第17話潔癖男子の喧嘩

 帰宅しても気は晴れなかった。


 一人になればましになるかと思ったのに、苛々は増すばかりだ。最近はこんなモヤモヤはどう対処していた? 思い返すと、紫倉さんが何かしら癒してくれていたことを思い出し、余計に気分がしぼみ、身体が傾いでいった。


 羽柴にまで嫉妬しているのか? 俺は……。


 その時、玄関に置いていた携帯が震えた。一瞬、紫倉さんか羽柴かと身構えたが、画面に表示された名前は、姉さんだった。


「……もしもし」


『あ! 湊多ぁ! よかった、出てくれてぇー。最近電話出てくれないから、嫌われちゃったのかと思ったぁ』


「まさか。……ちょっと、ここ一週間ほど色々あって。でも……」


『でも? なぁに? 湊多、部活でも始めたの?』


「……まあ、そんなところで……」


「そーうたぁぁぁ!!」


 玄関越しに大声で呼ばれ、俺は思わず黙りこんだ。何だ、来客か? おい待て、インターホンも鳴らさずにいきなり叫ぶ客がいるか。というか今の声、羽柴じゃなかったか?


 俺が困惑している間にも、羽柴は玄関の戸を何度もノックして、大音量で叫ぶ。


「そーちゃん居るの分かってるからねー。今すぐ開けないと、オレ、大家さん誘惑して合い鍵渡してもらっちゃうよー?」


 やめろ、近所迷惑だろう。ていうかお前が大家さんを誘惑するとかありえすぎて洒落にならん!


『湊多?』


「すみません、姉さん。またかけ直します」


 電話の向こうで当惑した声を漏らす姉さん。申し訳なく思いながらも、俺は通話を切った。そして片手に除菌剤を装備してから、やむなく玄関の戸を開ける。


 ほんの三十センチも開いていないところで、外側からぬっと伸びてきた手が、扉を跳ね開けた。


「やーっぱ居た! 邪魔するよー」


「邪魔するな近寄るな俺のテリトリーに侵入するな。洗濯機で丸洗いするぞ!」


「ちょっと、家に入るだけでそんな今にも犯されそうで怯えてる女の子みたいな目しないでくれる!? オレ女の子にそんな顔されたことないけど、まじで傷つくから!」


「拳銃みたいに構えたカビ○ラーもしまって!」と喚いた羽柴を一睨みしてから、俺は玄関より先へ上がらないことを固く誓わせて獲物(カビ○ラー)をしまった。しかも羽柴の奴、今さらっと自慢しなかったか?


「何だ。追いかけてきたのか。随分と暇なことだな」


「サボって帰って、いじけてるそーちゃんもなかなかの暇人だと思うけどねー」


 虚勢を張る俺と悪態をつく羽柴の間に、静かに火花が散った。


「用事があると言ったはずだ」


「用事っていじけること? そりゃ邪魔して悪かったねー」


「……随分と喧嘩を売るじゃないか羽柴」


 俺は口元を引きつらせながら、ポケットに入った携帯サイズの消毒用エタノールへ手を伸ばした。


 しかし羽柴から発せられた「紫倉ちゃん、そーちゃんの気分を害したんじゃないかってすごく気にしてた」という一言に、石像のように固まってしまった。


 羽柴は言葉を探すように首の後ろをかきながら切りだす。


「あー……あのさ、そーちゃん。確かにオレはそーちゃんと違って、簡単に紫倉ちゃんを助けられるよ」


「だから人の心を読むな」


「眉を読んだんだよ」


「そうか、そんなに煮沸消毒されたかったのか」


 それとも何か、次亜塩素酸ナトリウムを全身にぶっかけられる方がお好みか? 


