第14話潔癖男子の暗雲

「やっぱ紫倉って、超可愛いよなー」


 園芸活動を始めてから一週間以上が過ぎたある日。クラスメートがまばらに散った放課後の教室で、そんな発言が聞こえてきた。


「ちょっと垢ぬけてねーとことか、処女っぽくていい。実は性格もいいらしいぜ」


「あー、俺のダチ、紫倉に顔見知りでもねーのに教科書貸してもらったってよ」


 断っておくが、別に俺は聞きたくて聞いてるんじゃない。クラスの男どもが、俺に聞こえるようわざと声を張りあげているんだ。


 その証拠に、三人くらいがうざったい視線を俺へチラチラ寄こしてきている。


 羽柴に聞いた話では俺と紫倉さんが放課後一緒にいるという噂が広まりつつあるらしいので、詮索好きの奴らが、紫倉さんの名前を出すことで俺の反応をうかがっているんだろう。


 迷惑な話だ。そう思っていると、教卓の上に座っていた水野が、好奇に満ちた目を輝かせて俺の元へ歩み寄ってきた。


「なあなあ、実際、どうなわけ? 紫倉って優しい?」


「……何で俺に聞くんだ」


 俺が素っ気なく言うと、水野は嫌な笑みを返してきた。


「とぼけんなよー。最近いつも一緒にいるじゃねぇか。色加瀬知ってるか? 紫倉って今どき珍しく化粧っ気もねーし根暗な感じだったけど、ここ数日で急に明るくなったしよ、元の素材がいいから、ファン増えてるんだぜー」


 他の奴らも似たようなことを言っては同意する。


 俺は紫倉さんの人気がここにきて急にうなぎ上りになっていることに内心焦りながら、スクールバックにペンケースやノートを放りこんだ。鞄の中で、詰めこんだ荷物が嫌な音を立てる。


 乱暴に入れすぎたか。水野たちに、動揺が伝わってなければいいが……。


 俺は横目で水野を見る。水野は変な時だけ野生の勘が働くらしく、蛇のように舌をチロリと出して笑った。


「あっりー? 何かお前、動揺してねぇ? あ、もしかして色加瀬、お前も紫倉狙い? だよなぁ。じゃなきゃ毎日一緒にいねえよなぁ」


「関係ないだろう」


 俺は速くなる鼓動を無視し、バッサリと切り捨てた。


「何? 何かムキになってね? もしかして付き合ってんの?」


 ……関係ないと言っているだろう馬鹿め! 話が通じないのか! 滅菌するぞ!


 目立ちたがりの気質がある水野は、廊下の一件で一気に注目を浴びることになってしまった俺に浮上したスキャンダルを暴き、あわよくば吹聴して自分が注目を得ようとしているのだろう。

 俺から真相を聞くまでは、靴の裏に貼りついたガムのごとく粘着してくる気満々だった。


 うるさいハエと化した水野を追っ払うには、「園芸の手伝いをしているだけだ」とバラしてしまうのが早いのだろう。が、俺だって詮索されるのは好きではない。俺はひたすら奴を突っぱねることにした。


「お前には関係ないと言ってるだろう。何度も言わせるな。俺はもう行く」


 俺はスクールバックを肩に掛け、完全に話を断ち切ろうとする。


 すると俺のすげない物言いに業を煮やした水野は、なぜか聞き分けのない部下をいさめるような口調で「まあまあ」とほざき、また嫌な笑いを口元に貼りつけた。


 挙げ句


「そう勿体ぶんなよ。ドロ子と潔癖男子が、どういう関係だよ」


 と失礼な質問の仕方をし、俺の肩に腕を回そうとしてきた。俺はその手を反射的にはじく。


「触るな」


 唇からは、胃の腑が凍るような声が滑りでた。


 しかし実際に凍りついたのは、室内の空気だった。


 それまではいじられキャラをいびっている時のような、独特のへらへらした空気が教室に蔓延っていたが、それが俺の一言によって一気に冷却された。


「……はあ……?」


 手を払い落された水野は、自尊心をたいそう傷つけられたようだった。そばにあった関係ないクラスメートの机を蹴り飛ばし、散らばった教科書を踏みわけ鬼のような形相で食ってかかってくる。


