第8話潔癖男子の不安

学校から徒歩で十五分の距離にある新築アパート。


 その角部屋へ帰宅した俺は、チョコレート色の扉を背に、配達員から荷物の入ったダンボールを受けとっていた。


 手術用手袋をはめている俺に、中年の配達員は不審そうな目を向けたが、それを無視して玄関へ引っこむ。


 玄関にはあらかじめゴミ袋をシート代わりに敷いておいたので、俺はその上へダンボールを置く。そして室内に上がることなく、その場でダンボールの封を切り、中身だけを取りだしはじめた。


 荷物の差出人は姉だ。ダンボールに貼られたラベルには、差出人の欄に、アパートから二つ離れた街の住所が記されている。


 高校入学と共に一人暮らしを始めて以来、月に一回のペースで姉から送られてくるこの荷物。中身は親が一人暮らしの子供へ送るものと何ら変わりはなく、缶詰や栄養食品、それからティッシュや歯磨き粉などの生活消耗品が大半をしめていた。


「あとは消毒用アルコールと……ラテックス手袋……」


 医療現場以外ではあまり見慣れない物を取りだし、俺はダンボールを空にする。そのままダンボールを折り畳むと、下に敷いていたゴミ袋を風呂敷がわりにしてダンボールを包み、家を出た。


 そしてドアの横――つまりインターホンの下にダンボールを立てかけて部屋へ戻る。黙々と一連の作業を終えた俺は、扉を背に、詰めていた息を細長く吐きだした。


 仕送りはありがたいが、宅配が来るたびに、どうしてもピリピリしてしまう。


 他人がどんな風に触れたか分からないものが、家という自分のテリトリーに入ってくることにとても敏感になってしまうのだ。

 菌の侵入を許してしまう感じがして、外から来たものを、室内には出来るだけ持ちこみたくないと思ってしまう。


 だからいつも、荷物が届いた時は最小限の時間しかダンボールが屋内に留まらないよう気をつけ、ドアの横に立てかけたダンボールはゴミの日に捨てるようにしているのだが……。


 呼吸と同じくらい自然に行動を終えた後で俺の胸にのしかかるのは、自己嫌悪ばかりだった。


「……紫倉さんとの恋を実らせるためにも、潔癖症を克服しようと決めたばかりなのに、これじゃあな……」


 我ながら頭が痛くなる。しかし頭では分かっていても、行動が伴ってくれないのだ。


 潔癖症なんて、本人が一番嫌に決まってる。不潔に対する恐怖にいちいち怯えて、嫌悪感を纏わせて。


 だから汚れを気にしないようにと思うほど、余計汚れを意識してしまう。


 先行きが不安すぎて暗鬱な気分になっていると、カビの生えそうな空気を断ち切るように、シンプルな着信音が鳴った。


 携帯だ。


 外の物をなるべく持ちこみたくないという俺の意向には携帯電話も含まれている。


 そのため、バクテリアが繁殖しやすい携帯を、俺は帰宅してすぐに消毒し、寝室から一番遠い靴箱の上に置いて表面を乾かしていたのだが……。


 液晶画面に映る発信者の名前を確認した俺は、消毒中の携帯を嫌々手に取り、通話ボタンを押した。


「もしもし」


『あーっ。やっと出たぁ!』


 電話口の向こうで甲高い声を上げたのは、九つも年の離れた姉さんだった。


 父の眼科で受付として働く姉さんは、午前の診察と午後の診察の間にある長い空き時間を利用して、しばしば電話をかけてくる。


 姉さんは俺が帰宅部で基本四時には帰宅していることを把握しているので、たいがい四時に電話してきて、午後診の始まる四時半に電話を切りあげるのが常だった。


『湊多ーアタシが送った荷物、ちゃんと届いたぁ?』


「はい、ちゃんと。いつもありがとうございます」


 姿の見えない姉へ向かって頭を下げる。寝室へと続く廊下に、俺の無機質な声が木霊した。


 声色だけでも大輪のように華やかなオーラを放つ姉さんは、事務的な口調の俺をたしなめる。


『いーやーだー。お姉ちゃんに向かってなぁに、その他人行儀ぃー』


「すみません」


『だから、その敬語が嫌なのぉーっ』


 艶やかなルージュを引いた唇を尖らせ、ぷりぷりと怒っている姉さんの姿が目に浮かぶ。


 俺と同じで涼やかな目元の持ち主である姉さんは、花魁のように艶っぽい見た目とは反して、口を開くと良くも悪くも天真爛漫な子どもそのものだった。


 俺は高校受験の年まで、そんな奔放な姉さんとあまり家族らしい会話をしたことがなかったように思うのだが、俺が高校入学と同時に一人暮らしをするようになってから、彼女はちょくちょく俺を構うようになった。