 俺は極悪人の死刑囚も震えあがるような睨みをきかせたが、羽柴には糠に釘だった。それどころか、聞き訳のない子供に遭遇したかのように肩をすくめる始末だ。


「あのさ、そーちゃん。オレは志摩さんたちから紫倉ちゃんを簡単に守れるけど、オレとそーちゃんじゃ、紫倉ちゃんを助ける意味も、意義も違うんだよ」


「意味、だと……?」


「そうだよ。だって」


 羽柴の目が、急に冷めたものに変わった。


「だって、オレはきっと、自分からは進んで紫倉ちゃんを助けない」


「何……?」


「面倒事に首を突っこみたくないからね。今回助けたのは、もう紫倉ちゃんと友だちになったあとだったし、そーちゃんにとって紫倉ちゃんが大切な人だったからだ」


「…………」


 そういえば確かに、紫倉さんが廊下で志摩に絡まれているのを初めて見た時、羽柴は紫倉さんに手を貸そうとはしなかった。


 こいつは誰にでも気を許しているように見えて、その実、自分のテリトリーに入ってきた者以外には淡白だからな……。


「でも」


 と羽柴は続ける。


「そーちゃんは、オレや周りの奴らとは違ったでしょ。そーちゃんは、はじめっから紫倉ちゃんの味方だった。泥だらけのあの子に、そーちゃんだけが手を伸ばしたんだ。それが紫倉ちゃんにとってどれだけ特別なことだったか、そーちゃんは分かってないよ」


「……だが……」


「ていうか! あーもう、いい加減うざったいなぁ」


 カビが生えそうなくらいじめじめした俺に業を煮やしたのか、羽柴はドンッとドアを拳で叩いた。


「見方を変えろって、この前言ったばかりだろ! 中二病もいい加減にしなよ!」


「中二……っ!?」


 ふざけるな! 俺のどこが中二病だ!


 金魚のように口をぱくぱくさせて閉口する俺へ、羽柴は畳みかける。


「だってそうでしょ。『自分は他人とは違う。他人みたいに上手く出来ない、俺は繊細で感傷的だから他人と同じようには振る舞えない』――なんてセンチメンタルになってるなら、かわいそうな自分に酔ってる中二病だよ。潔癖症かつ恋煩いの上に中二病って、どんだけ患わずらうのさ!」


「な……っ。お、俺は患ってなんかない!」


「いーや。患ってるね。このままやっぱり園芸の活動に顔出すのやめるとか言ったら、五月病まで疑うからな!」


「はあ? 五月病は関係ないだろ!」


「関係あるよ。ああ、でももう五月も終わりだから六月病か。あ、あとそれだけ気にしすぎると、ストレスで不整脈にまでなるかもね!」


「~~~~っ黙っていれば好き勝手言って……俺は中二病じゃないし、五月病でも六月病でもない!」


 俺はアパート全体に響き渡るような声で叫んだ。


「出ればいいんだろう! 明日も明後日も! 温室に行くし活動だってちゃんとする! 潔癖症だって治してやるから、黙って見てろ!!」


「おっ。……言ったねー? 約束だよ」


「ああ、望むところ……だ……」


 しめたと言わんばかりに目を輝かせた羽柴を見て、俺の熱くなった頭は急速に冷却された。途端に、してやられたという感情がこみ上げてきて顔が赤くなった。


「……っ羽柴! お前今、言質とったな……!?」


「えー? 何のこと? あ、でもスマホには録音した。律儀なそーちゃんはもう逃げたりしないよね?」


 最新のスマートフォンをひらひら振って見せながら、羽柴は腹黒い笑みを浮かべる。俺はこれまで以上に、羽柴のむだに整った顔面へソフト酸化水を吹きかけて殺菌してやりたくなった。


 いや、でも――――……間違っちゃいないんだろう。全ての劣等感や罪悪感を払拭する解決方法は、結局一つしかない。俺が潔癖症を治せばいいんだ。


「……ちなみにそーちゃん、恋煩いだけは否定しなかったね」


「黙れ、滅菌するぞ」


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