第33話 潔癖男子の成長

「それで? 紫倉ちゃんと想いが通じ合ってめでたしめでたしってわけ?」


 温室の棚に肥料をしまいながら羽柴が言った。


 季節は、澄みきった青空が抜けるように高く感じられる秋だ。夏休みの間に伸びた髪を後ろで一つに束ねた羽柴は、不満げに薄い唇を尖らせる。


「その割には、なーんでそーちゃんはまだ除菌グッズを常備しているのかなぁ」


「これはお守りみたいなものだ」


 俺は温室の机に掛けながら、羽柴には目もくれずに言った。そんな俺の机の上には、酢で作ったスプレーやら除菌シートが並んでいる。


「除菌スプレーはお前の顔面にしかもう発射しないから安心しろ」


「いや、全然安心出来ないんだけど……むしろ戦慄したんだけど……」


 犬が水気を払うように身震いした羽柴が、ズンズンとこちらへ向かってくる。奴の口は完全にへの字に曲がっており、俺の前まで来ると、力任せに机を叩いた。


 おい、揺らすなよ文字が歪む。殺菌するぞ。


 書き物をしていた俺は、盛大に顔をしかめて羽柴を見上げる。羽柴は仲間外れにされた子供のように不服そうな顔をしていた。


「あの台風騒ぎからもう三カ月近く! たった今やっと詳細聞けたし!」


「恥ずかしかったんだ。それくらい察しろ、滅菌するぞ」


「いや……二人に何があったのか聞くたび小学生みたいに初々しい反応されたオレの気持ちも察してほしいんだけど……むしろよく耐えたと思うんだけど……っていうかオレさっきから『むしろ』って多用しすぎなんだけど……」


 俺は便箋に滑らせていたペンを止めて、そうか、あの台風の一件からもうそんなに経つのかと感慨にふけった。


 あの日――――紫倉さんと心を通い合わせてから、もう三カ月近く。今では羽柴がいない時には、紫倉さんと手を繋いで帰るくらいにまで仲が進展した。他人が聞いたら小学生の方がもっと進んでいると思うのかもしれないが、俺からすれば快挙だと思う。


 そんな風に変われたのも紫倉さんと……いい加減認めよう、羽柴のお陰だ。


 ううむ。俺は盛大に眉をひそめて、面白くなさそうな顔をしながらぽつりと呟く。


「羽柴、色々とすまなかったな」


「へ?」


「聞こえなかったならいい。むしろ聞くな」


「何その物言い!? ていうか感謝してくれるなら『すまなかったな』じゃなくて『ありがとう』がいい!」


「ばっちり聞いてるじゃないか! 滅菌するぞ!」


「それは嫌!」


 胸の前で手を交差させ、バリアのポーズを取る羽柴。そんな羽柴の口角が緩んでいることに気付いてしまい、俺は弱味を握られた気分になって機嫌が降下した。


「ご家族へ送る手紙は書けましたか? シナガセさん」


 俺と羽柴の言い争いなど露知らず、花壇の様子を見に行っていた紫倉さんは、温室へ戻ってくるなり穏やかに尋ねた。


 紫倉さんは清涼剤だ。もしくは空気清浄機だ。俺の心を一瞬で洗ってくれる。


「手紙か? ああ、書き終わった」


 俺は手元の便箋へと視線を落とす。羽柴のせいで多少文字が歪んでしまったが、まあ読むのに支障はないだろう。


「へ? なんかちまちま作業してると思ってたら、そーちゃん、おばさんたちに手紙書いてたの?」


「あ……っ! こら返せ羽柴!」


 俺から手紙を引ったくった羽柴は、「なになにー?」とからかい半分で手紙へ目線を走らせる。茶色がかった瞳が手紙の端まで視線を滑らせたかと思うと、奴らしくもなく、無邪気に微笑んだ。


「そーちゃん、おばさんたちに自分が育てた百日草あげるんだ」


「……ああ」


「そ」


 てっきりからかってくるのかと思えば、羽柴は訳知り顔をするわけでもなく手紙を返してきた。


 俺は尻がこそばゆい気持ちになりながら、手紙をたたんで封筒へと入れる。しっかり封がしてあることを確認してから、ブレザーの内ポケットにしまい込んだ。


 もう逃げたりしない。まずは手紙で、父さんと母さんに思いの丈をぶつけよう。姉さんにも、また電話で礼を言わないとな。自分のことで精一杯で周りが見えていなかったが、今なら分かる。姉さんは罪悪感で苦しんでいたはずだ。そして多分、それ以上に心配してくれていたと思う。


 ……何だ、俺は結構周りに愛されてるな。


「さて、水やりにいくか。そろそろ液体肥料を足してやらないといけない頃だな」


「そーちゃんが率先して花の世話をする日がくるなんてねー……。数か月前なら天変地異が起こったのかと思うとこだよ」


 そう言いながら、羽柴は手慣れた様子で準備を始める。紫倉さんは俺たちを温かな目で見守っていた。





「キレー。こんな可愛い花、花壇に咲いてたんだねー」


「ね、ステキ。写メ撮ろー」


 細い小道へさしかかったところで、花壇の方から感嘆の声が聞こえてきた。見てみると、部活の休憩中なのだろうか、一年生の体操着を着た女生徒が三人、花壇を埋め尽くす見事な百日草に見惚れていた。


「……咲きましたね。私たちの絆」


 俺の右腕にそっと手を置きながら、紫倉さんが優しく囁いた。俺は左手を紫倉さんの手に重ねて頷く。


「ああ……」


「どうやら傍目からは、オレたちの絆って素敵に見えるらしいよ」


 羽柴はくすぐったそうに笑って言った。


 俺は「ふん」と鼻で笑いながら花壇へ視線を向ける。三か月前には陰気くさかったこの小道が、今は美しい風景画のように様変わりしている。


 秋風に揺られて花がたなびき、極彩色の花壇は優しく表情を変える。寂しかった花壇のカンバスに描かれた百日草は、可憐に、そして凛と咲き誇っていた。

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