「……『触るな』って何だよ色加瀬! 人のこと汚いもん扱いしてんじゃねえぞ!」


 坊主頭のこめかみに青筋を浮かべた水野は、俺の胸倉を掴もうと手を伸ばしてきた。

 なので、俺は持ち前の動体視力を発揮して後ろへ一歩引く。すると俺を掴み損ねた水野は、前のめりになっていたせいでバランスを崩し、床へと手をついた。


 教室に残っていた十人あまりのクラスメートが、さざ波のようにざわつき、好奇の目が一層こちらへと向く。俺は内心舌を打った。


 怒りで今にも血管がぶち千切れそうな水野は、上体を起こすと足元に散らばるノートを拾い上げ、野球部らしい速さで俺へ叩きつけようとした。が、怒りでコントロールが狂ったのか、ノートは俺の隣にあった机の足にぶつかる。


 水野は癇癪を起こしたように喚いた。


「ふざけやがって! 自意識過剰なんだよ! 他人を汚い汚いって避ける前に、てめえはどーなんですかっつー話だ! てめえだって小便も糞もするだろーが! 自分だけ綺麗だなんて思ってんなよクズ!」


 唾を吐き散らしながら怒鳴る水野は、幽鬼のようにゆらりと立ち上がる。そして何も言い返せないでいる俺へ、侮蔑的な笑いを投げかけた。


「潔癖男子君よぉ……汚染されたと思って自分だけが不快な気持ちになってるつもりか? 被害者ぶんな! てめえみたいな奴こそ、他人を不快にさせてんだよ!」


「…………」


 周りにいる誰も、何も言わなかった。


 つまり、そういうことだ。ここで水野に対する非難が飛ばないということは、皆も水野と同じ気持ちをどこかで感じているということ。


 そしてそれが普通の反応だということくらい、俺は十七年間の生活で十分に理解していた。はずなのに……。


 …………何だ、何を傷ついているんだ俺は。何で胸が軋んだりするんだ。


 ちょっと温かい場所にいただけで、罵声に対する耐性が、こんなにも弱くなるものなのか。俺の胸の柔らかい場所が、ナイフを突き立てられるような痛みを覚えた。


 それに、興奮して怒鳴る水野の姿に、母さんが被って見えてしまった。俺が高校に上がって家を出る前の、憤激した様子の母さんの姿が。


「…………っ」


「お前にばい菌呼ばわりされるこっちの気分も、考えたことあんのかよ!?」


 水野はなおも喚き、俺を責める。


 俺は反論出来ないまま、水野の怒号から逃げるように教室を後にした。背後から怒声が追いかけてきたが、聞こえていない振りをして走り去る。


 水野の発言は、大多数の人間からすれば正論なんだろう。分かってる。あいつは正しい。でも、正しい言葉が俺には辛い。あのまま聞いているのは堪えるものがあった。


 廊下を風のように走り抜け、角を曲がって階段を下りる。


 なぜだろうか。なぜか今、ものすごく紫倉さんに会いたい。あの優しい笑顔に会えば、このえぐられた心ごと、真綿のように包んでくれる気がするからだろうか。


 温室まで行かなくても、紫倉さんに会うことは叶った。人目を避けるように階段を下りていた俺は、人気のない踊り場で、紫倉さんの形の良い後頭部を見つけた。


 心なしか気分は踊り、息が弾む。砂漠でオアシスを見つけたような心地になった。


「し……」


 紫倉さん、と縋るように声をかけようとして、俺は喉の奥へ声を引っこめる。階段の踊り場には紫倉さんだけでなく女が五人おり、彼女を取り囲んでいた。

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