『湊多、冷たぁい。お姉ちゃんのこと嫌いなのぉ?』


 姉さんはわざとらしくいじけた。のの字を書いている姿が容易に想像出来る。


 これは電話でのいつものパターンで、くだらない質問だと一蹴すると姉さんは長々と愚痴りはじめる。だから俺は「嫌いなわけないでしょう」と、短く無難な答えを返した。


 しかし姉さんは俺の安い返事を信じてくれなかったようで


『その割には湊多ったら家を出て以来、全然会いにきてくれないじゃなーい!』


 と、結局不満を爆発させた。


 さらに、そろそろ仕事の休憩時間も終わるだろうに、浮気を疑う妻のようなぼやきを零してくる。


『分かってるのよ……。やっぱり湊多、アタシのこと恨んでるんでしょ……だから会いに来てくれないんでしょ……』


「……は?」


 突拍子もない発言についていけない俺を置いて、姉さんは申し開きのようにぽつぽつと漏らし始めた。


『……これでもお姉ちゃん、悪かったって反省してるのに……。湊多がひどい潔癖症になるまで、気付かずにほったらかしにしてたこと』


「……ああ、そのことですか」


『その敬語、やめてったらぁ!』


 姉さんは酔っ払いのように喚いてから、しおれた声で続ける。


『……父さんも母さんも仕事が忙しかったから、湊多の面倒はアタシに任されていたのに……あの頃はアタシも若かったから、男と遊んでばっかでろくに家にいなかったでしょ? 幼い湊多を一人残して、寂しい思いさせたなって後悔してるのよ』


 ……だから罪滅ぼしのために、今になって俺へ仕送りしたり、目をかけているというわけか。


 大方予想はついていたが、姉さんの発言で得心がいった。


 反応を示さない俺を怪訝に思ったのか、姉さんは『湊多?』と呼びかけてくる。


 俺は姉さんに聞こえないよう、ひっそり息を吐いてから、平静さを心がけて口を開いた。


「姉さんが罪悪感に苛まれる必要なんてありませんし、まして恨んでなんかいませんよ。俺が家に顔を出さないのは、姉さんのせいじゃなくて……」


『アタシのせいじゃなくて?』


 俺は一拍の間黙りこんだ。いくら姉さんでも、言わなければ気付かないほど鈍感ではないだろうに。


「……姉さんだって、俺が家を避ける理由、本当は薄々気づいているでしょう」


 自分のものとは思えないほど、俺の声が冷たさをたたえた。


 こうして姉の電話にはしっかり出るのに、毎回予定が合わないだのと理由をつけ、家に帰らない訳は一つしかない。


「母さんたちが俺の顔を見たくないと思うので、遠慮してるんです」


 お喋りな姉さんを固まらせるほどの冷やかさを孕んだ言葉は、余計なことに俺の繊細な部分まで、氷柱となって刺していった。


 家を出てしばらく経つのに、俺も女々しいな。


 ……俺が潔癖症になって失ったものは、何も男子学生としての甘い青春だけじゃない。


 潔癖症の俺に対して、母さんは憤って泣き、父さんは家を出て行くよう頼み、俺は家族との『普通』の日常生活を失った。


 それに対して怒りはない。他人を不快にさせるほど異常な潔癖症の俺に原因があると思っているからだ。

 だから、どうして不潔恐怖症に理解を示してくれないのかと責任転嫁もしたりしない。


 けれど……。


「望まれていない場所へは、帰れません」


 厭われている場所へ自ら戻り、傷つく気もなかった。


『……湊多……』


 電話越しに姉さんが何か言いかける気配がしたが、彼女は台詞の代わりに、年相応の溜息を漏らすだけに留まった。


 てっきりしぶとく食い下がるかと思ったが、言動が子供っぽくてもやはり年上の女性だ。姉さんは俺が譲る気はないと悟ったようだった。


『まあ……湊多が家を出る前の母さんたちの様子を思えば、湊多が家に顔を出しづらい気持ちも分かるけど……』


 姉さんは渋い茶を飲んだように言った。


 最後に会った時から化粧が変わってなければ、ブラウンのアイシャドーが塗られた姉さんの瞼の裏には、俺が家を出る前の、崩壊した家庭の様子が浮かんでいるに違いない。


『……今回は、大人しく引くわ。でも、気が向いたら、いつでも帰ってきてよね!』


「…………はい」


 形だけの返事をし、俺は耳元から携帯を離した。


 しかし電話を切る間際に、受話口から姉さんらしくもない寂しげな声で


『湊多、今は何言っても聞き入れてくれないと思うけど……父さんも母さんも、湊多を追い出したこと、後悔してるんだからね』


 と諭してきたので、俺は苦虫を噛みつぶしたような顔で電源ボタンを押すはめになった。


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