
二口目を食べながら、俺はくすぐったい気持ちになった。
やばい、幸せだ。
「ホントに美味い。紫倉さんは料理上手なんだな」
鍋の中身を綺麗に空にして薬を飲んでから、俺はほう、と息をついた。紫倉さんは照れを隠すように耳へ髪をかける。
「そんな、お粥なんて誰でも作れますけど……でも、シナガセさんにそう言ってもらえるのはすごく嬉しいです。実はお料理も好きなので……」
「そうなのか? また体調が戻ったら食べたい……って言うのは、厚かましいか」
どんどん欲張りになっていく俺は、自重を覚えようと、戒めるように言った。しかし……
「シナガセさんが食べて下さるなら、何でも作ります!」
と、紫倉さんは飼い主に尻尾を振る犬のように懐っこく答えた。
……紫倉さんは気を許すとこんな風になるのか。可愛すぎるだろう。
俺はベッドの上を転げ回りたいような気持ちを必死で隠し、何が食べたいのかを考えた。
――――……あ。
「ハーブクッキーが食べたい」
「ほえ……」
予想外の答えだったのか、紫倉さんは間の抜けた声を出した。しかし、俺は大真面目だ。そりゃもう、彼女の両親へ挨拶をしに行く時の心境くらい真面目だ。
「俺は結構子供っぽくて、独占欲が強いんだ」
俺はそっぽを向いてふてくされた。
「紫倉さんが作った物で、俺が食べてないのに羽柴が食べた物があるなんて、嫌だ」
「ほええ……」
こんなに子供っぽい俺を見たのは初めてのせいか、紫倉さんは物珍しそうに目をパチパチさせる。それから駄々っ子を微笑ましく見つめるお姉さんのように笑った。
「なら、約束です。ハーブクッキー作ってきますので、早く良くなってくださいね」
「……約束だ」
「はい。だから……」
紫倉さんは汗と雨で湿った俺の前髪をかき上げた。
「今日は一日中、大人しく看病されてくださいね」
「…………ああ」
――――息が止まるなら今この瞬間がいいと、俺は心から思った。
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