第15話潔癖男子の嫌悪
揃いも揃って瞬きで扇のように風を起こせそうなまつ毛。それからプールに浸かりすぎて痛んだような髪の女たちには、見覚えがある。そいつらが紫倉さんを取り囲んでクスクス笑っている状況にも既視感があった。
……志摩と、その取り巻きか。
あいつら、また何も反論出来ない紫倉さんをいびって楽しんでいるのか。志摩たちは命の重みを知らない子供が蝶の羽をむしる時のように、残酷な笑みを浮かべていた。
俺は止めに入ろうと、階段へ一歩踏みだした。その時、紫倉さんらしくない大声が踊り場に轟く。
「……わ、たし、ドロ子じゃないです! 砂子です。志摩さんも、皆さんも……私のこと、ドロ子って呼ぶの、いい加減、やめて下さい……!」
緊張で今にも倒れてしまいそうなくらい上ずった声だった。しかし、これまでにないくらい、凛と一本筋の通った声でもあった。
普段は宙に浮いたようにふわふわした声の彼女だが……こんな声も出せるのか。いや、それより……。
あの紫倉さんが……こんな風に主張を……?
志摩たちも驚いたらしく、飼い犬に手を噛まれたような顔をしていた。しかし、すぐに眉を吊り上げて紫倉さんの肩をドンと押す。
「ドロ子のくせに生意気! 何反抗してんの? あんたいつも泥だらけじゃん! ドロ子で十分だっつーの」
「そーだよ、改名しろよ改名―」
「紫倉ドロ子で十分だよねー」
志摩たちから口々に浴びせられる暴言。それを紫倉さんは、肩にかけた鞄の持ち手を握りしめて堪えている。
白くなるくらい唇を噛みしめて俯いた紫倉さんは、それでも
「ドロ子じゃ、ないです……」
と、かき消されそうな声で言った。
「シナガセさんが、私はドロ子じゃないって言ってくれました……。だから……っ私、ドロ子なんかじゃない……っ」
……胸を突く思いがした。
俺が『ドロ子なんて言って自分をおとしめるな』と紫倉さんに言ったから、紫倉さんはこれまでと違って、大人数に囲まれても勇気を出して言い返したのか……。
そう思うと、胸のあたりが風呂に浸かったように温かくなった。紫倉さんに対して、じわじわと温かい感情がこみ上げてくる。
ああ……彼女は、『ドロ子』から一歩踏み出そうとしてるんだな。変わろうとしてるんだ。
「……言った。確かに言った」
俺はそう言いながら階段を駆け下り、紫倉さんを庇うように彼女の前に立った。いきなり現れた俺に、志摩たちは驚倒した様子を見せる。
「訂正しろ。紫倉さんはドロ子じゃない」
「……はあ?」
地を這うような声で志摩が唸った。
「ちょっと、色加瀬。またあんたなの? 関係ないじゃん。あっち行っててよ」
「シナガセ、さん……?」
紫倉さんは信じられないものを見たような顔で俺をあおいだ。それから大きな瞳を不安そうに揺らし、俺の様子をうかがう。
「聞いてらしたんですか……?」
俺は紫倉さんを安心させるべく微笑みかけた。その瞬間、紫倉さんの肩の力が抜けた。「また来てくれた……」と呟いた紫倉さんを背に隠し、俺は志摩たちへ厳しい目を向ける。
「見苦しいぞ。集団で人をいびるしか出来ないお前たちより、紫倉さんの方がずっと綺麗だ」
「黙れよ! 色加瀬だって、ドロ子のこと不潔だと思ってんでしょ? だからこの前、ドロ子が廊下で植木鉢ひっくり返した時も気絶したんじゃん!」
「……っ違う! 彼女は不潔じゃない!」
俺は志摩の言葉に、間髪いれずに噛みついた。
踊り場へ響いた俺の発言を聞いた志摩たちは、俺の剣幕に一瞬ひるんだ。しかし、何が可笑しいのか、顔を見合わせて嫌なクスクス笑いを始めた。
「ドロ子が不潔じゃない~?」
志摩は黒いラインの引かれた目尻に涙をためて言った。それからスッと細められた志摩の目は、まるで虫けらを見下ろすように蔑んだものだった。
「……何それ。潔癖症のアンタが言っても、信憑性ねーから」
「…………っ」
それは俺が気にしている、かなり痛いところだった。ピンポイントでそこを突かれ固まる俺をよそに、志摩たちはキャッキャと残酷に盛りあがる。
「ねぇねえ、そんだけ言うならさ、綺麗ってとこ、証明してみろよ。ドロ子の作った物、食えんのかよ、潔癖男子くーん?」
そう言って、志摩の取り巻きの一人が、俺の後ろにいる紫倉さんの鞄を引っ張った。「あ……っ」と、か細い声を上げて紫倉さんが抵抗するものの、鞄は奪われ、志摩の手に渡る。
紫倉さんの鞄を、志摩たちは生ごみを漁る烏のように荒らした。そしてそこからタッパに入ったクッキーを取りだし、俺の眼前に突きつける。
「あったあった。色加瀬、これさぁ、今日の調理実習でドロ子が作ってたクッキーなんだよね」
形のよいクッキーを見下ろしながら、志摩が酷薄な笑みを浮かべた。
「ドロ子が不潔じゃないって言うなら、これ、食べてみてよ。食べれるよねぇ? だって、ドロ子は綺麗なんでしょ?」
全身の毛が逆立つような猫なで声で言った志摩は、俺の胸へとタッパをぐいぐい押しつける。タッパの中でカラカラ揺れるクッキーを見ながら、俺はふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。
多分、志摩は俺が他人の料理を食えないことを誰かから聞いて知っている。知っていて、紫倉さんを傷つけるためにこんな真似をしてきているんだ……。
俺は歯噛みした。ここで俺が紫倉さんのクッキーを食わなかったら、俺が彼女へ言った「綺麗だ」という言葉に、真実味なんて欠片もない。志摩たちへ言い返した紫倉さんの勇気も無駄になる。
――――何より……紫倉さんを、傷つける……。
「……っ俺は」
「シナガセさん!」
自らを奮い立たせ「食える!」と叫ぼうとした俺を、悲鳴に近い声で遮ったのは紫倉さんだった。驚いて振り向いた俺へ、紫倉さんは首を横に振る。
「……志摩さんたちの挑発に乗らなくていいです。無視してしまえばいいんですから……っ」
「だが紫倉さ……」
「いいんです! ダイジョーブ、です。私のこと、以前シナガセさんが、キレイって言って下さったから……だから……十分なんです……ホントに……。私は、シナガセさんがそう言って下さっただけで……」
ああ、やめてくれ。そんなに無理して笑わないでくれ。
紫倉さんの目元がうっすら赤いことに気付かない俺ではないのに、紫倉さんは平気な振りをして微笑んでくる。それを見ていると、胸が膿んだようにじくじく痛んだ。
そんな俺たちに追いうちをかけるように、志摩は
「何だ、結局食べれないんでしょー? そりゃあ、ドロ子の作った汚い物なんて、食べれないもんねぇー?」
と、意地の悪い言葉を並べたてる。
……志摩が女じゃなかったら、消毒用エタノールを奴にぶちまけてやりたいくらいだ。
殺意に似た感情に襲われて、俺は腸が煮えくりかえる。だからだろうか、羽柴が階段を上ってきたことに、気付くのが遅れてしまった。
「もー、だからそーちゃん、声でかいってば」
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