第16話潔癖男子の煩悶
「羽柴君……?」
「やだ、羽柴じゃん……!」
色男の登場に、志摩たちは途端に色めき立つ。
今まで女といたのか、女物の香水の匂いがする羽柴。奴はひらひらと俺たちの元へやってきたかと思うと、志摩からヒョイとタッパをかすめ取った。
「下まで声が筒抜けだよー? で、何々? これ、紫倉ちゃんの作ったクッキー? うまそー。食べてもいーい?」
羽柴に話を振られた紫倉さんは、慌てた様子で「あ、は、はいっ」と頷いた。しかし、紫倉さん以上に慌てたのは志摩だった。
「は、羽柴! ドロ子の作ったクッキーなんか食べない方がいいよ! ねぇ?」
志摩は金魚のフンの女たちに、相槌を求める。恐らくだが――――この前の廊下の一件から志摩が羽柴を異性として意識していることに気付いた取り巻き連中は「そうだよ」と同意した。
「ドロ子の作った物なんか汚いもん、食べない方がいいよぉ」
「砂が入ってて汚いかもよー?」
女子という生き物は、どこまで醜いのか。いや、今の発言は全ての女子に失礼だな。志摩たちのような奴らばかりではないだろう。
まったく、志摩たちはどこまで、紫倉さんに対して冷酷なのか――――……紫倉さん本人がいる前で、よくもまあ、そんな酷いことが言えるものだ。
そこまで考えて、ふと、先ほどの水野の言葉が俺の脳裏を過ぎった。
『お前にばい菌呼ばわりされるこっちの気分も、考えたことあんのかよ!?』
――――ぐわんぐわん。と、水野の言葉が反芻される度に、手のひらに嫌な汗がにじんでいく。俺は――……俺も所詮は、志摩たちと変わらないのだと、痛感させられた。
紫倉さんを綺麗だと思うのに、俺は生身の紫倉さんに触れたことがない。紫倉さんのクッキーだって、食べられない。それって、志摩たちが紫倉さんにしている行為と変わらないくらい、ひどいことなんじゃないか……?
愕然とする俺の耳に、羽柴の明るい声が滑りこんでくる。しかし、耳に薄い膜がはってしまったかのように、どこかぼんやりと聞こえた。
「お、いい匂い。あー、これ、ハーブクッキーでしょ」
「あ、は、はい。学校で私が育てたハーブを、使ってみたんです」
「へえー植物使うとか、紫倉ちゃんらしいねー」
開いたタッパからは香ばしい香りが漂ってくる。丸くかたどられたクッキーはこんがりと狐色をしていて、売っている物に見劣りしない。羽柴の口に吸いこまれていったクッキーは、奴の白い歯に噛みくだかれ、サクサクと小気味のいい音を立てた。
俺はその一連の動作を、まるで画面の向こう側の出来ごとのように凝視するしか出来ない。
紫倉さんがあんぐりと羽柴を眺めているのも、志摩が屈辱を受けたように鼻にしわを寄せるのも、羽柴がクッキーを嚥下するのも、すべて階段の踊り場という狭い場所で起こっているというのに、どこか遠くに感じた。
「おいしい! やっばい、紫倉ちゃん料理上手だねー!」
羽柴がそう紫倉さんに笑いかけたことによって、水中に潜っている時のようにくぐもって聞こえていた音が、元に戻った。
それと同時に、ものすごくみじめで歯がゆい気持ちに襲われた。
紫倉さんが苛められている場面に遭遇して、颯爽と現れたはずが、何をしているんだ、俺は。
本当なら俺がここで紫倉さんをカッコ良く助けるのがお約束のはずなのに、むしろ第三者の羽柴に助けられている。
…………ああ、そうか、潔癖症じゃヒーローにはなれないのか。
俺みたいに薄っぺらな言葉で「綺麗だ」と告げるだけより、羽柴みたいに態度で示した方が、ずっとずっと紫倉さんの心に響くし、彼女を笑顔に出来る……。
「ま、まったまたー。羽柴、優しーい。ドロ子のクッキー食べてあげるなんてぇー」
「いや、まじで美味しいよ? あ、でも……もしかして、志摩さんはもっと料理上手なの? じゃあオレ、志摩さんの手料理食べてみたいなぁ」
「今度作ってよ」と、羽柴が砂糖菓子よりも甘く囁く。と、志摩は頬に塗ったチーク以上に真っ赤になった。
周りの女子たちは色めき立つ。羽柴の口元は不自然なほど微笑みを浮かべていたが、奴の瞳だけは冷めていた。
……羽柴はよく分かっている。あの場で紫倉さんのクッキーを食べることで彼女はドロ子じゃないと示し、また、紫倉さんが志摩たちの反感を買ったりしないよう、志摩にも花を持たせた。
志摩が自分に気があることを見越しての思わせぶりな態度だから性質が悪いが、羽柴のお陰で、志摩たちはその場から、すんなり引いていった。
「紫倉ちゃん、大丈夫だった?」
「ほえ……あ、はい……っ。ハシバさん、ありがとうございました……っ」
恐らくあっさりと志摩たちから解放されるのは初めてだったのだろう。紫倉さんは狐につままれたような顔をしてから、九十度に頭を下げた。
「シナガセさんも、また助けて下さって……ホントに感謝してます……っ」
紫倉さんは瞳を潤ませて言った。
「ホントに……ホントに、感謝です……。私、シナガセさんがいてくれなかったら……っ」
何か言いかけて、紫倉さんはハッとしたように顔を赤らめ、言葉を喉の奥へ押しこめた。それから髪を耳にかけ
「また、情けないところを見せてしまいましたね……」
と苦笑する紫倉さんに、俺は目を合わせられなかった。
これまでと違って志摩に言い返す勇気を持った紫倉さんを、情けないなんて思わなかったし、感謝なんてされることを俺はしていない。紫倉さんのピンチを救ったのは、羽柴だ。
世渡り上手なあいつ。羽柴の処世術。羨んでも仕方ない。あいつは「潔癖症だから」と殻に閉じこもってきた俺と違って、多くの人と積極的に関わってきたから、ああいう処世術が自然と身についているんだ。だから、俺には出来ないことをあいつが出来るのは当然なんだ。
でも…………。
俺は羽柴に笑いかける紫倉さんを盗み見た。
紫倉さんのピンチは、俺が助けたかったと思うのはダメ、だろうか……?
そこまで考えて、俺は胸に自嘲を刻んだ。先ほどまで水野に言われた言葉を気にして、紫倉さんに癒されたいと思っていた俺が望むには、おこがましいな……。
「……すまないが、今日はもう帰る」
頭を冷やしたかった。
俺が帰ると告げると、紫倉さんは「え……」と呟き、心配そうに顔を覗きこんできた。
「シナガセさん、もしかして具合、悪かったんですか? すみません、私、ちっとも気がつかなくて……」
「いや、用事を思い出しただけだ。……悪いな」
俺は紫倉さんの目を見ずに言った。もちろん羽柴の顔も見ないように踵を返したのだが、背中越しに、羽柴が見透かすような視線を送ってきている気がしてならなかった。
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